風景シリーズ 水本爽涼
特別編 その後[12] 「どうでもいい」
「ははは…。正也殿、そのようなことは、どうでもいいのでござるよ」
じいちゃんは笑って僕を叱らなかった。というのも、僕は確実に怒られると思っていたからだ。えっ? どういうことか分からないって? そう言われる方も多いと思うので、これからその経緯(いきさつ)を詳しく語りたいと思う。別に語って欲しくないと思われる方もおられようが、そこはそれ、我慢してお聞き願いたい。
事の顛末は十日ほど前に遡(さかのぼ)る。僕は夏休みの最後で、学校の工作も終わり、居間でやれやれとミックスジュースを飲んでいた。そこへ離れから、じいちゃんが、いつもの光沢ある頭を照からせて現れた。
「正也、もう夏休みも終りだな。どうだった、今年の夏は?」
「うんっ! まあまあかな…」
「今年は暑かったからなあ。いや、今も暑いが…。そうそう、どうだ今、手は空いてるか?」
「うんっ! どうかしたの?」
僕はいつもの可愛さで愛想よく答えた。愛想よく返答するというのが味噌で、これでかなりのダメージが和(やわ)らげられるし、じいちゃん雷の避雷針にもなる。場合によれば、法外な恩恵を受ける場合すら出てくるのだ。
「いや、別にどうでもいいんだがな。アレを磨いてもらおうと思ってな」
「ああ、いつかのアレ?」
「ああ、アレだ」
アレとはナニである。? …と、怒られる方も出ると思うから説明すると、アレは根っこである。まだ分からん? と思われるだろうから、もう少し詳しく言えば、じいちゃんが山で拾ってきた古木の枯れた根で、これがどうして、なかなかのいい形をしているのである。じいちゃんは、これの形を整え、さらに磨きをかけて台を誂(あつら)え、部屋へ飾っていた。そして時折り眺めては磨き、茶を啜(すす)りながら一人、悦に入っていた。で、この枯れ根をいつか磨いてくれるよう僕に頼んだことがあったのだ。なんでも別の用事が出来たとかで思っていた磨きが出来ない・・ということだった。そこで僕にお鉢が回った、ということである。今回の場合は用事はなかったようだが頼まれたのだ。剣の師匠と仰ぐじいちゃんの頼みを無碍(むげ)に断ることも出来ないので、僕は「いいよ!」と愛想よく返答してしまった。今から思えば、これがいけなかった。軽く考えていたこともあってか、僕はうっかり、じいちゃんからの依頼を忘れてしまっていた。母さんと街へ行くことになったソフトクリームの誘惑に敗れたのだ。バスで10分ほどの距離だが、愛奈(まな)が生まれてからは、買い物の回数も結構、増えていた。母さんは折りたたみの乳母車で行くから、なにかにつけ僕は便利に使用されたが、必ず母さんから「はいっ!」と手渡されるソフトクリームの恩恵もあった。母さんが愛奈を抱き、折りたたまれた乳母車を僕が持ってバスへ。で、降りるときは真逆となるのだ。…、そんな話はこの際、どうでもいい。結局、街へ出て、帰ってからもじいちゃんの依頼を忘れていて、夜になった。父さんは汗だくで会社から帰ってきて風呂を浴び、その前に入ったじいちゃんと珍しく居間で談笑していた。
「いやぁ~、今日も暑かったですねぇ~」
「ああ…。毎日、ご苦労だ」
「いえ~」
母さんの肴の一品料理に上手い冷酒で、二人も気分がよかったのだろう。今だっ! と僕は瞬時に判断した。この機を逃しては、じいちゃんへの言い訳は出来ないだろう…と思えたのだ。僕は、磨きを忘れたことを素直に謝った。
「ははは…。正也殿、そのようなことは、どうでもいいのでござるよ」
一匹の赤い茹(ゆ)で蛸が笑って僕を見ていた。どうでもよかったのだ。