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小沢征爾さんが生み出す音楽、世界的ピアニスト・ツィメルマンさんが語る思い出、私は学び・・。

2024-02-21 15:38:01 | 喜寿の頃からの思い
 

《・・6日に亡くなった指揮者の小沢征爾欄さんと
親交の深かった世界的ピアニストで親日家でもあるクリスチャン・ツィメルマンさん(67)が
読売新聞のインタビューに応じた。

数々の共演を通して受け取った最も大きなものは、小沢さんの音楽への情熱だという。(文化部 松本良一)

 

共演「本当に得がたい経験」

 

共演後の楽屋で。小沢征爾さん(左)とツィメルマンさん(1980年代半ば、ツィメルマンさん提供)
共演後の楽屋で。小沢征爾さん(左)とツィメルマンさん(1980年代半ば、ツィメルマンさん提供)


小沢征爾さん死去の報を日本で聞いた。

昨年12月、小沢さんが館長を務める水戸芸術館(水戸市)でのリサイタル後、
小沢さんからメッセージを受け取っていた。
「いつも水戸に来てくれてありがとう、今度は(同館の専属楽団の)水戸室内管弦楽団とも演奏しに来てください」というものだった。
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「小沢さんが体調を崩されて以降、長らく共演から遠ざかっていました。
小沢さんの指揮から生まれる音楽は、
極めて明快で、音楽のすべてが「自明の理」であるかのように感じられた」と振り返り、
「本当に得がたい経験をし、多くのことを学びました」とその死を悼んだ。


40年余りに及んだ小沢さんとの出会いは、
1982年5月、世界最高峰のオーケストラであるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の創立100周年の記念式典コンサートから始まった。
小沢さんが指揮し、ベルリン・フィルにゆかりの深い音楽家たちが出演した。

ツィメルマンさんはその中の一人だった。

5時間を超える長丁場で、他にバイオリニストのメニューインやムター、チェリストのロストロポービッチ、
ピアニストのワイセンベルクら、大物が次々にソリスト(独奏者)として舞台に登場した。

「私が弾いたショパンの『アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ』を始め、
あまり演奏されない曲も多かったのに、小沢さんはすべて暗譜で振った。
そのプロフェッショナル精神に感銘を受けました」

2日間行われたコンサートは終始、祝賀ムードに包まれ、出演者全員がリラックスしていた。
その和気あいあいとした雰囲気が、最高の出会いを導いた。

「演目が多く、リハーサルだけで8時間かかった。
お互いに冗談でも飛ばさないと、その長丁場を乗り切れない。

そんな時だからこそ、ユーモアたっぷりで情熱的な小沢さんに、親近感を覚えたのです。

1か月後、小沢さん指揮のベルリン・フィルとショパンの『ピアノ協奏曲第2番』を共演し、
その音楽に魅せられました」

その後、2000年までの間に一緒に演奏した曲は数多い。

ほかにベートーベンやブラームス、バルトークのピアノ協奏曲などを少なくとも30回近く共演したという。
「ベルリン、パリ、ロンドン、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、そして東京・・・。
ボストンや東京では、何度も一緒に食事をしました」と懐かしそうに話す。


小沢さんの音楽の何がそれほど魅力的だったのか。
「ソリストである私にとって、小沢さんとの共演は、常にとても心地の良いものでした」と打ち明ける。

「小沢さんは『自分は偉大な人間だ』といった偉そうなポーズを決して取らなかったし、
指揮者としてのエゴを、前面に出すこともなかった。

とにかく音楽と共演するソリストに、神経を集中させる。
すると音楽は、指揮者一人でリードするものではなく、
ソリストとオーケストラを含めた演奏者全員のものになる。
そうしたことを当たり前のこととして、実現できる人でした」

ツィメルマンさんは87年4月、小沢さんが音楽監督を務めていたボストン交響楽団と
初めてレコーディングに臨んだ。

曲目はリストの「ピアノ協奏曲第1番」と「第2番」、そして「ピアノとオーケストラのための『死の舞踏』」だった。

「小沢さんは、たいへん柔軟な考えの持ち主でした。
ピアノ協奏曲第2番の中に、ピアノとホルンだけになる箇所がある。

私はそこで、通常とはちょっと違うことをホルン奏者にやって欲しかった。
それを相談すると『なんで直接ホルン奏者に言わないの? 
二人で決めてくれたら僕が合わせるよ』とさらりと言うのです。

普通は、こんな風にはいかない。
『そういうことは直接奏者に言わず、まず自分に言ってくれ』となります」

 
「小沢さんほどソリストの『感情』に寄り添ってくれる指揮者はいなかった」と語るツィメルマンさん=大金史典撮影
「小沢さんほどソリストの『感情』に寄り添ってくれる指揮者はいなかった」と語るツィメルマンさん=大金史典撮影
ツィメルマンさんが小沢さんと共演したCD(c)ユニバーサル ミュージック
ツィメルマンさんが小沢さんと共演したCD(c)ユニバーサル ミュージック


本番の時、小沢さんはその箇所で指揮棒を止め、
ピアノとホルンによる静かな室内楽のような雰囲気を作ってくれたと、ツィメルマンさんは言う。
音楽を自分のものにせず、みんなで作り上げることにこそ価値がある、と考える小沢さんらしい話だ。
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さらに「死の舞踏」では、こんな話を明かした。

この曲はもともとコンサートのプログラムにも、レコーディングの予定にもなかった。

それをツィメルマンさんが「こういう曲もある」と提案したところ、
小沢さんはすぐに楽譜を取り寄せ、急きょプログラムに加えた。

「十分にリハーサルする余裕もなく、ほとんどぶつけ本番だったのですが、
小沢さんはいつものように暗譜で臨み、信じられないほどうまくいった。

CDに収められた演奏の9割近くが、コンサートの時のライブ音源です。
この曲を弾いたのは、後にも先にもこの時だけ。
アドレナリン全開で音楽に没入した記録です」。

小沢さんとの奇跡的な「一期一会」。
理想的な演奏とは本来こういうものなのだろう。

「小沢さんとは、不思議な縁があります」

その前年の8月、オーストリアのザルツブルク音楽祭で、印象的な出来事があった。

小沢さんは、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、
リストのピアノ協奏曲第1番を世界的ピアニストのマルタ・アルゲリッチさんと共演する予定だったが、
アルゲリッチさんがキャンセル。

急きょ代役として、ツィメルマンさんに出演依頼の電話がかかってきた。

しかし、ツィメルマンさんは、仕事の関係でコンサート前日までスイス・バーゼルの自宅におり、
翌日午前中にザルツブルクで予定されているコンサートには、間に合わないと出演を断った。

「その時に『飛行機でも特別に手配してくれれば別ですが・・・』と冗談で言ったんです。

そうしたら30分後に、音楽祭事務局から電話が来て、
『(当時音楽祭を仕切っていた)ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~89年)所有のプライベートジェットを用意しました。
朝一番でそれに乗ってください』と」

ツィメルマンさんは、代役を無事果たした。
それは絶大な力を持ち、「帝王」と呼ばれていたカラヤンの判断だったのか、
あるいはカラヤンのまな弟子である小沢さんの機転だったのか・・・。



ツィメルマンさんは、70年代後半から80年代前半にかけて、
カラヤン指揮のベルリン・フィルのコンサートにたびたび出演し、
シューマンやグリーグのピアノ協奏曲を録音した。

一方、カラヤンと人気を二分した大指揮者、レナード・バーンスタイン(1918~90年)が振るウィーン・フィルとも仕事をし、
ベートーベンのピアノ協奏曲を録音するなど、両者と緊密な関係を築いていた。

20世紀後半を代表する巨匠2人に愛されたピアニストは、
2人を師と仰ぐ小沢さんについて鋭い指摘をする。

「小沢さんの一番良いところは、音楽に対する信じられないほどの正直さ、まじめなひたむきさです。
それはカラヤン、バーンスタインの音楽作りに通じる」。

その上で、音楽を綿密に突きつめるのではなく、
自らが感じるままに直感的に行動し、「音楽とはこういうものなのだ」と提示する才能が、
小沢さんにはあったという。

「音楽家の気質や人柄は、音楽に影響を与えますが、世代による違いも大きい。
カラヤンやバーンスタインは、私よりはるかに年齢が上で、何より偉大で尊敬すべき人物でした。

バーンスタインは、とても気さくな人でしたが、
17年間一緒に仕事をしても、私は『レニー(バーンスタインの愛称)』とは呼べなかった。

(1935年生まれの)小沢さんは、より年齢が近く、親しみを込めて接することができました」

 

 

 

ツィメルマンさん
ツィメルマンさん

気難しい芸術家気質とは無縁だった小沢さんらしいエピソードも披露してくれた。

2000年に小沢さん指揮のボストン響と、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」をボストンで弾いた時のことだ。
その時の録音はCDで聴くことができる。

 
「終演後、巨大なリムジンで来た友人たちとコンサート会場近くで夕食をとることになった。

みんなが乗り込み、さあ出発というところに小沢さんがやって来て、
『僕も一緒に行く』と言うのです。

でもリムジンは、もう満席。
すると小沢さんはなんと、後ろのトランクを開けて乗り込んで来たのです! 
あんなことができる人は、ほかにいません」

多くの貴重な思い出を語ってくれたツィメルマンさんに、
小沢さんとの共演から学んだ一番大事なことは何かと尋ねた。

すると、すぐに「音楽における自らの役割や立場を理解していることです」
という答えが返ってきた。

少人数で奏でる室内楽では、それがより明確だが、
ピアノが大編成のオーケストラと演奏する時も、同じだという。

「かつて小沢さんから、こう言われたことがあります。
あなたとの共演では、あなたが音楽全体の中で、どこにいるのか、
その『立ち位置』が、いつもはっきりわかると。
あれは最高の褒め言葉でした」。

「立ち位置」がわかるとは、協奏曲のソリストという外面的なことだけでなく、
その音楽の内面において、どのような役割を担っているかを掌握できるということ。

演奏前に必ず作曲家の自筆譜などを入念に読み込んで研究すると語るツィメルマンさんは、
曲に対して明確な解釈を持っている。
だから指揮者も、どこでどのようにすればいいかがわかる、ということだろう。

ツィメルマンさんは、ずいぶん前から指揮に関心を持ち、
若い演奏家を集めたオーケストラを自ら組織して、
ショパンのピアノ協奏曲をピアノを弾きながら、指揮して録音したこともある。

「オーケストラが迷走したり、楽団員が指揮者に対して疑念を抱いたりしないように、
指揮者は、常に音楽の道筋をはっきり示さなければいけない。

小沢さんは、指揮者の権威ではなく、音楽の内面的理解によってそれを達成し、
楽団員との間の障壁を見事に取り除くことができた。
その姿勢はとても勉強になりました」

ツィメルマンさんは最後に、小沢さんは指揮者として、
日本人音楽家として「新しい伝統」を作った人だと強調した。

「今の日本の若い人で、ヨーロッパ人の前でクラシック音楽を演奏することに、
コンプレックスを感じる人は、もういないでしょう。

小沢さんが、その道を切り開き、自信を与えてくれました。
また、指揮者としてオーケストラに自分へのリスペクトを求めることなく、
自然にリスペクトを手に入れるすてきなお手本を示してくれた。

小沢さんと共演した時間のすべてが、私にとってかけがえのない贈り物だったと思います」




 Krystian Zimerman  
1956年、ポーランド生まれ。音楽好きの両親の下で育ち、
75年に史上最年少の18歳でショパン国際ピアノ・コンクールに優勝し、
巨匠指揮者のカラヤンやバーンスタインらと共演を重ねた。

卓越した技巧と透徹した音色、綿密な解釈で世界的に高い評価を受けている。
近年は学生オーケストラを組織するなど教育・指揮活動にも力を入れる。
現在はスイス在住。東京にも家があり、可能な時は日本で過ごしている。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


今回、世界有数なピアニストのツィメルマンさんより、
指揮者の小沢征爾さんと共演を重ねる中で、
小沢征爾さんが生み出す音楽「極めて明快で、すべてが自明の理であるかのよう」、
と語られたことも、私はわずかながら理解できたりした。

何よりも具体的に、小澤征爾さんの指揮者として思い、そして演奏者に対する思い、
初めて私なりに学び、襟を正した・・。

そしてツィメルマンさんが、小沢征爾さんの功績のひとつとして、
《・・今の日本の若い人で、ヨーロッパ人の前でクラシック音楽を演奏することに、
コンプレックスを感じる人は、もういないでしょう。
小沢さんが、その道を切り開き、自信を与えてくれました。・・》、
この発言には、私は瞬時に賛同をしたりした。

私は40数年前、ある教養誌を読んでいた中で、
小澤征爾さんが、若き日にヨーロッパでクラシックが確立した世界に、苦悶している時、
たまたまパリに訪れた作家・井上靖(いのうえ・やすし)さんから、
アドバイスを受けたらしい・・。

日本語は欧米人には理解してくれることは困難であるが、

楽曲は国境を超越して伝わるから・・、
とこのような意味合いのいの言葉で大いに励まされた、
と小澤征爾さんが後年にインタビューで、語っていたことを私は思い浮かべたりした・・。


コメント (3)
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