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原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「発達障害」は、気付く人は気づく

2023年05月06日 | その他オピニオン
 今朝ネット情報を閲覧していて、久々に「発達障害」の話題を発見した。


 早速、「発達障害で『バカにされてきた僕』TOEIC945点が導いた仕事」と題するネット情報の一部を、以下に引用しよう。

 A-stories 発達「障害」でなくなる日
 9年前の4月の、夕方だった。
 暗くなり始めたリビングで、大学院生だった男性(32)は電気もつけず、ソファにうずくまり、ガタガタと震えていた。
 パートの仕事から帰宅した母が、驚いて声をかけると「お母さん、ちょっと、学校に行けない。修士論文が、間に合わない」と声をしぼりだした。
 母がわけをたずねると、せきを切ったように話し出した。
 大学院でのけ者扱いされていること。大学生活も、就活もうまくいかず、ふとんをかぶって泣いていたこと。高校生の時も、こどものときも、ずっとずっとひとりぼっちだったこと……。
 「みんなが僕をバカにする」
 その日を境に、言葉が、でなくなった。
      ◇
 小さいころから、自分は他の人と違うのかな、とは感じていた。
 同級生の雑談に、自分だけ入れない。せっかく輪に入っても、周りの音に気を取られたり、一生懸命受け答えを考えたりしているうちに、いつしか次の話題へとうつっていた。
 小学5年から7年間過ごしたアメリカでも、話そうとすると「え? 何いってるの?」と、嫌な顔で何度も聞き返された。
 昼休みはいつもひとり。トイレの個室でランチを食べる日もあった。
 ひとりのほうが気楽だけど、「ふつう」になりたい気持ちもあって、揺れ動いた。
 帰国後、英語だけで受験ができる超難関の私立大学に合格した。実家を離れて学生寮に入り、サークル活動も始めた。
 「新しい自分」をスタートできると思った。両親にも「大学生活を楽しんでいる」と伝えていた。
 でも、現実はそんなバラ色じゃなかった。
 雑談できずひとりぼっち、つまずいた就活。

 (以上、今朝見たネット情報の一部を引用したもの。)



 最近我がエッセイ集に於いて、「発達障害」の話題に触れることが激減しているが。

 私が高齢出産で産んだ一人娘が「発達障害」を抱える身だ。
 その分野の専門家筋の診断が下されているし、また元教育者でもある我が感覚でも我が娘が「発達障害」であることには間違いない。

 「発達障害」もその特質に多様性があるのだが。
 我が娘の場合は“極度の寡黙性”がその一番の特徴であるため、一見あるいは少しだけ接する分には、「発達障害」がバレにくいかもしれない。
 何よりも我が家の場合は、我が子が幼い時期に母親の私が娘の「発達障害」に気付き対策に専念して来たため、その努力が報われている部分も大きいだろう。


 娘の「発達障害」の状況を母の私自身が確認しておくべきと、私は娘の大学の卒論発表会に親としては大変珍しく出席したことがある。
 その時に娘の卒論指導教授氏とご挨拶がてら少しお話しする機会があったのだが。
 我が一番の関心は、娘の「発達障害」が大学現場でバレているか否か??だった。
 その結論としては、やはり“バレてるなあ…”だったと言えよう。

 娘が自ら卒論指導者として選んだ教授氏は、当時60代後半程のベテラン高齢男性だったのだが。
 この方が素晴らしく“出来た方”だった事実に、私は娘の指導者選択能力が冴えている事実を悟り、驚くやら嬉しいやらだった。

 とにかく私が指導教授氏に「〇〇の母ですが、卒論指導にてお世話になっております、ナンタラカンタラ…」とご挨拶に行くや否や。
 急いで立ち上がり、「もしかしたらマイクの音量が小さく設定されている恐れがありますので、壇上まで確認して参ります」とおっしゃるのだ。
 このご対応で私はすぐに把握できた。 何せ娘は言葉少ないのに加えて声が小さいのだ! その娘の発表の音声が出来るだけ聞こえるべく、設定を変更して下さった、という訳だ。

 娘の発表が終了した直後にも、わざわざ観客席の私のところまでお越し下さり、「声は十分に聞こえましたね! 発表内容もとても優れていると私は評価申し上げています。」
 このご配慮ある指導教授のお陰で、我が娘の卒論成績には優秀評価が下されたものだ。
 
 その後、卒業式の日にも指導教授が娘に「今日はお母さんはお越し下さっているのかな?」とわざわざ尋ねて下さったとの事。 この日も当然私は卒業式に出向いたのだが、行く時間が遅くなり教授氏とのご対面が叶わなかったのが残念だった。
 とにもかくにも、そんなご配慮心ある指導教授に恵まれたりしたお陰で、我が娘は無事に大学卒業が叶い、就活も無事に終了してIT技術者正社員としての就職も叶ったものだ。


 我が娘も、決して大学生活の全てが“バラ色”であるはずは無かったのだろうが…
 少なくとも卒論指導教授には恵まれていた事実を、母の私が把握出来ている。

 そんな娘なりの成功体験が功を奏して。
 「発達障害」を抱えている身であれ、その後の就職、そして現在の娘の生き様に繋がっているものと母の私は嬉しく思っている。 

 いやいや我が娘とは、人生に於いて付き合わねばならない“肝心要”の相手(例えば「卒論指導教授」や「就職先の社長」等々)の人物像を観察する眼力に長けていると、私は唸らせてもらっている。
 
 これも、サリバン母の我が教育力・影響力の賜物か?!?? 😜 


区営「みどりバス」の“拡充”よりも、区民の “利用しやすさ” の工夫を

2023年04月18日 | その他オピニオン
 原左都子が住む都内某区でも、4月23日(日)に区議会議員選挙が控えている。


 我が家の集合住宅の南面が町内の幹線道路に当たるのだが、ここのところ日々“選挙カー”がスピーカーで選挙運動の真っ最中だ。

 昨日の日曜日に、その一つの選挙カーに乗った女性候補者がスピーカーで訴えるには。
 「みどりバスの“拡充”を実現します!」
 
 「拡充」という事は、今後もっとバス数を増やすという意味か???



 このみどりバスに、私も“左膝複雑骨折”の通院でしばらくお世話になった。

 手術後間もない頃は、ずっとタクシーにて病院通いを続けたのだが。
 松葉杖が何とか利用可能になって以降は、みどりバスを利用して病院まで直通で通った。

 その乗車のレポートを当該エッセイ集内にても、幾度か公開しているが。
 今一度乗車の感想を述べるならば、とにかく、高齢者や身障者でない限り“利用しにくい”の一言である。
 いえ、この私とてれっきとした「高齢者(65歳以上との意味合い)」なのだが、自分で言うのもなんだが どう見ても高齢者に見えない事実を自覚できている。😜 😖 
 そこで、いつも乗車する時には運転手氏に「運転免許証」を提示しつつ「65歳以上です」と声高々に訴えることにしていた。

 それでも、バス車内で大いなる違和感を抱き続けるはめとなった。
 一応「松葉杖」をついているため、乗車している皆さんには“脚が不自由である事実”は伝わったであろう。
 ところがどう贔屓目に見ても、この私が突出して一番若い?!?!
 車内を見渡すと、地味な服を着たお年寄りばかりだ。 そんなお年寄りが乗車してくると、たとえ脚が不自由でも席を譲らねばならない義務感でがんじがらめになったものだ。(実際には、座ったり立ったりの動作に難儀するため、返って迷惑かと考えて病院まで座っていたのだが…)
 
 そこで松葉杖を病院へ返却して後は、みどりバスの利用を一切合切やめて、電車にての通院にきっぱりと切り替えた。(事前に、自主訓練を何度もやりました。)
 この方が、ずっと気が楽だからに他ならない。



 そんな“みどりバス”経験をつい最近までした私としては。

 我が家の近くにて「みどりバス拡充」を訴えていた区議会選挙立候補者に、一言物申したい。

 “拡充”よりも、区民が真に利用しやすい「みどりバス」であって欲しいと。

 これには、他にも理由がある。
 現在のところ、「みどりバス」の利用者数自体は 朝夕の混雑時を除けばさほど多くないのだ。
 
 現在のみどりバス内の光景とは、まるで“老人用福祉バス”なのだが。
 これを、それこそもっと乗客層を拡大して、真なる福祉バスとなるような体制づくりを願いたいものだ。
 例えば、私のように“骨折で病院通いをしたい市民”等も肩身の狭い思いをせずに安心して乗車できるような体制等々。 



 昨日も大規模公園内をウォーキングしていると、すぐ隣の道路を「みどりバス」が通り過ぎた。 
 ちょっとバス内を覗いてみると、やはりバス客は少数だった。

 区議会議員氏の言う「拡充」の意味も不明だが。
 
 せっかく運営している区民のための「みどりバス」を、もっと多くの区民が有効活用できる方向性で区は改革を進めて欲しいものだ。


今時の子どもは電話を使わないらしい

2023年03月21日 | その他オピニオン
 かく言うこの原左都子も、昔から“電話嫌い”だった。


 とは言っても 既に高齢域に達している我が人生に於いて、「電話」というものを使用し始めたのは、子ども時代の比較的大きくなって以降だ。

 過疎地出身の我が小学生時代を振り返るに、自宅に電話を引いているのは商売をしていたり、金持ちの家と相場が決まっていたものだ。
 当時は、それらの家に電話が掛かってきたのをわざわざその家の方が伝えに来てくれて、そのお家まで伺って電話をさせてもらったりしたものだ。

 サラリーマン家庭(我が家の場合は両親が公務員だった)である我が家など、家に電話を引いたのは私が中学生の頃だった。
 その当時から、特段の電話好きでも無かった私の電話利用度合いは低かった記憶がある。


 
 朝日新聞2023.03.19付「天声人語」は、その“電話”にからむ話題だった。
 さっそく以下に一部を要約引用しよう。

 昨年の小中高生の自殺者が514人だったという厚労省の発表にやりきれない思いがした。 統計のある1980年以降で、最も多い数値だ。
 学業不振や進路の悩み、友達や親との不和といった原因から見えるのは、将来への不安と支える人の不在だ。 
 相談する場だ必要だが、その窓口が電話主体であることについて、某NPOが貴重な指摘をしている。 今の子どもは電話を使わない。 友人との会話もSNSなのに、深刻な悩みを電話で打ち明けられるのだろうかと。
 求められているのは声より、チャットによる文字のやり取りなのだ。 子どもの伝達手段が進化しても、受け止める大人が追い付けているか。 希望が持てる社会に出来ていないことにも、責任を感じる。

 (以下略すが、以上、朝日新聞「天声人語」より一部を引用したもの。)



 そうだよなあ。
 既に電話を頻繁に使用する文化が子供たちの間に無いにもかかわらず、確かに、「自殺防止相談」等々は未だにその受け皿として電話を使用している。
 その時代錯誤措置は一体どうしたことなのだろう?
 おそらく、受け手である大人側の都合なのであろう。 どう贔屓目に見ても、電話口に出るおばさん、おじさん達が、流暢にチャットをこなせそうもない。 😖 😱 

 本気で子供たちを救いたいのならば、ここは本気で「自殺相談」等の在り方を見直すべきだろう。
 相談員側こそが現代の子供たちに合わせて、チャットでテキパキとやり取りできたならば、増え続ける子供の自殺者を激減可能となるのかもしれない。


 
 最後に原左都子の電話にまつわる余談を書かせて頂こう。

 冒頭にて公開した通り、この私は子供の頃から“電話嫌い”である。
 この感覚は今尚続いていて、特に自分にとって重要性の低い人種からの電話を毛嫌いしつつ生きてきている。
 比較的近い過去の事例を語るならば、例えば一人娘の大学受験時に多発した予備校・塾等々からの勧誘電話ほど鬱陶しいものは無かった。
 そんなものに一切依存せずとて、親の私がずっと娘の“サリバン業(お抱え家庭教師)”を全うしていたにもかかわらず、(私よりも学力レベルの低そうな塾等の)くだらない勧誘の実に鬱陶しかったこと!
 あまりにもうるさくて、電話口で大喧嘩を売ったこともあった。(相手も負けていなかったが。)😵 

 近年では、認知症かつ難聴の義母の電話が正直言って実に迷惑だった。
 これに関しては、義母側が「(嫁である)私の声が電話では聞こえにくい」とのことで、電話対応を無罪放免してもらって清々している。

 逆に、好意を抱いている相手の電話の声が“美声”だったりするパターンもあるのだが。
 これには無条件にうっとりさせられたりする身勝手な私だ。😜 

 
 何はともあれ、子どもの命がかかっている相談窓口などの場合は、“今時の子どもが電話を使わない” との習性に即座に対応できる大人側の本気の体制作りに期待したいものだ。
 

選抜高校野球会場で 選手が相手のエラーに“ペッパーミル”は、やっぱり失礼かも

2023年03月19日 | その他オピニオン
 現在、春のセンバツ高校野球大会が甲子園球場にて開催されている。

 余談だが。 今年の春の大会には我が郷里の出身高校が“21世紀枠”にて出場するとの事で、多少の興味を抱きつつその開幕を楽しみにしていた。
 (参考だが、その郷里の我が出身高校は県内一の“進学校”であるにもかかわらず、わずか部員13名で県大会を勝ち抜きベスト4入りをしたとの話題もあるようだ。 野球強豪校が多い県内でのその業績は、捨ておけないかもしれない。 ただ甲子園大会ともなればそう甘くもないだろうと考えつつ、一回戦を密かに楽しみにしている私でもある。)


 さて、話題を表題に戻そう。

 今朝方見たネット情報を以下に引用しよう。

 青学大・原駅伝監督、センバツの『ペッパーミル注意騒動』に私見 「いまだにこんな管理者いるんだ⁉」高校球児にエール

 青学大の原晋駅伝監督が18日 自身のツイッターを更新。この日開幕した第95回センバツ高校野球大会(甲子園)で、試合中にワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表で話題のペッパーミル・パフォーマンスを行った選手、チームを審判員が注意したことについて私見をつづった。

 開幕試合だった東北(宮城)―山梨学院戦の1回に、敵失で出塁した東北の選手が一塁ベース上でミルを回すパフォーマンスを行い、ベンチのナインも同じポーズで応えた。イニング終了後に一塁塁審から注意され、以降は行わなかった。

 原監督はこの一件を報じるネット記事を引用した上で、「いまだにこんな管理者(審判)いるんだ⁉ 世の中個性を大切にしようと言っているのに、他者を侮辱行為してないパフォーマンスに対して制限するなんて不思議でならない」と指摘。そして「負けるな高校球児! 高校野球は君たちの為にあるのだから!」とエールを送った。

 この騒動については試合後からネット上でも賛否が飛び交い、「大目に見てもいいと思う」、「時代錯誤」など球児を擁護する声や、「相手のエラーでペッパーミルは煽りでしょ」、「リスペクトに欠けている」など反対する書き込みも見られた。

 日本高野連は「不要なパフォーマンスやジェスチャーは従来より慎むようお願いしてきました。プレーで楽しんでほしいというのが当連盟の考え方です」などの見解を示している。


 (以上、ネット情報より引用したもの。)



 原左都子の感想に入ろう。

 青学大・原駅伝監督ねえ。 
 いろんなところに首を突っ込んできて、御自身のご意見を述べたい方のようだ。😖 😷 

 で、原監督としては、「センバツ試合の途中で出場選手が一塁ベース上でミルを回すパフォーマンスを行い、ベンチのナインも同じポーズで応えた。イニング終了後に一塁塁審から注意された」 との“事件”に関して。
 「「いまだにこんな管理者(審判)いるんだ⁉」と、それを注意した審判批判を展開している訳だが。

 という事は、もしも箱根駅伝大会で原監督率いる青学チームが他チームより“ペッパーミル・パフォーマンス”を受けて中傷されようが、どんどんやって下さい! って訳ね???



 今回の、そのセンバツ試合中の“ペッパーミル事件”とは、相手チームのエラーに対しての誹謗中傷目的で行われたとのふしもあるようなのだが。 
 そうなると、大きく意味合いが違ってくるのではあるまいか??

 私がWBC大会にて垣間見る日本チームによる“ペッパーミル・パフォーマンスとは、あくまでも自チームの素晴らしい活躍に対してなされているパフォーマンスと判断している。
 それだからこそ、これ程の世のプラスの反響を誘い世界中で流行しているのではあるまいか?

 そもそも、高校野球大会とは未成年(WBCにも未成年選手が出場して素晴らしい活躍を成しているが)同士の試合である。
 原左都子の感覚としては、そんな年端も行かない高校生同士の競技中に、相手のミスをせせら笑うがごとくの“ペッパーミル・パフォーマンス”は不要と判断したい。

 との理由で、今回の選抜大会内審判者の“ペッパーミル・パフォーマンス”行為への注意”に関しては、正当だったと結論付ける。


 何と言っても、あの“ペッパーミル・パフォーマンス”とは、やっぱり世界を席巻した選手達がやるからこそ値打ちがあり、公の場での披露が許されるパフォーマンスであるような気もする。


 (途中 大文字になっている箇所がありますが、単に編集画面の誤反応であり、原左都子と致しましては何らの意図もございません。) 



我が子の名前は決して“キラキラネーム”ではないが、周りの誤解に苦労した時期があった

2023年02月03日 | その他オピニオン
 冒頭から、表題に関するネット情報の一部を引用しよう。


 
 キラキラネームに一定の制約「一般的な読み方を」 法改正要綱案
  2/2(木) 14:46配信


 戸籍の氏名に読み仮名を記載する戸籍法改正の要綱案を取りまとめた法制審議会の部会=法務省で2023年2月2日午後1時26分

 国民の親族関係を証明する「戸籍」に氏名の読み仮名を記す初のルールを検討してきた法制審議会(法相の諮問機関)の部会は2日、戸籍法の改正要綱案をまとめた。 漢字本来の読み方と異なる「キラキラネーム」をどこまで許容するかが注目されたが、反社会的だったり差別的だったりする読み方に一定の制約を設ける内容となった。近く法制審総会で最終協議し、法相に答申する予定。政府は今通常国会への法案提出を目指す。 
  現行の戸籍法には氏名の読み仮名に関する規定がないが、行政のデジタル化を進める上で戸籍に読み仮名を付すことをルール化する必要が生じ、部会が新制度を検討してきた。  今回の要綱案はまず、戸籍に記載する読み仮名はカタカナで表記すると規定。 記載できる読み仮名については「氏名として用いられる文字の読み方として一般に認められているものでなければならない」とのルールを明記した。  具体的にどんな読み仮名が「一般に認められている」と言えるかは、法改正が実現すれば、法務省が市区町村に通達で周知する見込みで、同省は「漢字の読み方が社会で受け入れられ、慣用的に使われていることや、常用漢字表や漢和辞典に掲載されていることが基準」とする。 また、「辞書に掲載されていなくても、届け出人に説明を求めた上で一般に認められていると言えるかどうかを判断することもある」としている。  一般に認められている範囲なら、本来の読み方以外も認められることになるが、反社会的、差別的、淫らな読み方▽人の名前として違和感のあるキャラクターの名前▽漢字と反対の意味▽読み違い、書き違いと受け取られる読み方▽漢字から全く連想できない読み方――は認められない可能性があるとする。  また、要綱案は記載する読み仮名について、「氏」は戸籍の筆頭者▽「名」は戸籍記載者の全員――が改正戸籍法の施行日から1年以内に市区町村に届け出ることができるとした。届け出がない場合は、市区町村長が住民基本台帳に登録された読み仮名を参考に記載する。台帳と異なる読み仮名の届け出があった場合は台帳が修正されることになるという。

 (以上、ネット情報より引用したもの。)




 原左都子の私事及び私見に入ろう。

 「原左都子エッセイ集」長きに渡る読者の皆様はご存じだろうが。
 我が一人娘の名前も、かなり特異的だ。

 私が学生時代に没頭した学問より引用し、晩婚後亭主もその命名案に同意をして名付けた、私としては“素晴らしい命名”なのだが…

 当時、世の反応は厳しかった…

 漢字の当て字を使用せず、古代ギリシャ哲学より引用したその言語の本来の意味合いを最大限活かしたく考え、カタカナにて命名したのだが。
 当時一番多かった反応は、「両親のどちらかが外国人ですか?」だった。😭 😖 

 娘が幼稚園や小学校へ入園した直後には、園児や児童たちより「変な名前」なる容赦無いバッシングが届けられたものだ。😵 

 ただ 娘が私立中高へ入学後は、ガラリと反応が変化した。
 特に、授業中に例えば「現代社会」の担当教師氏が娘の名前を取り上げ、「プラトン哲学」を語ったりしてくれたようだ。

 娘が大学生になった頃には、周りの反応が好意的になって来て。

 大学4年時の就活に於いては。
 面接担当者が娘の名前を見ながら「お父さんの職業は何ですか? お母さんは何をされていますか?」などと尋ねて下さった際に。 娘が「この名前は母が名付けました」と明言したとの話題を聞いて、命名者としては“やっと日の目を見た”思いだった。

 という訳で 我が家の場合は今となっては娘の命名に関し物議を醸す事態を免れていて、落ち着いている。



 さて、話題を冒頭の“キラキラネーム”に戻そう。

 私自身が上述の如く、我が子の命名にはかなりこだわった人間であるが故に。
 親が我が子に如何なる名前を贈ろうが、好きにすればよいのであろうとも思いつつ。
 
 確かに、その名で我が子の価値を敢えて下げているかのような名前に出くわすことも多いこの頃だ。😫 


 今回の法制審議会にてキラキラネームに一定の制約を設けた事実は、それを名付けられた子ども本人の立場に立ち戻った場合の迷惑度等を考察するに。 
 ある程度の有効性があるかと評価する。