夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《5》 第4章 定山渓温泉の街並みを散策すれば

2014-02-17 16:31:49 | 
       第4章 定山渓温泉の街並みを散策すれば

2月5日
朝の6時過ぎに、部屋の窓辺から見ると、小雪が舞い降りていた。
私は少し疲れを感じたので、今日は定山渓の温泉街を散策しょう、と家内と話し合ったりした。
          

10時過ぎに宿泊している『定山渓グランドホテル端苑』を出て、
最寄りのバス停の『定山渓車庫前』を通り過ぎて、
          
路線バスも通る大通りの歩道を5分ばかり歩くと『手湯』が観えたりした。
          
そして付近には『定山渓神社』が観えたりした。
          

この神社は、5日から11日まで2014個のスノーキャンドルが灯される『雪灯路(ゆきとうろ)』が開催されるので、
後日に訪れようと私は家内に言ったりした。

その後、近くの『定山渓観光案内所』に立ち寄ったりした後、大きな橋を渡りながら、
定山渓温泉の建物の一部が景観できた。
          

私たちが訪れている定山渓温泉地は、札幌市街地から南に26km、
車を利用すれば1時間前後にあり、札幌市の奥座敷と称されている。
そして支笏洞爺国立公園内に位置し、緑豊かな渓谷の湯どころとして年間240万人程の方が訪れ、
温泉は豊平川の川底から湧いており、その川沿いに温泉街が広がっている。

そして定山渓の歴史は、慶応2年(1866年)修験僧・美泉定山(みいずみ・じょうざん)が、
アイヌの人々の案内で泉源と出会い、
幾多の困難を乗り越え温泉の礎を築いた定山の功績から、この地が「定山渓」と命名された。

このようなことを学んできた私は、立ち止まって眺めたりしたのである。

やがて再び歩きだして、温泉街の中心地を私たち夫婦は歩いたりしていると、
観光ホテルのひとつに私が敬愛している書家・詩人の亡き相田みつを氏の特有な文体が視え、
          
どうしてなの、と思ったりしていると、
この館内に、氏の展示室があり、この館の了解を得て、拝見することとした。

2階のひとつの大きな展示室には、氏の遺(のこ)された数多くの書跡が掲げられていた。
          

こうした中に、この展示室の心象のようなノート『感想文』が多くふった。
          

私も遅ればせながら20余年前の頃から、氏の書籍などから多々教示されているので、
この展示室で鑑賞後、それぞれのお方が人生の歩みを通して、それなりに氏への思いを重ねて、
ノートに記載する心情は、私なりに了解することが痛いほどに理解できた・・。

この後、1階にあるロビー風の休憩室に於いて、コーヒーを飲んだりしたが、
この休憩室の状景に瞬時に魅了されたりした。
          

やがて、この観光ホテルを辞する時、『ぬくもりの宿 ふる川』と私は視て、実感を深めたりした。
          

そして街の中心から歩きだし、コンビニに立ち寄ると、レジの近くに微笑ましいポスターがあり、
私は記念に撮ったりした。
             
この『豆大福』を賞味した家内は、お気に入りとなり、6個ばか買い求めたりしていた。

その後、『月見橋』と命名された大きな橋にさしかかと、温泉街の渓谷の状景が観えた。
          
そして橋を渡りきると小公園が『定山源泉公園』と解り、微苦笑したりした。

小雪舞う中を3時間ばかりの散策となったが、やがて帰館に向かった。
                                《つづく》
          
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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《4》 第3章 念願の『銭函』駅に訪れて

2014-02-17 12:37:46 | 
       第3章 念願の『銭函』駅に訪れて

2月4日
私は小学4年生の頃から、独りで映画館に通って映画を鑑賞した映画少年であり、
ここ30数年は居間にある映画作品のビデオ、DVDをときおり観たりし、
20世紀良き時代の名画をこよなく愛するひとりである。

こうした作品の中のひとつに、降旗康男 ・監督の『駅 STATION』(1981年)がある。
この作品はオリンピックの射撃選手であり、警察官でもある一人の男が、
それぞれの事件を通して彼の心を通り過ぎていく女性たちをくまなく描き、
人生の哀歓を圧倒的な筆力で主演・高倉 健に捧げたと伝説される脚本の倉本 聰の作品でもある。

私が鑑賞してきた邦画の少なくとも5000作品の中で、最も好きな作品で、
監督の降旗康男、主演・高倉 健、そして脚本・倉本 聰のトリオの英知が発露された作品となり、
降旗康男、高倉 健、倉本 聰の各作品を鑑賞してきた中で、最も優れた作品と絶賛するひとりである。

この作品のファースト・シーンは、国鉄時代の1968年の北海道の『銭函』駅が駅舎が表われ、
そしてホームの情景となる中、
警察官の英次は雪の降り続くホームで、妻の直子と、四歳になる息子義高に別れを告げた。
やむなく離婚を承諾した直子は、動き出した汽車の中で、英次に笑って敬礼するが、その目には涙が溢れていた。

このファースト・シーンひとつでも、人生の哀歓、愛惜を描き、
感動を超えて感銘させられる名シーンである。

このような心情を秘めた私は、いつの日にか『銭函』駅に訪れてたい、と念願してきた・・。

確か15年前の頃、勤めていた会社の勤続30年の特別休暇5日間を利用して、
私はオーホック海の流氷、家内は札幌の雪まつりを目的に2月初旬に旅をした。

そして厳粛な流氷の状景に感銘させられた2日間後、『網走』駅より日中に於いて特急列車で『札幌』駅に着き、
そして今宵の宿の『小樽』駅に向かっている車内で、不覚にも旅路の疲れで私は眠ってしまい、
『銭函』駅を通り過ぎたのを見過ごししてしまった・・。

目覚めた時、家内からは、
『銭函』駅のプラットホームに、銭函の大きな箱が飾ってあったわ、
と私は教えられて、私は苦い想いのひとつとなっていた。

こうした思いのある私は、今回の定山渓温泉の観光ホテルに滞在する中、
『銭函』駅に訪れることも必須の課題のような心情となっていた。

そしてこの日の4日、私たち夫婦は宿泊している近くの『定山渓車庫前』のバス停より、
          
路線バスに乗り、地下鉄の南北線の『真駒内』駅に向かい、
その後『真駒内』駅から『札幌』駅に着いた後、JR函館本線で小樽方面に乗車した後、
30数年念願してきた『銭函』駅に下車した・・。
          
やがてホームを歩き、銭函を確認できたが、以前は吊るって飾ってあった、
と家内に言われたりし、鎮座している銭函を複雑な思いで眺めたりした。
          
そして構内を出て、念願の駅舎の前景を取ったりしていると、小雪が舞い降りてきた・・。
          
やがて街中を私たちは歩き、海辺の観える処を探したりし後、海上に小雪が降る情景を長らく見つめたりした。
          

この後、駅に近い食事処を探し求めていた時、一軒の海鮮料理店に入った。
          
カンウター席、この横に畳上の座卓が並ぶ中、海上が眺められる窓際の座卓席に私たちは座り、
私は生の『鰊(にしん)』を焼いて頂き、ビールを2本ばかり呑み、
家内は『鰊』の刺身、太刀(白子)の天ぷら、イカ、生ダコ、マグロの握りを頂きながら、
ノン・アルコールのビールを呑んだりした。

この間、私たちは窓際から素朴な木造のベランダを視たりし、
雪の降る冬以外は、あのようなベランダに座り海を眺めるのは最上の情景のひとつだよねぇ、
と私は家内に言ったりした。

やがて私たちは満喫したひとときを過ごし、帰路に向った。
そして『銭函』駅のホームで、『札幌』駅に向う列車を待ったりした。
          
この後の私たちは、何かと単細胞の私に相応しく、帰路も同じように帰館した。
                                  《つづく》
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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《3》 第2章 豊平峡温泉は圧倒的に魅了された湯処

2014-02-17 07:54:15 | 
       第2章 豊平峡温泉は圧倒的に魅了された湯処

2月3日
今回の旅路の前の自宅で下調べの時、ネットで家内は『豊平峡(ほうへいきょう)温泉』を見つけて、
私はこのネットに掲載されている内容を視たりしていると、瞬時に魅せられて、
行きましょう、と私は家内に言ったりした・・。

私たちが宿泊滞在している定山渓温泉地の片隅から、奥地の高台にあるようで、
宿泊している観光ホテルの一分先ぐらいにあるバス停『定山渓車庫前』からは、
路線バスに乗車して10数分たらずの処に『豊平峡温泉』がある。
          

私たち夫婦は少し雪深いバス停の『豊平峡温泉』を下り立つと、
どんよりとした曇り空で、ときおり小雪舞う中、木造の一軒家が忽然と観え、私たちは向った。
          

そして1階は靴入れ箱に履いている登山靴を入れたし、
受付で入湯料、フェイスとバスタオルの貸出し料金を支払った後、
2階には大広間の休憩室、ロッカーなどが見られ、
3階は貴重品のロッカー、そして浴室には脱衣場、大浴場、隣接の奥には露天風呂があるようであった。

私は大浴場に入浴して、身も心も湯あたりが圧倒的に良く、
《”鮮度がいのち”
当泉は北海道内でも希少といわれる源泉100%のかけ流し温泉です。
薄めず(無添加)・沸かさず(無加温)・循環させずの「本物の温泉」を心ゆくまで
ご堪能ください・・》
と記載されていた公知文に思い重ねて、
これまで私が50幾余年の旅で体験してきた限り、圧倒的に突出した湯処であった・・。

やがて解放感のある露天風呂に心も身も波長に合う湯にあずけて、周辺の景観を視たりし、
旅に来た・・と今回の旅路で初めて自覚させられたりした。

そして近くにいた見知らぬ60代風の男性と何気なしに会話が始まり、
やがてこの男性は神戸市にお住まいの人で、北海道の旅を幾たびか重ね、温泉大好きな人と知り、
私たちは10数分、これまでの色々な旅路の温泉のあれこれを談笑を重ねたりした。

この後、風呂上りの私は露天風呂、大浴場の近くの情景を撮ったした。
          

やがて大広間の休憩室で私は家内と合流した後、
しばらくこの『豊平峡温泉』の館で、ゆっくりと過ごしませんか、
と家内の提案に基づき、私たちは貸個室を借りた。

この少し前に館内めぐりしていた私は、3時間で2000円の個室を知り、
家内に伝えたので、この結果として私たちは利用させて頂いた。

貸個室は3部屋あるらしく、この一室をお借りしたのであるが、
8畳から10畳ぐらいの広さで、防寒コート、セーター、フリースのジャケットなどを衣紋掛けできる場所もあり、
簡素な和室風で、くつろげる部屋であった。

その上、横たわると床底には湯管が配置されているらしくオンドルのように暖かいょ、
と私は家内に言ったりした。
そして私は缶ビールを呑んだりして、ときおり窓辺から観える状景を視たりした。
          

そして目を転じれば、遥か彼方の山裾も見え、好感できる情景であった。
          

私たちは、この湯処の『豊平峡温泉』に魅了され、旅の最終日の15日の土曜日に、
滞在している観光ホテルに朝チェックアウトの後、この館で4時間ぐらい過ごして、
この後に新千歳空港に向おう、と話し合ったりした。

しかし世の中は不思議なことが多々あるが、いつの日にスノーシューを学びたく、根底に秘めていた私は、
たまたま旅の最中の11日の火曜に於いて、この『豊平峡温泉』にオプションとしてスノーシューがあり、
ここの管理スタッフの方の指導に基で、私たち夫婦は生まれて初めてのスノーシュー初心者コースで、
高揚しながら雪上を歩いたりし、
今回の旅路で3日ほど『豊平峡温泉』に心酔するように通ったりしたのである。

                        《つづく》

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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《2》 第1章 航空便が遅延すれば

2014-02-16 14:49:04 | 
       第1章 航空便が遅延すれば

2月2日
ある有力な旅行通販会社から今回のフリープランの指定された航空便は、羽田空港・発14時30分であり、
新千歳空港・着は16時となる便で、予定通り私たち夫婦は機上の人となった・・。

そして着陸予定時の30分前後、機長より機内の乗客員に告知があり、
新千歳空港の滑走路2本ある中、ひとつは除雪作業に伴い、着陸の時間待ちとなり、
たたいま津軽海峡の周囲を旋回して待機しています、と告げられた。

やがて45分遅れで着陸できたが、機内から解放された私たち夫婦は、
滞在する観光ホテルのご厚意の送迎のマイクロバスのある近くの指定場所に行った。
当初は新千歳空港前の予定出発時は17時5分であったが、私たちの乗機した便が遅延してしまい、
長らく担当して下さるドライバーのお方を待たせてしまった。

そして指定場所に私たち夫婦は駆けつけると、私たちのような今回のフリープランに参加したのは、
夫婦連れ4組、おひとりさまの女性は6名、男性は5名と私たちは初めて知った。

そしてマイクロバスが2台で待機して下さり、私たちは分乗して出発しょうとしたが、
おひとりさまの男性が、空港内で滑り止めを予約していたので、引き返している中、不明となったらしく、
結果として1時間近くドライバーのお方はと探しまくり、何とか出発できたのは18時は過ぎたりした。

やがてドライバーさんより、宿泊する定山渓の宿まで2時間要する、と私たち一同は聞いたりし、
私は車窓から遠望の雪の暗い情景を眺めたり、札幌ドームの付近を通り過ぎる状景を視たりする中、
夕食のバイキングの終了時間は21時であり、ラストオーダーは20時半を思い重ね、
私は原則として旅先は、風呂に入った後に夕食を頂いてきたので、
『XXちゃんさぁ・・風呂に入らず夕食を頂くのは・・初めてだよねぇ・・』
と私は隣席にいる家内に、小声で溢(こぼ)したりした。

結果として、慌ただしく夕食を20時15分過ぎに私たち夫婦をビールを吞みながら食べたりした。

          
          ☆定山渓温泉のマスコットは、カッパと知り、宿泊している館内の売店で、
             たまたま私はめぐり逢い、たわむれに記念に撮った ☆

やがて私は大浴場に入った後、指定された私たち夫婦の部屋に戻ると、
『先程・・花火が上がったわ・・
何かしら雪まつりの終わる11日の頃まで、定山渓観光協会主催で行うみたい・・』
と家内から私は教えられた。

そしてこれから一週間の中で、冬の花火の鑑賞も情緒があるよねぇ、
と私は家内に言いながら、
過ぎし2年前頃の10月、洞爺湖に滞在した時に盛大な秋の花火を思い重ねたりした。

そして積雪のある情景の中の真冬の花火・・できうれば粉雪(こなゆき)が少し舞う中であったならば、
まぎれない美のひとつ、と私は思ったりした。
                        《つづく》
                     
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定山渓温泉、冬の周辺の遊学記《1》【2014.2.2.~2.15.】序章 定山渓温泉、再訪

2014-02-16 11:47:12 | 
       序章 定山渓温泉、再訪

私は東京郊外に住む年金生活の69歳の身であるが、
札幌市の郊外にある定山渓温泉にある観光ホテルに、過ぎし2日より15日まで13泊14日で滞在し、
温泉地、周辺を散策して、遊学してきた。

今回の旅路は、ある有力な旅行通販会社から郵送されてくる小冊誌の中に、
《 温泉ステイ 長期滞在 渓谷に抱かれて・・
      定山渓グランドホテル端苑14日間 》と題したフリープランが掲載され、
私たち夫婦は冬の定山渓温泉の情景は未知であり、お互いに元気で意欲のある今、行きたい所に行ければ、
と思いながら旅路となった。
          
            ☆ 宿泊した定山渓グランドホテル端苑の冬の情景 ☆

          
            ☆ 指定された部屋の窓辺から、朝夕 眺めたりした情景
                          たまたま小雪が降っていた時の朝ひととき ☆

冬の時節は私たち夫婦は雪の舞い降る情景に魅せられて、この時節になると、雪恋し、心情となり、
昨年の12月になると、雪舞い降る情景を観たいねぇ、
と私は家内に言ったりして、旭川市の郊外にある天人峡温泉に、
12月5日より3泊4日で訪れ、スノーパウダーと称されている粉雪(こなゆき)舞い降る情景に心を満たされたりした。

そして本年の1月に、函館市の郊外にある湯の川温泉の観光ホテルに、
1月13日より4泊5日で滞在して、函館市の市内、郊外を歩き廻り、遊学してきた。
          
私たち夫婦は北海道の旅路を幾たびか重ねてきたが、今回の札幌市の郊外にある定山渓温泉は、
確か記憶ある限り、宿泊するは二度目である・・。

初めて私たちが定山渓温泉に宿泊したは、私が定年退職後の1年過ぎる頃、
2005年10月19日より4泊5日で、
北海道の朱紅色、黄色に染められた錦繍の情景を訪ねた周遊団体旅行に私たち夫婦は参加した旅路であった・・。

この旅路は早朝に東京駅より新潟駅に新幹線で行き、新潟港に移動した後、
この港から10時半過ぎにフェリー船で小樽港に向かい1泊しながら、翌日の早朝に小樽港に着く。

そして小樽を出た後は、芦別の三段の滝を観て、富良野から美瑛を抜けて、
旭岳の麓(ふもと)の山岳ロッジ風のリゾートホテルに宿泊した。

翌朝、旭岳ロープウェイに乗り、周辺を散策した後、
その後に天人峡の羽衣の滝を観た後、札幌の奥まった定山峡まで移動し宿泊した。

翌日は、豊平峡で電気バスに乗って、ダム周辺を観た後、
小樽市で観光し、札幌駅に向かい、
夕暮れの札幌駅より寝台特急の『北斗星号』を乗車し、夜間に走行し上野駅に到着する。
このような日程であった。

このような旅であったで、定山渓温泉に於いては錦繍の情景をわずかに観た程度で、
冬の時節は初めて訪れた。

滞在している定山渓温泉地、そして周辺を散策したり遊学の旅路を連載して、記載する。
          
          ☆滞在した観光ホテルの近くの路線バスのバス停のひとつ
             路線バスを利用して、市内の雪まつり、開拓の村、近くの温泉地など訪れたりした☆

果たした東京郊外の田舎者の私が、どのような心情で周遊したか、素直に発露する。

                            《つづく》
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2月の石垣島と周辺の島々の情景は・・。《13》最終章 旅の終りは『八島人工島公園』

2014-02-15 08:56:22 | 旅のあれこれ
     最終章 旅の終りは『八島人工島公園』

2月16日(土)
私たちは旅路も最終日を迎えて、石垣空港で午後6時前の航空機で離陸するまで、
それまでの間、どこで過ごそうかと話し合ったりした。

たまたま今回の旅は9泊10日となり、滞在したホテルは市内の中心街にある『ホテルグランビュー 石垣』であり、
              

大通リの四つ角のひとつにあり、正面に視えた四つ角のひとつには、『730』記念碑があり、
             

もうひとつの角は食事処であり、残りの角は廃店となり、この交差点は通称『730交差点』と称されている。

私は朝夕、ときには夜も、この交差点を眺めていると、石垣の銀座四丁目だ、と家内に言ったりしてきた。

竹富島(たけとみじま)、西表島(いりおもてじま)、小浜島(こはまじま)、
新城島(あらぐすじま)、黒島(くろしま)、波照間島(はてるじま)、鳩間島(はとまじま)の八重山諸島の船の発着が集結された
離島ターミナルに近く、
石垣島の名所めぐりに、バスで周遊するにはバスの発着の基幹のバスターミナルにわずかである上、
繁華街の『公設市場』を中核とした食事処、衣服店、お土産売り場などを含めて、
高齢者がゆっくりと歩いて10分足らず行ける利便性のあるホテルであった。

私は家内のボディガード、そしてお供で幾たびに滞在中に通ったり、
疲れたら『公設市場』の休憩所で座ったりしていた。
               

或いは離島ターミナルに近い『手作り館・工房海美人本店』の横にある『お菓子のマルシェ』に入店して、
お菓子などは婦女子の食べ物、と公言してきた私でも、
乙女が好感するシュークリームみたいな食べ物を最後まで食べて、家内は微苦笑してきた。
      

こうした中で、ホテルの横には、愛(いと)しき花に慰められたり、
               

そしてホテルの館内の可愛らしいマスコットに私は励まされた・・。
                   

今回の旅で、私が好感した居酒屋の『島の美食や「なかゆくい」』以外で、
食べ物に関して絶賛したのは、家内が旅行前に調べてきたカマボコ屋の『かみやーき小かまぼこ』であった。
やいやま大通りにある小奇麗な店で、カマボコの中におむすびとなったピパーズ、ポーポ、アーサーなどが美味しく、
私たちは幾たびか寄って、買い求めてきた。
          
           ☆『かみやーき小かまぼこ』の店内の一角、私はたわむれに撮った☆
      
そして私は街の食事処より良い、とホテルの部屋で、
軽食はもとより、二夜ばかり夕食代わりにビールを呑みながら頂いたりした。
こうしたことは旅先では、私としては異例なことであった。


石垣島の各名所も訪れ、離島の新城島(あらぐすじま)、小浜島(こはまじま)、竹富島(たけとみじま)も日中のひとときに訪れたり、
石垣湾の近くをサンセット・クルーズとして、生まれて初めてヨットに乗船したり、海中観光船に乗船したりしてきた。
こうした旅路を重ねたりしてきたが、
12日に偶然に訪れて、圧倒的に魅了された『八島人工島公園』に再訪しょう、と私は家内に言ったりした。

市内の中心街から外れた所に大きな橋があり、『サザンゲートブリッジ』と称せられている。
               

この橋の中心に石垣島を中心で、各離島が表示され、確か東京まで1970キロと明記されていた。

そして私たちは、やはり東京の郊外に住む私たちは、八重山諸島は遠い処だよねぇ、と家内に言ったりした。

この後、歩きだすとやがて海が視えた・・。
      

そして私たちは、東屋の中のベンチに座り、一時間ばかり海を眺めたりしていた。
過ぎし12日は快晴で、海の色あいも鮮やかであったが、曇り空の中では明晰が欠けるが、
周遊したきた日々の疲れもあり、静寂なひとときにやすらぎを感じたりした・・。

やがて私は名残りもあったが、この『八島人工島公園』に別れを告げた。
      

そして街中に戻り、ひとつの花に心を寄せたりした。
               

その後、私たち夫婦は航空機に身をあずけて石垣空港、そして那覇空港、やがて羽田空港で着陸し、
家路に向かったのは午後9時半過ぎであった。

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2月の石垣島と周辺の島々の情景は・・。《12》第11章 小浜島、竹富島の観光ツアー 

2014-02-14 08:54:51 | 旅のあれこれ
     第11章 小浜島、竹富島の観光ツアー 

2月15日(金)
昨日の日中、私たち夫婦はパナリ島と称せられる新城島の
『おもいっきり新城島散策&シュノーケリングツアー1日コース』に参加した・・。

私の事前の勝手な思いとして、私たち夫婦は、シュノーケリングはできないが、
その間の時間帯は、家内は波打ち際で貝を拾ったり、私は浜辺から観え情景をデジカメで撮ったりした後、
参加者の方たちと島内めぐり散策をすれば、良いかしら、と選定した。

そしてシュノーケリングをされる方たちは、若き男女の人たちと思い、
彼らの容姿を想像すれば、私たちも少なからず長ズボンの裾を膝ぐらいまでまくりあげて、
ビーチ・サンダルを履いて、波打ち際でたわむれなければ、バランスがとれないよねぇ、
と私は思いこみ、結果としてホテルの売店で少し高価なビーチ・サンダルを私たちは買い求めたりし、
私たちは夢を膨らました・・。

結果としては、私たちだけの参加となり、余りにもかけ離れていたので、困惑していた。

ホテルに帰館後、何かしら心身の露払いのようなお清めをしょう、と私は家内に提案し、
私たちが市内で最も魅了された居酒屋の『島の美食や「なかゆくい」』に、
11日(月)に続いて、ふたりだけの夕食兼や親睦会として、行った。

そして地魚、貝などを中核に私たちは食べながら、私は盛んにビールをお代わりしていた・・。

こうした時、明日はどこに行こうかしら、と話し合い、
これまでのツアーの3回も私たち夫婦だけの貸切も、少し寂しいじゃないの、
と私は家内に言ったりした。

そして小浜島は未知であり、竹富島は過ぎし18年前に訪れていたが、
結果として、『小浜島、竹富島の観光ツアー』に決定した。
もとより 竹富島は八重諸島の離島の中で、最も人気のある島で、多くの方と共に周遊できるかしら、
と私は家内に微苦笑しながら言ったりした。


そして15日、『小浜島、竹富島の観光ツアー』に参加する為に、
石垣港を朝の10時半に出港の30分前に離島ターミナルに私たちは着いた。

私は今回の旅路で幾たびか離島ターミナルに来て、馴染となったが、
旅の記念に離島ターミナルの情景を撮ったりした。
      

そして桟橋の情景も撮ったりした。
               

この後、予定通り観光船は小浜島をめざし着岸したら、
『島めぐり』ツアーとして、マイクロバスが待機して、案内人の誘導に基づいて、
小雨降る中を私たちは乗り込んだ。

そして私たち夫婦と同世代のご夫婦が、二組同行となったので、
安堵したことは事実であった・・。

50代の男性がドライバーをしながら、解り易い解説をして下さり、
さとうきび畑が広がるシュガー・ロードと称される一本路を走行したり、
或いはNHKのテレビドラマの『ちゅらさん』(2001年度上半期)のロケ地に、
この島は使われた、と解説して下さり、このドラマのロケ地を周遊したりした。

私はこの放送された当時は、サラリーマンの現役時代で多忙の身であったので、
無知であったので、せっかく案内して下さっても興味がなかったので、
周辺の情景を見たりしていた。。

まもなく50代の男性がドライバー兼案内人は、この島はハブが多く島民は困苦していたので、
有志の人が孔雀(クジャク)を放った所、孔雀(クジャク)は予測した以上に繁殖し、目的のハブは激少したが、
肝要な島民の農作物まで食べて、困っている、
確かに孔雀(クジャク)は表面上は美麗であるが、獰猛である、と話して下さったりした。

そして島民の勇士が、この孔雀(クジャク)を食べた所、まずくて二度と食べたくない、
と話して下さり、私は微苦笑したりした。


この後、昼食は星野リゾートの『リゾナーレ小浜島』で松花堂のお弁当を頂きながら、
私はビールを吞んだりした。
               

南国の優雅なリゾートホテルで、多忙な働いて下さる諸兄諸姉が、
休暇の時に数泊して、ゆったりと滞在するのに最適、と思ったりした。
このようなことを思い馳せたりすると、ビールのお代りをボーイさんに所望した。

そして島内を二か所寄った後、島内観光は終了となり、
私たちは小浜島の港に行き、そして観光船に乗り、小浜島に別れを告げた。
      
               
私たちの乗船は、小雨降る中を一路『竹富島』にめざした。
               

この後、『竹富島』の港に接岸した直後、
グラスボートに乗船し、サンゴ礁と魚が遊泳している状景を家内たちは歓声を上げながら視たりしていた。

その後、島内観光の案内して下さる50代ぐらいの女性がワゴン型の車で待機していた。
そしてこの方の案内で、私たち3組の夫婦が導かれて、『星砂の浜』、街の中心街などを解説して下さった。
      

私は18年前の頃に家内と『竹富島』に来島してきたので、
      
さりげない実の花、サンゴ礁の石垣に咲く花に見惚(みと)れたりした。

この後、竹富島の桟橋で午後3時45分に遊覧船に乗船し、わずか15分で石垣港に帰港した。

小雨が降ったり止んだりして慌ただしい日中であったが、
マイクロバス、そしてワゴン型の車で、私たちは移動して観光ができたので、
ホテルでぼんやりと過ごすより、遥かに有意義だったわ、と家内は言ったりした。


                                       《つづく》
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2月の石垣島と周辺の島々の情景は・・。《11》第10章 パナリ島ツアー 

2014-02-13 08:43:07 | 旅のあれこれ
     第10章 パナリ島ツアー 

2月14日(木)

私たち夫婦が今回の旅を立案している1月下旬、家内が魅力ある観光ツアーがあるわょ、
と私に教えてくれた。

何かしらネットで八重山諸島のことを調べていたら、
こうした企画のツアーがあることを知った、と家内は言ったりしていた。
http://panari88.com/
☆【パナリ島観光(新城島)公式サイト】☆

そして私は、この公式サイトの『魅力』、それぞれの『ツアー』を見て、
家内と話し合い、結果としてはツアーとしては『おもいっきり新城島散策&シュノーケリングツアー1日コース』が、
最適かしら、と思ったりした。

私たち夫婦は、残念ながらシュノーケリングはできないが、
その間の時間帯は、家内は波打ち際で貝を拾ったり、私は浜辺から観える情景をデジカメで撮ったりした後、
参加者の方たちと島内めぐり散策をすれば良いかしら、と思いながら選定したのである。

そして今回の旅路の始めの7日、滞在するホテルに到着した後、
ホテルのフロントの一角にある観光専門スタッフにツアー参加を14日申し入れ、
やがてツアー施行と聞き、私たちなりに夢を膨らました・・。

その後、やはりシュノーケリングをされる方たちは、若き男女の人たちと思い、
彼らの容姿を想像すれば、私たちも少なからず長ズボンの裾を膝ぐらいまでまくりあげて、
ビーチ・サンダルを履いて、波打ち際でたわむれなければ、バランスがとれないよねぇ、
と私は勝手に思いこみ、結果としてホテルの売店で少し高価なビーチ・サンダルを私たち夫婦は買い求めた。

当日の14日、ホテルのロビーで私たち夫婦は午前9時少し前に待機していると、
30代前半の男性が現れ、やがてツアーの案内人と知り、送迎車で離島ターミナルまで行く間、
今回のツアー参加者は私たちだけと知った。

サンセット・クルーズ、そして海中遊覧船も私たち夫婦だけで、
今回も私たちだけとなり、私は微苦笑しながら、何となく悪い予感がしたことは事実であった。


この後、予定通り石垣港を観光船は9時半に出港し、西表島の大原港を経由して
新城島(あらぐすくじま)の上地島の港に着岸したのは10時15分であった。
この間、人気のある西表島までの乗客は100名前後であったが、
その後は上地島の港に向かう乗客は、島の縁者4名、そして観光客は私たち夫婦だけであった。

そして私たち夫婦は、今回の案内人の30代前半の男性に導かれて、
港から歩きだし、上地島の集落を見ながら、やがて一軒の家に着いた。
      

このように看板が明記された家で、案内人が庭にあるテープルに大きなパラソルを掲げた。
                

その後、今回のツアーはあなた方ふたりだけですので、ご自由に過ごして下さい、
浜に行くのでしたら、この先の路を歩いて下さい、
まっすぐな一本道ですから、15分ぐらい歩けば、浜崎という浜辺に到着します、
このような意味合いの言葉を案内人は私たちに言った。

そして私たちは、浜崎の浜辺をめざして、1キロぐらい路を歩いた。
               

やがて海が見えて、曇り空の中、白い砂浜が広がっていた。
     

そして家内は波打ち際で貝などを拾い、私は砂浜から周辺の情景を撮ったりした。
      

私はぼんやりと押し寄せる水色の波、そして前方の蒼い海面、そして波の彼方に視える西表島を見たりしたが、
私が想定していた今回のツアーと余りにもかけ離れていたので、困惑していた。

やむなく家内の貝を探している情景を見たり、白い砂浜を見たりしていると、
ひとつの歌を小声で唄いだした・・。

♪あした浜辺を さまよえば
 昔のことぞ 忍(しの)ばるる
 風の音よ 雲のさまよ
 寄する波も 貝の色も
【『浜辺の歌』 作詞・林古渓、作曲・成田為三】

かぼそい声で唄ったりしたが、余りにも人気もなく確かに静寂であるが、
少し寂しいじゃないの、と心の中で呟(つぶや)いたりしていた。

こうした中で2時間ばかり過ごし、パナリ島ツアーの休憩所に戻り、
昼食を頂いた後、案内人に導かれて島内を散策したりした。
そして高台から、島内の見れば、
               

この後、私たちは恋路ケ浜と称せられたお洒落な名前の浜に行き、2時間ばかり過ごした。
      

そして家内は相変わらず波打ち際で貝などを拾い、私は砂浜から周辺の情景を撮ったりした。
                

この後、午後4時過ぎにパナリ島と命名された上地島に別れを告げて、
石垣港に帰港したのは午後5時15分過ぎであった。


帰宅後の今、家内は波打ち際で拾った6つの貝、私はデジカメで撮った数多く写真・・
ぼんやりと私は見ながら、微苦笑している。

                                       《つづく》
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2月の石垣島と周辺の島々の情景は・・。《10》第9章 桃林寺、宮良殿内、八重山博物館

2014-02-12 08:21:25 | 旅のあれこれ
     第9章 桃林寺、宮良殿内、八重山博物館 

2月12日(火)
海中観光船で私たちは、それぞれ心を充たされ後、街中の食事処で遅い昼食を頂き、
やはり『桃林寺(とうりんじ)』、『宮良殿内(みやらどぅんち)』、そして石垣市立『八重山博物館』を
訪ねるべきか迷ったりした。

今回の旅路の前に、少しばかり石垣島の歴史を学んできたが、
つたない私は理解できないことが多くあり、気楽な観光地を周遊して方が適切と思ったりした。

しかしながら帰宅後に、あすこを見ておけばよかった、と後悔するのも無念であり、
意を決して鑑賞することにした。

私たちは晴れ渡った少し熱さを感じながら、『桃林寺』をめざして街中を歩いた。
そして簡略な地図を頼りに着いた。


『桃林寺』は《・・石垣市にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は南海山。本尊は観音菩薩。
1611年鑑翁西堂の開山により創建された寺で、1771年には大津波の被害を受けている・・》
と解説されている。


私は寺院を恥ずかしながら鑑賞できる知識もなく、
本堂などの建物を短絡に見て、感じる程度しか持ち合わせいない。


そして境内を眺めて、退散した。


この後、『宮良殿内』を簡略地図を見ながらめざしたが、方向音痴な私たち夫婦は、
街中を彷徨(さまよ)い、何とかたどり着いたというのが実情であった。


そして息を静めて邸内に入り、鑑賞料を支払い、私たちは邸内を鑑賞させて頂いた。

この後、家内はご高齢の男性の解説して下さる方の丁重な説明を受けている間、
私は勝手に邸内の庭を鑑賞したりした。


私は旅路の前に解説を読んだりしてきた。
《・・殿内とは地頭職の者の邸宅の敬称であり、宮良殿内は首里の士族屋敷をまねた建築とされる。
宮良家8世の宮良当演が宮良間切の地頭職(八重山頭職)にあった嘉慶24年(1819年)頃に建造された。

琉球王国時代の住宅は、階級により厳重な規格があったため、
この住宅も八重山の頭職(かしらしょく)には不相応として、5回にわたって取り壊しを命じられたが従わず、
光緒元年(1875年)、検使の譴責により茅葺への葺替えが命じられた。

1893年(明治26年)には石垣島を訪れた笹森儀助が宿泊し、家屋や庭園は沖縄県下で希である、と記している。
1899年(明治32年)には再び瓦葺となった。

構造としては、462坪の屋敷を石垣で囲い、南面には四脚門と、瓦と土を積んだ仕切り屏(ヒンプン)がある。
ヒンプン中央の中門は、重要な祭事や慶事、凶事の際のみに用いた。

母屋はイヌマキを主材とした木造瓦葺・平屋建で、部屋数は12間。
一番座と呼ぶ客間の東側には、石灰岩などで構築した、
首里の庭師・城間親雲上の作という和風の枯山水庭園があり、国の名勝に指定されている。
・・》
このように解説されたことを思い馳せながら、やはりサンゴ礁を配置した素朴な庭・・この程度しか私には解らなかった。


この後、10数分ぐらい庭の樹木を見た後、この『宮良殿内』を辞した。

そして少し疲れを感じたので、石垣市立『八重山博物館』は明日に訪ねようと、
と私は家内に言ったりした。


2月13日(水)
私たちの滞在しているホテルから、数分先に石垣市立『八重山博物館』はあり、
私たちの指定された部屋から『八重山博物館』の建物は視えていた。

入館した後、私たちはそれぞれ鑑賞したが、私は昨日『宮良殿内』に訪れた為か、
『宮良殿内』の模型の展示品を見たりした。


そして、精密な建物の縮図品を眺めたりした。


この後、近世代の布地が展示され、無知な私は見たりした。


そして無念ながら知識もなく、こっそりと解説を見て、これが『芭蕉布』か、
と拙(つたな)い私は教示された。














このように初めて学び、こうした布地で仕立て上げたのか、と多々教示された。

この『八重山博物館』は、「考古・歴史」、「美術・工芸」、
そして「民俗」のテーマに沿った文化財資料の収集や展示されているが、
私はこのくらい学べば充分であり、これ以上は幼児のように知恵熱がでるので、退館しょうと、
家内を待ちわびたりした。
                                       《つづく》
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2月の石垣島と周辺の島々の情景は・・。《9》第8章 海中観光船に乗船すれば

2014-02-11 08:47:07 | 旅のあれこれ
     第8章 海中観光船に乗船すれば

2月12日(火)
午前中のひととき、私たちは石垣港のはずれにある《サザンゲートブリッジ》を渡り、
その先に広大な公園が視えて、そして公園の先は海辺の情景が拡がり、
圧倒的に魅了された・・。

この後、市の中心街に戻り、離島タミーナルに行った。
この離島タミーナルは、竹富島(たけとみじま)、西表島(いりおもてじま)、小浜島(こはまじま)、
新城島(あらぐすじま)、黒島(くろしま)、波照間島(はてるじま)、
鳩間島(はとまじま)の八重山諸島の船の発着が集結された利便性のある処であり、
いつも住民、観光客で賑わっている所でもある。
          
そして後日、私たちは新城島(あらぐすじま)に訪れるので、船の入港、出港を眺めたりしていた。

こうした中で左岸に海中観光船と風変わりな観光船が観えて、
何かしら船内の下部が分展望室となり、サンゴ礁、魚が観ることができる、
と家内が観光バンフレットから私に伝えた。

家内はサンゴ礁、魚などを観ることが好き、私は石垣港の周辺を観光船から観ることができるので、
お互いに乗りましょう、と即時に合意し、乗船を申し入れた。

そして観光船に乗っても、船長の操縦する以外は、乗客は私たち夫婦だけで、
一昨日の10日にヨットでサンセット・クルーズを乗船した時も、乗客は私たち夫婦だけであったので、
『XXちゃん・・またもや貸切専用船のようになってしまったょ・・
何か船長に申し訳ないよねぇ・・』
と私は微苦笑しながら家内に言ったりした。
          
そして船室の一部に、定員52名、と明示版を私は見て、どうみても採算度外視だ、
と私は苦笑したりした・・。
              
そして私は船室の椅子に腰かけて、海を眺めたりしていた・・。
          
こうした時、船室のスピーカから歌が流れた。

BEGIN(ビギン)の『島人ぬ宝』、夏川りみの『涙そうそう』であり、
そして喜納昌吉の『花』、宮沢和史の『島唄』、そして吉川安一さんが作詞された『芭蕉布』が聴こえた。

私は沖縄に旅をした時、最も魅了された歌は、恥ずかしながら『芭蕉布』であった。
こうした旅先の海上の情景を見ながら聴いたりすると、
高音も素敵な女性歌手に導かれるように、私はかぼそい声で唄ったりした・・。
          
♪海の青さに 空の青
 南の風に 緑葉(みどりば)の
 芭蕉(ばしょう)は情(なさけ)に 手を招く
 常夏(とこなつ)の国 我(わ)した島沖縄(うちなー)
【 『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 】

この間、家内は船内の下部が分展望室で、サンゴ礁、魚が観に行っていたので、
音痴の私でも、続いて二番、三番をかぼそい声で唄ったりした・・。

やがて観光船は石垣港に帰路に向った。
          

そして桟橋に戻ると、私は海上の情景と好きな歌ばかりで少し高揚していたので、
船長に記念として写してもよいかしら、
と承諾を得た後、逆光でも一葉を撮ったりした。
               

                                       《つづく》
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2月の石垣島と周辺の島々の情景は・・。《8》第7章 サザンゲートブリッジの先は美景

2014-02-10 08:25:27 | 旅のあれこれ
     第7章 サザンゲートブリッジの先は美景

2月12日(火)
今回私たちが7日に石垣空港から滞在するホテルにタクシーで向かう途中で、
大きな橋が石垣港のはずれに架かっていて、その先は何かしら、と気になったりしていた。

いつも賑わっている市内の中心街の離島ターミナルの桟橋からも見られ、
たまたま市内の郊外を散策し、この大きな橋を歩いてみよう、と私たち夫婦は話し合ったしてきた。

幸いに晴れ渡ったこの日に、滞在しているホテルの前から私たちは歩きだした。
          
市内の中心街からはずれ、港の片隅のひとつを歩いたりした。
          

やがて大きな橋が見えて、
               
まもなく大きな橋に登る階段が見え、私たちは階段を上がりきると、
橋の中核に広い道路、両肩沿いに歩道があり、この歩道からは埋め立ての整備された所が一望できた。
そして、この大きな橋は、《サザンゲートブリッジ》と命名されていることを知った。

やがて《サザンゲートブリッジ》を渡りきると左前方に、広大な公園が視えて、
海辺の状景が観られるかしら、と私たちは足を向けた。

そして公園の先は海辺の情景が広がっていた・・。
          
この後、近くに八重山、沖縄諸島に観られる東屋があり、
私たちは休息も兼ねて木のベンチに腰かけたりした。
          

そして前方は海が大きく拡がり、彼方まで一望でき、
海を観る展望台でもあり、私たちは瞬時に魅せられて、長らく見つめていた・・。
          
やがて私たちは公園の歩道を歩きだし、魅了された海を観る展望台の東屋を振り返ったりした。
          

そして園内の片隅まで歩いたりしていると、
               
この公園は、《八島人工島公園》と知った。
八島は地域名であり、この周辺は今でも埋めてて整備されているが、
《人工島公園》の命名では、美麗な公園に相応しくなく、余りにも痛々しく感じたりした。

しかしながら東屋の付近から観た海の圧倒的な美観は、
          
数多くの人たちに至福のひととき享受できるので、公園名はどうでも良い、
と私は苦笑しながら微笑んだりした。

そして今回の旅路で、もう一度訪れたいなぁ、と思いながら、この公園を立ち去った。
                                       《つづく》
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2月の石垣島と周辺の島々の情景は・・。《7》第6章 自然村を訪ねて

2014-02-09 08:57:45 | 旅のあれこれ
     第6章 自然村を訪ねて

2月11日(月)
昨夜の10日、私たち夫婦は八重山の植物が集約された『八重山自然村』を知り、
本日訪れようと話し合い、バス・ターミナルからの路線バスでわずか12分足らずで、
最寄りのバス停車で下車した。
          
大きな門には、『八重山自然村』と明記されていたが、台風を受けたせいか『八』の字が欠けて、
                         
私は家内に、お気の毒、と言ったりした。

そして開かれた道は直線400メートル前後を歩いた先に、大きな樹があり、
          

             
その近くに館があり、入園料の購入売り場の近くに、動物好きな家内は『エサ』を買い求めたりした。

何かしらこの『八重山自然村』は、古来からの数多くの植物はもとより、
ウサギ、サル、アヒル、ニワトリ、カメ、ブタなども園内のコーナーにいるらしく、
家内は植物を素早く鑑賞しながら、この動物に盛んにエサを与えたりしていた。

私はこうした動物は苦手で、ゆっくりと植物の数多い樹木を観ながら、散策した。
          

こうした小路を過ぎゆく時を友としながら歩くのは、私は好きである。
          

                          

そして簡素な東屋で休息していると、歌が聴こえてきた・・。
          
BEGIN(ビギン)の『島人ぬ宝』、夏川りみの『涙そうそう』のなどの歌であった。

私は今回の旅路の前に、もとよりBEGIN(ビギン)、夏川りみは、石垣島ご出身でなので、
程ほどに聴いたりしてきたので、ゆっくりと時が流れる簡素な東屋で座って聴き惚れていると、
やはり八重山の情景が想い重ね、
こうした植物の中、より強く旅路の思いが心に沁みてきた・・。
          
こうした中、『涙そうそう』の歌に関して、
作詞・森山良子、作曲・BEGIN(ビギン)であることは5年前の頃から、遅ればせながら知っていたが、
《・・森山良子が、ライブで共演したBEGIN(ビギン)と意気投合し、沖縄の曲を依頼した。
BEGIN(ビギン)から送られたデモテープのタイトルに書いてあった「涙そうそう」は、
沖縄の言葉で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」という意味であると聞き、
森山良子が若くしてこの世を去った兄を想う歌詞をつけた・・》
と学んだりした。

或いは三人で構成されているBEGIN(ビギン)のメンバーは、同級生で、
夏川りみの姉がBEGIN(ビギン)のメンバーと同級生の間柄で、
こうした関連からは森山良子、BEGIN(ビギン)、夏川りみの3組は、
何かとコンサート、歌の番組などで出演が多いと知ったりした。

このようなことを思い重ねて、BEGIN(ビギン)の『島人ぬ宝』、夏川りみの『涙そうそう』のなどの歌を
聴いたりした・・。

そして付近にあるスピーカーがあり、館内から歌を流していることが、
この後、知ったりした。


この後、私は園内の樹木をゆったりと観たりし、歩道のはずれを見ると、
あえて放置された情景を見て、この周辺の自然の情景は、こうした景観だったろう、
          
と深く学んだりした。

そして私は小さな花を眺めて、野に咲く花、瞬時に魅了され、
               
家内と待ち合わせている場所に急いだ。
          

                                       《つづく》
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2月の石垣島と周辺の島々の情景は・・。《6》第5章 サンセット・クルーズ、初めてヨットに乗船

2014-02-08 08:31:08 | 旅のあれこれ
     第5章 サンセット・クルーズ、初めてヨットに乗船

2月10日(日)
私たち夫婦は昼過ぎまで、 陽射しを燦々とする中で、川平湾の風光明媚な情景を観たり、
食事処のサンテラスで、バラソルの下で私は煙草を喫いながら、ビールを呑んだりし、至福のひとときを過ごしたりした。
家内はトロピカル風のジュースを飲んだりして、前日までの不安定な天候の中、
雨時々曇り、ときおり風強しが多く、苦い日々を過ごしてきたので、お互いに爽快の時を共にした。

この後、路線バスを利用して、石垣市の街中を散策したし、喫茶店のような所で休息していた時、
『XXちゃんさぁ・・夕方に《サンセット・クルーズ》ツアーの追加をしてみない?』
と私は家内に問いかけた。

私たちが滞在しているホテルのフロントの一角にある観光専門スタッフが常駐しているが、
初めて到着した7日の夕食後に、このコーナーの横にある観光ツアーのパンフレットで、
《サンセット・クルーズ》を知り、私たちは瞬時に魅了されて、
このスタッフの方に13日の水曜日のツアーを申し入れ、やがて確定した。

しかしながら《サンセット・クルーズ》は、夕陽に恵まれないと意味はなく、
私たちは今回のこれまでの旅路は、何かと雨時々曇りで、ときおり風も強い、
淡き陽射しが射したら、まもなく曇り、小雨となり、本日が初めて陽射しが安定した日であった。

このような状況であったので、天候か観光オプション・ツアー施行先の事情で中止も考えられるので、
私は家内に言ったりしたのである。

そして家内は承諾し、やがては観光専門スタッフに急遽本日の追加を申し入れ、
結果としては本日の午後6時から7時半の《サンセット・クルーズ》となった。


私は過ぎし55歳のサラリーマンの現役時代に於いて、会社でハワイ旅行が施行され、
私はオプションのひとつとして《サンセット・クルーズ》に参加したが、
大きな観光船の上、何よりも曇り空で無念の思いの体験があったりした。

こうした私の秘めたる想いで、私たち夫婦は午後5時過ぎに、ホテルのロビーで待機していた時、
何かしらヨットで《サンセット・クルーズ》と聞いていたので、
私たちのような観光の乗船客は6名前後かしら、と私は家内と談笑していた。

まもなく欧米人のような方で細身の長身の容姿の40代の男性が、
私たちの近くに来て、
『XXさんですか? 私が本日の《サンセット・クルーズ》担当するXXXXです』
と私に日本語で挨拶した。

私は観光ツアーの方は日本人の男性で船長のアシスタントの若き男性を想定していたので、
少し驚いたが、家内は全く予測していなかったので、後であの時は驚いたわ、と私に言ったりした。

そしてこの欧米人風の男性に導かれて、送迎車に乗り、やがてヨットが係留されている桟橋に行った。

やがてアシスタントもいなく、この欧米人風の男性がたった独りで操縦、案内人と知り、
私たちは最後部の椅子席に腰かけた。
                  
私たちか何よりも驚いたのは、乗客の観光客は私たち二人だけで、
貸切船で贅沢この上もなく、と私は感じたりした。

そして桟橋を離れて、やがて海上保安庁の巡視船(?)が視られると、
          
『何かとお忙しくて・・大変ですねぇ』
と操縦士兼案内人の欧米人風の男性は私たちに言ったりし、
          
私は瞬時に尖閣諸島の中国、台湾との紛争を思い重ねて、この操縦士兼案内人の欧米人風の男性に好感した。


まもなくして私は、
『海がお好きなようで・・ヨットの経歴は長いのですか?』
このような意味合いの言葉を操縦士兼案内人の欧米人風の男性に重ねた・・。
          
『私は(アメリカ)テキサスの北部の生まれで・・20歳の少し前にヨットに魅せられました・・。
そして1997年から・・この地で《サンセット・クルーズ》しています』
とこのアメリカ人の40代の方は言ったりした。

私は若き頃からヨットに魅了され、各国の海をヨットでクルージングされ、
やがてこの石垣港で、《サンセット・クルーズ》ツアーを施行された、と知った。
             
そして私は映画の『ジャイアンツ』(1956年の作品)でテキサスの時代の変貌、
或いは『大いなる西部』(1959年の作品)で牧場の経営者の娘の婚約者が、
初めて広大な牧場に訪れ、牧童頭に案内される時、
「この牧場は広いだろう・・」と言われて、
「海の方が広いょ」と婚約者の海の男が応えたシーンを
アメリカ人の40代の方に映画のタイトル、主演のスターを英語の単語を駆逐して、私は話しかけたりした。

やがて私は、たまたま同じカメラと知ったりして共感を深めたり、
そして住んでいる処の思い、家族のことなども含めて、私たち夫婦は親睦を深めて談笑を重ねたりした。
          
                  そしてご当人の承諾を得て、私は記念に撮った。

この後、海をこよなく愛し、少し寡黙な男を私は《ヨットマン》と秘かに名付けたりした。
          
そして私たち三人は移ろう時の海上の波、夕暮れの陽射し、雲の流れを見つめたり、
               
こうした中で、私の好きな光景のひとつは。
               
その間に、私と《ヨットマン》は、デジカメで盛んに情景を撮ったりした。
          
このような光景は、海上のヨットの低い角度から、初めて撮れる一葉と思ったりしている。
          

          

          

                                       《つづく》
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2月の石垣島と周辺の島々の情景は・・。《5》第4章 再び川平湾で至福のひととき

2014-02-07 08:53:00 | 旅のあれこれ
     第4章 再び川平湾で至福のひととき

2月10日(日)
朝の天気予報を視聴していたら、滞在3日目で初めて日中は晴れ時々曇りとなった。

こうした晴れマークを視ていたら、一昨日の8日に18年ぶりに川平湾に訪れ、
無念ながら雨は本降りとなり、風はまともに受け、傘を差しても私の衣服も濡れ、
肝要の美景も霞(かす)んでしまい困惑した苦い体験があったので、
敗者復活戦の意味合いも含めて、私たち夫婦は再び川平湾に行くことにした。

市内のバス・ターミナルより午前8時55分発の路線バスで、風光明媚なリゾート線道路を走り、
          
川平の最寄に着いたのは午前9時40分であった。

そしてバスの乗客を迎えるように、サンゴ礁を鑑賞しやすいグラスボート船のスタッフが待機し、
私たちは導かれるように川平湾の岸辺に係留しているグラスボート船に乗船した。

まもなくグラスボート船は午前の陽射しを受けた中、湾内を周遊し、


私たち乗客は周囲の風光明媚な情景をゆっくりと見たりした後、
船底のガラス越しに川平湾のサンゴ礁を群棲をスタッフの解説を聴きながら鑑賞した。
そして乗客の若い女性は歓声を上げたりしていた。

やがて私たち乗客は、波打ち際、或いは浜辺で川平湾の美景を観たり、
記念にデジカメで撮る方が多かった。

その後、私たち夫婦は一望できる展望台に行き、晴れ渡っている川平湾の情景を
長らく観たりした。


そして付近の食事処にあるサンテラスで休憩することとし、
私はビール、家内は南国のフルーツ・ジュースを注文した後、
大きなパラソルが設置され、こうした中で私たちは椅子に腰かけて、
前面の下方に展開する川平湾の情景を眺めたりした・・。


私はパラソルから少し外れて、陽射しを燦々と受けたりして、
ビールを飲みながら、至福のひとときを過ごしたりした。
こうした根底には、前日までの不安定な天候の中、雨時々曇り、ときおり風強しが多く、苦い日々を過ごしてきた。
幸いにもこうした天候に恵まれ、ストレス解消もでき、爽快一言である。


結果として私たちは昼食も兼ね、このサンデッキに2時間ばかり過ごした。


その後、ゆっくりと川平の園内の歩道を歩いたりして、この地を辞したのは午後の1時半過ぎであった。


余談であるが、ビールの付けだしには黒真珠を養育する貝であり、
ときには貝の中に、黒真珠の元となる核玉が入っていることもある。
たまたま私の一杯目のビールの時の付けだしの時は、
ひとつの黒い薄い粘膜があって、家内は微笑みながら、私に2杯目のビールを積極的に進言したりした。

そして2杯目のビールの時の付けだしの時、小さな黒い薄い核玉に私たちは歓声していると、
麗かな50代の女性の店主は、微笑みながら、少し大きめの黒い薄い核玉をプレゼントして下さった。
このお店は道路に面した処は、黒真珠の販売店であり、
川平湾に面した処が食事処、展望デッキだった、と食事の合間に私は知ったのであった。

                                       《つづく》
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2月の石垣島と周辺の島々の情景は・・。《4》第3章 白保(しらほ)の浜辺は静寂

2014-02-06 08:42:45 | 旅のあれこれ
     第3章 白保(しらほ)の浜辺は静寂 

私たち夫婦は、10数キロの及ぶサンゴ礁のリーフとして名高い『白保(しらほ)』の最寄で、
バスから下車した。

私たちはバスも走る道路から、民宿や民家が立ち並ぶ小路を歩き、200メートルぐらい行くと、
浜辺が観られ、薄日が差す中、人影のない浜辺、前方の波打ち際、打ち寄せる水色の波、
彼方は蒼い海となり、大きく展望の光景となっていた。
          
もとより白保の海は、北半球の最大のサンゴ礁と知られ、
各民宿が運営している《サンゴめぐり》ボートなどがあると聞いたりしていたので、
人気(ひとけ)のある民宿を私たちは訪ねたが、春の3月頃から行われる、と教えられたりした。

やむなく私たちは浜辺に戻り、家内は波打ち際で貝、魚を探したりしていたが、
私は浜辺に腰を下ろして、海辺を眺めたりした。
          
そして春から夏、そして秋の頃まで賑わうと思われる浜辺、
或いは《サンゴめぐり》ボートなどの情景を思い重ねたりしていると、
          
ひとつの歌を心の中で唄いだした・・。

♪あした浜辺を さまよえば
 昔のことぞ 忍(しの)ばるる
 風の音よ 雲のさまよ
 寄する波も 貝の色も
【『浜辺の歌』作詞・林古渓、作曲・成田為三】

やがて私たちは白保の浜辺に別れを告げて、民宿や民家が立ち並ぶ小路を歩き、
バスも走る道路に面した食事処で遅い昼食とした後、石垣市の市内に向かうバスに乗り込んだ。

                                       《つづく》
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