水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

怪奇ユーモア百選 2] 姥窪塚(うばくぼづか)の怪

2016年03月08日 00時00分00秒 | #小説

 そう、わしが聞いたところによれば、今から三百年ばかり前にあった話じゃそうな。まあ、話してくれと言われれば、話さんこともないがのう。今、思い出しても怖(おそ)ろしい話じゃて…。わしも祟(たた)られては困まるでのう、手短かに話すとしよう。手間賃は多めに包んでいただくと有り難いが…。まあこれは、わしの独(ひと)りごとじゃて、ほほほ…忘れてもらおうかのう。
 時は江戸時代 半(なか)ばの頃、お前さんらも知っておろうが、ここから三里ばかり離れた姥窪塚(うばくぼづか)を一人のお武家が通りかかった。名は樋坂源之丞とか言ったそうな。姥窪塚の道伝いには一軒の茶店があってのう、名物の煎餅(せんべい)が美味(うま)い茶とともに知られておった。その煎餅は今も売られておるから、お前さんらも分かるじゃろう。でのう、その樋坂というお武家が、その煎餅をひと口、齧(かじ)った途端、不思議なことに、全天(ぜんてん)俄(にわ)かにかき曇(くも)り、どしゃ降りの雨となったそうな。
「これは、お武家さま。とてもお旅はご無理でございましょう。しばらく小降りになるまで、お待ちなされませ」
 店の主(あるじ)は、そう樋坂に勧(すす)めたんじゃ。
「そうさせていただくか…」
 店の軒(のき)まで出てどしゃ降りの雨を見ながら、樋坂はそう言ってふたたび床几(しょうぎ)に腰を下ろした。そのときじゃった。一人の白無垢(しろむく)を着た娘がのう、濡れもせんで、不意に店へ現れたそうな。樋坂は驚いた。
「驚き召(め)されまするな。私(わたくし)は、あなたさまをずっと、お待ち申しておりました」
 娘はそう申したそうな。樋坂にすれば、一面識もない娘じゃ。面食らったのは申すまでもない。
「何かの思い違いではござらぬか?」
 樋坂は娘に言い返した。
「いいえ…私は」
 娘がそこまで言いかけたときじゃった。
「いかがなされました?」
 話し声がしたからか、主が暖簾(のれん)を潜(くぐ)り、奥から顔を出したんじゃ。
「この娘ごが…」
 と樋坂が言いかけたとき、不思議なことに娘の姿は消えていたそうな。
「あの…誰もおりませぬが?」
 店の主は、はて? と訝(いぶか)しそうな眼差(まなざ)しで樋坂の顔を見た。
「ご貴殿(きでん)も、声は聞かれたでござろう?」
 樋坂は同意を求めた。
「へえ、それはもう。なにかお話の声が…」
「で、ござろう。白無垢の娘ごが不意に現れましてな」
「それはっ!」
 思うところがあったのか、店の主は俄かに顔面蒼白(がんめんそうはく)となり、震えだした。
「如何(いかが)された?」
「それは姥煎餅(うばせんべい)という妖怪でございます。姿こそ美しい娘でござりますが、実は見染(みそ)めた男を窪塚(くぼづか)へと引き込もうとする怖ろしい妖怪でございます」
「そうであったか…。これは危(あやう)ういところでござった、忝(かたじけな)い」
「いえいえ。この旅先、お気をつけられませ…」
「なにか、よい手立ては、ないかのう?」
「ああ、それはござります! 『煎餅固い、煎餅嫌いじゃ!』と申されませ。効用は、あろうかと…」
「では、そうすると致(いた)そう」
 雨はやみ、樋坂は茶店を去った。歩く道中、樋坂は『煎餅固いぞ、煎餅嫌いじゃ!』と言いながら、煎餅を齧(かじ)って歩いたそうな。…そんな、どうでもいい怖(こわ)い話じゃ。

                      完


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