水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

風景シリーズ  特別編 その後[6] 「ばあちゃん」

2012年09月03日 00時00分00秒 | #小説

 風景シリーズ   水本爽涼

  特別編 その後[6] 「ばあちゃん」

 じいちゃんには、様々な分野でお世話になり、また我が剣道の師匠として(と書けば、いかにも僕は遣[つか]い手のようなのだが、実のところ、腕はまあまあ・・くらいなのだ)時折り、ご教授戴く偉いお方でもある。父さんは日々の生活を尊敬というよりは畏敬、いや、恐怖を感じつつじいちゃんと接しているように思える。言わば時限爆弾的存在である。まあ、父さんには悪いが、僕にはあのスーパーマンのじいちゃんから父さんが生まれたとは到底、思えない。出来が悪いとか、程度が低いとかの次元の話ではなく、人物に漂うオーラがまったく違うのだ。目に見えないから余計だ。なぜ、スーパーマンのようなじいちゃんが完成したのか・・という素朴な疑問に突き当たるが、僕には生前の昔のことは分からないから、様々な資料や事情聴取によりその謎を解き明かそうと、これを夏休みの課題にしたことがある。担任の丘本先生は笑っていたが、ある種、大学論文の研究課題だな・・と、やはり褒めて下さった。どうも先生とは相性がいいようだ。
 さて、じいちゃんの過去を調査すると、どうも若くして奥さんをなくしたようなのだ。奥さんとは言わずもがなで、僕のばあちゃんである。ばあちゃんに関しては、かなり昔のため、余り詳しい情報が入らない。漏れ聞くところによれば、やさしい人だったらしい。それは父さんの言だが、学生時代にはすでに他界されておられたようで、この話から勘案すれば、父さんもかなりの生活する上での苦労人だということになる。それにしては…である。まあ、不出来でも僕の親なのだから、多くは言うまい。じいちゃんは備わったオーラがその頃から違ったのか、父さんと同時に苦労したはずなのにスーパーマンになったのだ。じいちゃんは馬術も得意だが、重賞馬とポニーくらいの差があるように僕には思えた。
「ばあちゃんは、どんな人だったの?」
 離れへ行ったとき、お茶を啜っていたじいちゃんに、なにげなく訊(き)いてみたことがある。
「んっ? ああ、ばあさんか…。ばあさんは、そりゃよく出来た人じゃった」
 そう言うと、茶碗を下へ置き、じいちゃんは俄かに目頭を押さえた。あの、じいちゃんが、である。悪いことを言った…と、僕が悔やんでいると、じいちゃんは、さらに手拭(ぬぐ)いを手にし、目元を拭いた。前にも書いたと思うが、この光景には過去、彼岸のお墓参りのときに遭遇していた。それで今回の二度目である。僕はじいちゃんにとって、ばあちゃんはかなり大切な人だったんだな…という貴重な資料を得た。結局、今あるじいちゃんを作りあげたのは、ばあちゃんに相違ない…と思うに至った。ばあちゃんはじいちゃんの心の中で、ずっと若いまま、美しく生き続けているんだ・・と、さらに思った。まったくのロマンスである。蛸頭のじいちゃんにロマンスもへったくれもないのだが、そう考えれば、ばあちゃんも浮かばれるだろう。


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