突 破[ブレーク・スルー]
(第八回)
「それよりさ、お母さんどうなのよ」
単刀直入に要点を突き、智代が訊ねる。無愛想で可愛げが全くない・・と、圭介は姉の顔を窺って見る。
「…、余りよくはないんだ。三島先生は…、母さんの担当医なんだけどね、早急に手術する必要があるとおっしゃってね…」
「で、治るの?」と、またも矢継ぎばやに迫られては、流石に圭介も、『おい、ちょっと待ってくれよ!』と、腹立たしく思った。早急に事を構えるのは姉の性格である。圭介もそれは分かっているのだが、事が事だけに、出来るだけ穏便に進めたいと思っていた矢先なのだ。だから、少しだが腹も立ってくる。とにかく、その気持ちを押さえつけつつコップの水を少し飲んで、
「…最前は尽くすとは云っておられたが、…なにせ進行性の癌だからとも。今日明日、どうこうってことはないらしいけど、覚悟はしておいた方がよいと、まあそういう云い方をしておられた…」
「あなた、肝心のこと云ってないわよ。癌は分かったけど、どこが悪いのよ?」
「あっ! そうだったか? 胃癌で、ステージ、進行段階なんだそうだが、初期じゃあない」
「そうなの…、それで母さんには?」
「胃潰瘍と云ってある…」
「私は塾があるから、あなたが主になって看てやってね。勿論、私もそれなりに付き添うから」と、幾分か優しく云う智代である。
突 破[ブレーク・スルー]
(第七回)
即ち、患者の死への恐怖心を煽るべきでないとする否定論、余命を明確に伝えることにより、患者に残された余生を有意義に生きて貰おうという肯定論である。
孰(いず)れが是で孰れが否なのか・・は見解が分かれるところだが、圭介は告知が宣告にも等しいと考え、最後までしないでおこう…と、考えていた。
━━ それは、余りに酷(むご)過ぎる… ━━
母を欺くこと、それは取りも直さず自分を欺くことである。だが彼は、ただそうしよう、そうすべきだ…と巡っていた。
ガーリック・トースト、コーヒー、ゆで卵、それに蜜柑の半切り&ミニサラダが一セットになった朝のサービスメニューは、ほどよい腹具合にする。以前にも入ったことのあるこの店は、病院から丁度もってこいと云える好都合な距離にあった。圭介が人心地ついた頃、姉の智代が店にやってきた。学習塾を経営するというなかなかの才女で、やや高慢ちきな眼鏡を会話の都度、弄る仕草が気に入らない圭介なのだが、母の病状報告と今後の対処法について相談せねばならない時であり、姉の一挙手一投足をとやかく云っていられる場合ではなかった。唯一の近親者として、今日は三島と会わねばならない。
「姉さん、モーニング、注文しようか?」
「いいわ、軽く済ませてきたから…」
対峙して座った智代へ、開口一番、下手に出たのだが、云わぬ方がよかった、と圭介は後悔した。軽いジャブを出して、逆にアッパーを食らった気がした。
突 破[ブレーク・スルー]
(第六回)
目覚めた圭介にと、母が作りテーブルへと置いたハムエッグ、トースト、サラダも、今朝は殺風景で何一つとしてない。圭介が二階からぼんやり下りて来ると、「早くしないと遅れるよ!」と、恰(あたか)も小児の登校を促すように昌が云って、「ああ…」と無造作に返していた昨日までの原風景が消滅している。しーんと静まり返る部屋で、冷蔵庫を思慮なく意味がないのに、敢えて開いたりする。朝刊も恐らく新聞受けに入ったままだろう。一日は疾うに始まっているのに、圭介を取り囲む空間は、未だ眠りの淵にある。休むと云ってある余裕からか、
━━ 別に慌てなくてもいいか。…だが、姉さんに十時と云ってあるからな ━━
などと考える圭介であった。
姉の智代とは四つ違いなのだが、母にも、そして姉にも、未だに子ども扱いの語り口調で完全に嘗められている圭介なのだ。会社では課長以上の次長職にまで出世して部下を叱咤する身だというのに、身内には蛇に睨まれた蛙状態で、さっぱりなのである。
九時前、圭介は喫茶店に一人、窓際のボックス席に座り、モーニングの軽食をとっていた。姉とはこの喫茶店で落ち合うことになっている。その際、昌の病状について詳細を語るつもりだ。携帯で、母が入院したことまでは云ったが、詳細について語ってはいない。姉のいらぬ心配から、昌が気づくのを恐れてのことだが、それとて、告知せぬのが善なのか…と、分別に苛(さいな)まれる圭介なのである。
告知については、特に癌患者のそれについては、是非の論が二分している。
突 破[ブレーク・スルー]
(第五回)
母に対して、背を180度回転させたとき、圭介の面持ちは心なしか曇っていた。
行きつけのファミレスで簡単な夕食を済ませ、ふと腕を見る。既に六時は回っている。自宅に戻る気分も希薄で、パチンコへと心が急いた。
いつもならば集中力を浴びせて、大よその場合は箱の一つや二つは積む圭介なのだが、今日は何故か駄目だ。サラリーマン医師のような三島の宣告の声が、今時分になって氷解し、身体中を駆け巡る。焦り踠(もが)くほど、台の銀球はズンズン減少する。継ぎ足しても確変が来ない。何かが違うが、違うのは自分だと圭介は思っていない。そして、結果は惨憺(さんたん)たるものとなった。
━━ こんなこたぁ、今までなかった… ━━
帰り道に、そう巡る圭介であった。
そんなこんなで朝となり、目覚めた折りにも熟睡感がない。心の片隅には三島の声があり、不安感から浅い睡眠に終始したのだ…。ブラックの濃いコーヒーを啜りながら、虚ろに圭介はそう思った。
会社へは事情が既に云ってあり、課長の倉持も、「次長、どうぞ…」と協力的だったので、二日ほど休ませて貰うとは告げた。だが、部長が傍らの席で睨みを利かしている手前、倉持にも部長の前で一応の了解を取った方が出世的に得策だと閃いて、
「申し訳ないが、そういうことだから宜しく頼むよ…」と発したのだ。
突 破[ブレーク・スルー]
(第四回)
昌は検査入院ということで、内科病棟のベッドを宛がわれ入院の運びとなったが、差し当たっては、洗面、入浴、着替えの下着、ナースや医師への心づけなどが必要なのは、メモを見なくても圭介には分かっている。
繁華街を抜け郊外へ出ると、車の渋滞を気にするほどでもなくなった。漸く最近買い求めた一戸建ての住居へ着くと、そそくさと必要品を荷繕いする。そして、リターン・エースのテニス球になった心境で病院へ、とって返した。荷を車へ積み込み、エンジンキーを勢いよく回したとき、財布の中身から発想が及んで、銀行のキャッシュカードを入れ忘れたのに気づき、また家の中へ戻ったりしている。要は、冷静なようでいて、その実、心のどこかでは動転している訳だ。昌が癌だと医師に宣告されたときからの動転である。必死に心の深層を氷結させ、坦々とコトに処してはいるが、実のところは号泣したい気分なのであった。燭台に揺れる蝋燭の炎を写真に撮ったとき、その焼き付けられた一枚の写真の気分なのだ。実際の炎は揺らめいている。が、撮られた写真はその揺れを止めて静止している。その違いだった。
病院に着いて(1)入院手続き、(2)昌に云われてスーパーで買い求めた見舞い客渡し用のコーヒー缶、(3)…その他の雑事を済ませると、既に五時近くになっている。冬場の日没は釣瓶落としだから、もうしっかりと漆黒の闇である。
「そいじゃ母さん、明日また来るから…」
「会社があるんだから、いつでもいいよ」
「ああ…」と相槌を打って病室を出る圭介。入院の身で子を気遣う母の有難みが、何故か今は、ひしひしと伝わった。
突 破[ブレーク・スルー]
(第三回)
避けるつもりもないが、恐らく手術に至るであろう経緯をどう説明したらいいものか…と、苦慮しつつ、「そいじゃ、一応帰るから…」と、足早に病室を出ようとする。四床のベッドには各々に患者と付き添う家族がいる。適当な会釈で、「母がお世話になります…」と軽く頭を下げて紋切り型の言葉を吐く。別に圭介が計算したのでもないが、至極当然の挨拶のようにも感じられ、彼はそうしていた。
病院の玄関を出て、何歩か歩んだところで、看護師と目線が合う。圭介は思わず相好を崩した。
「204号室の土肥です。母がお世話になります。宜しくお願い致します」
幾らか上気したのか、片言を区切り、丁寧な物腰で語る圭介である。
「あらっ、そうでした? はい、分かりました。ご苦労様です…」
井口というネームプレートを左胸に付けた若い愛想のいい看護師は、擦れ違い様にニコッ! っと微笑んで病室へと入った。容姿、頗(すこぶ)る端麗である。
遠ざかる圭介の耳に、「検温ですよ」という快活な声が耳に届いた。その届く声が、未練にも遠ざかる。
しかし今は、彼女に執着している場合ではない。圭介の足は加速して、病院の出口へと向かう。関東医科大学付属病院と表示された表玄関の周辺には、様々な外来患者、家族、見舞い訪問の人々、ナース、医師達の交錯する或る種、異様な空間が展開している。それらも流して捨て、圭介は玄関を出て駐車場の車へと急いだ。
突 破[ブレーク・スルー]
(第二回)
「今後のことについてご説明致しますので、ご近親の方と一緒に、改めてお越し下さい。今日は来患の診療中ですので…。それから、二階に検査入院ということで入院措置をとりました。詳しくはナースセンターに聞いて戴いて…」
「それで、治るんですか?」
厳しい口調で、圭介は三島に詰め寄る。
「…、何とも申し上げられません。私としては万全を期すつもりですが、何分にも侵潤部位…、要するに患部の広がる範囲が加速度的ですので一刻の猶予も許されない。リンパ節転移がなければいいのですが…」
「私にはよく分かりません。…宜しくお願い致します、先生!」
来患と来患の間を縫いつつ通された診察室内で、圭介は三島と対峙してそう懇願した。
それから病床の母を看たが、内の動揺を寸分も顔に出さず、悟られぬよう冷静さを保った。
琥珀製の帯止めを少し見遣って、端正な着物姿の母、昌(まさ)がベッドに腰を下ろしている。四人部屋の窓際にて、ほどよい外部の光線を受ける。
「母さん、必要なものを運ぶから、メモしといてよ…」
とだけ平静さを装う声で、ぼそりと告げるが、内心は穏やかな筈がない。
「もう書いてあるよ、取りあえずのモノだけだけど…」と、昌は椅子代わりのベッドから立つ。
「そうか…。なら、話は簡単だ」
突 破[ブレーク・スルー]
(第一回)
(いったい何をしてんだ俺は…節操ってもんがねえな。チーンジャラジャラだってよぉ! やってらんねぇよぉ~~!!)
土井圭介は、一人、寝室のベッドに仰臥して自らを嫌悪するが、声には出せず、天上の一点を睨んで、じっと見る。
昨日は大負けして、少しの時間だけ…と考えていたものが、結局は何時間も潰してしまい、数万円を屑にしてしまったのである。それが何故だったのかは分からない。いつもなら、ぐっすりと眠っている筈だが、今朝は二時間以上も早く目覚めてしまった。五十の坂にも掛ろうというのに、…情けない、と今になれば思える。その自分の心根の弱さもさりながら、昨日の惨めさが後を曳き、目覚めたときから苛まれている。
実は、真の原因がそんな悠長なことではないのを彼は充分、認識していた。それなのに、弾をはじいて没頭していたのだが、次第にのめり込んでしまったのが実態である。そうなのだ。圭介は没頭するまでは、実は全く別の一件でなやんでいた。それなのに数万円を注ぎ込んで徒労と化した…、その事実が、そう行動した自分が許せないのだった。病院からの電話で会社を早退したとき、「残念ですが…、病状はかなり深刻でして…。スキルス性・・つまりあのう…進行性の癌なのです。ご本人には当然のことですが伏せてあり、潰瘍と申しましたが、緊急入院をして戴きました」と云われたことが胸を打つ。事務的で、感情を入れぬ口調の三島が、圭介にそう説明した。圭介は、動揺の走る感情を内にブロックして、外っ面には出さない。いや、・・出せない。
風景シリーズ 水本爽涼
特別編 その後[12] 「どうでもいい」
「ははは…。正也殿、そのようなことは、どうでもいいのでござるよ」
じいちゃんは笑って僕を叱らなかった。というのも、僕は確実に怒られると思っていたからだ。えっ? どういうことか分からないって? そう言われる方も多いと思うので、これからその経緯(いきさつ)を詳しく語りたいと思う。別に語って欲しくないと思われる方もおられようが、そこはそれ、我慢してお聞き願いたい。
事の顛末は十日ほど前に遡(さかのぼ)る。僕は夏休みの最後で、学校の工作も終わり、居間でやれやれとミックスジュースを飲んでいた。そこへ離れから、じいちゃんが、いつもの光沢ある頭を照からせて現れた。
「正也、もう夏休みも終りだな。どうだった、今年の夏は?」
「うんっ! まあまあかな…」
「今年は暑かったからなあ。いや、今も暑いが…。そうそう、どうだ今、手は空いてるか?」
「うんっ! どうかしたの?」
僕はいつもの可愛さで愛想よく答えた。愛想よく返答するというのが味噌で、これでかなりのダメージが和(やわ)らげられるし、じいちゃん雷の避雷針にもなる。場合によれば、法外な恩恵を受ける場合すら出てくるのだ。
「いや、別にどうでもいいんだがな。アレを磨いてもらおうと思ってな」
「ああ、いつかのアレ?」
「ああ、アレだ」
アレとはナニである。? …と、怒られる方も出ると思うから説明すると、アレは根っこである。まだ分からん? と思われるだろうから、もう少し詳しく言えば、じいちゃんが山で拾ってきた古木の枯れた根で、これがどうして、なかなかのいい形をしているのである。じいちゃんは、これの形を整え、さらに磨きをかけて台を誂(あつら)え、部屋へ飾っていた。そして時折り眺めては磨き、茶を啜(すす)りながら一人、悦に入っていた。で、この枯れ根をいつか磨いてくれるよう僕に頼んだことがあったのだ。なんでも別の用事が出来たとかで思っていた磨きが出来ない・・ということだった。そこで僕にお鉢が回った、ということである。今回の場合は用事はなかったようだが頼まれたのだ。剣の師匠と仰ぐじいちゃんの頼みを無碍(むげ)に断ることも出来ないので、僕は「いいよ!」と愛想よく返答してしまった。今から思えば、これがいけなかった。軽く考えていたこともあってか、僕はうっかり、じいちゃんからの依頼を忘れてしまっていた。母さんと街へ行くことになったソフトクリームの誘惑に敗れたのだ。バスで10分ほどの距離だが、愛奈(まな)が生まれてからは、買い物の回数も結構、増えていた。母さんは折りたたみの乳母車で行くから、なにかにつけ僕は便利に使用されたが、必ず母さんから「はいっ!」と手渡されるソフトクリームの恩恵もあった。母さんが愛奈を抱き、折りたたまれた乳母車を僕が持ってバスへ。で、降りるときは真逆となるのだ。…、そんな話はこの際、どうでもいい。結局、街へ出て、帰ってからもじいちゃんの依頼を忘れていて、夜になった。父さんは汗だくで会社から帰ってきて風呂を浴び、その前に入ったじいちゃんと珍しく居間で談笑していた。
「いやぁ~、今日も暑かったですねぇ~」
「ああ…。毎日、ご苦労だ」
「いえ~」
母さんの肴の一品料理に上手い冷酒で、二人も気分がよかったのだろう。今だっ! と僕は瞬時に判断した。この機を逃しては、じいちゃんへの言い訳は出来ないだろう…と思えたのだ。僕は、磨きを忘れたことを素直に謝った。
「ははは…。正也殿、そのようなことは、どうでもいいのでござるよ」
一匹の赤い茹(ゆ)で蛸が笑って僕を見ていた。どうでもよかったのだ。
風景シリーズ 水本爽涼
特別編 その後[11] 「大きなお世話」
妹の愛奈(まな)は母さんによって世話をされている。それは誰も疑う余地がない事実だ。僕はある人から正也君は頭がよいと言われた。いい意味で素直に聞けば、お利口さんという意味になるのだろうが、日本語とは妙な含みがあり、別の意味に取れるという悪い点がある。だからこの場合、お利口さんの裏には、君は頭がいいからやりにくいとか、私は君のように頭はよくないよ、という意味に取れなくもない。もっと深く考えれば、逆の意味で、そんな賢ぶるな! と、言われているような意味にも取れる。こうした例は結構ある。あらっ! あの方、お綺麗だこと、フフッ…と奥様方二人が少し離れた奥様を見て話したとしよう。その言葉の綺麗は本当の意味の綺麗なのか…ということになるが、実は逆接や皮肉めいた大したことがない・・という意味を含む場合が多いのだ。だから、僕はお利口さんと言われて、あなたはどういう意味で言っていっているのか? 言われる人の気持を考えたことがあるのか? と訊(たず)ねたいのだ。もし、その人が君は賢いが、あまり賢ぶらない方がいいぞ、という意味合いで言ったとすれば、大きなお世話だ! と言い返したい。あなたにそんなことを言われる筋合いはないのだし、父さんや母さん、それにじいちゃんならまだしも、あなたは赤の他人なんですよ・・ということだ。そんな方にとやかく言われる筋合いはない。世話とは簡単に使えるが、なかなかどうして、意味が深い言葉なのである。世話をしていると思っていても、相手は大きなお世話と思っている場合もあるということだ。先だっても、こんなことがあった。
「オギャ~、オギャ~」
うっかり、僕が、あやし棒を振ったのが悪かった。愛奈がむずかっていたからだが、その微妙な音に彼女は驚いたのか、泣き始めた。僕が世話をしようという、健気な兄心を抱いたのが返って裏目に出てしまったのだ。
「正也!」
母さんが駆け寄って愛奈を抱き上げ、上手く振りながら泣きやませた。結果、事なきを得たのだが、僕は世話を焼いて怒られるということになったのだ。このケースは父さんにもあった。要は愛奈に限って言えば、母さん専属なのだ。ばあちゃん子、じいちゃん子・・とかの言葉があるが、彼女は完璧な母さん子と言えるだろう。なにも、やっかみで言ってる訳ではなく、これが正論だと思う。
「何か、ありましたかな?」
愛奈の泣き声に、じいちゃんが顔を出した。母さんは、慌てて振り返って言った。
「いえ、別に何もありませんわ…」
僕はフォローされた形だ。いい母親を持つと子供は助かる。父さんに関しては…敢(あ)えて、言及を避けたい。