夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

人生が二度あれば、と叶わぬ夢を老ボーイの私は、ときおり独り微苦笑して・・。

2016-08-08 16:14:13 | ささやかな古稀からの思い
シンガー・ソングライターの井上陽水さんには、『人生が二度あれば』(1972年)という名曲があり、
もとより人生は、誰しもやり直しが叶わぬことであるが、ときおり老ボーイの私は、
あの時、人生の岐路に於いて選定が変わっていたら、つたない人生航路を歩んできた私でも、
大幅に変化していたよなぁ、独り微苦笑したりする時もある・・。

私は過ぎし45年前の頃、青年時代に於いて、映画・文学青年の真似事をして敗退したひとりである。
                             

多く人は、若き日のひととき、小説、随筆などを読み、読書に魅せられ、
やがて一部の人が、ある作家たちの作品に魅了され、多くの作品に感銘さえ感じることだろう。

或いは世界、日本文學全集などで読む中で、圧倒的に魅せられる作家を見いだし、
単行本、文庫本、文藝雑誌を読んだりすると思われる。

こうした中で、一部の人は、このくらいの作品であったならば、
私だって書けると錯覚して、習作されると思ったりするが、
もとより読者と創作する作者とは、天と地以上に差異があることに気付かされたりする。

或いは魅了されている作家の作風、文体を真似ていたことに気付き、
創作者にあこがれるが、創作者には到底なれないと自覚させられ、断念する人が多い。

こうした中で、この作品を書き上げなければ、一歩先に進めない、と自覚する方で、
独自な作風、文体を確立しそうな方だけが、作家の第一歩に相応しい、と感じている。

従って、どのような分野の作家も、魅了された先人の創作者の模倣から始まり、
やがて独自な作風、文体を確立できなければ、職業作家としては失格となる。

こうしたことは小説の世界にとどまらず、映画の作品も同様である。
ある作品を観れば、先人の創られた作品に影響され、あるシーンを巧みに模倣している、
と気付いたりすることもある。

或いは音楽の世界でも、メロディーラインも同様なことが発生し、多くの方も気付いていると思われる。


私は定年後の年金生活11年半が過ぎている中で、読書は好きであるが、
小説を読むことは激減して、随筆、ノンフェクション、近現代史を読むことが圧倒的に多い、
と微苦笑したりしているのが、昨今となっている。
            
                              
私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
やがて都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、 初めて習作した。

そして 私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
やがて一週間が過ぎた頃、川端康成(かわばた・やすなり)さんの影響を感じられるが、
何よりも青年の心情が感傷過ぎている、と苦笑されたりした。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんの『切腹』を脚色された作品
(原作・滝口康彦、監督・小林正樹、1962年)を観て、
圧倒的に感銘させられ、やがて東京オリンピックが開催された大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
                                 

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、
このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

この当時の私は、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。

或いは中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしていた。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上靖(いのうえ・やすし)さん、そして立原正秋(たちはら・まさあき)さんの両氏であった。

やがて私は契約社員の警備員などをしながら、生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。
                      

しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、劣等感を秘めて私の方からは連絡も避けていた。

そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

こうした中で確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。
                      

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
      
やがて中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

そして最後の5年半は、リストラ烈風が加速される中、あえなく出向となったり、
何とか2004年(平成16年)の秋に定年を迎えることができたので、
敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
                       

この間、私は40代の少し前、あるレコード会社で社内のシステム開発で奮戦していた時、
若き日に映画・文学青年の真似事をして、創作家にあこがれを持ち、
小説家になりたい、と念願していたことが、いかに甘かったか、と遅ればせながら気づかされたのである・・。

こうした心情の奥底の思いは、私と似たような作家志望の人たちに対して、
後年に長年に出版社の光文社で、ご活躍された山田順(やまだ・じゅん)氏が、的言している。

氏の長年の編集者の体験をした発露のひとつ、
《・・私の経験から言うと、作家志望者のほとんどが、実際には印税や名声を望んでいるだけである。
彼らが作品を書くのは、それを得るための手段に過ぎない。

ほとんどの作家志望者は、社会に伝えたい明確なメッセージや思想を持っていないし、
それを裏付ける経験もない。・・》
このように明言され、今後も創作者をめざす人には、貴重な哲学のような銘言と私は感じたりした。
                       

そして小説家をめざす数多くの人は、文学部で学び基礎を習得し、その中のほんの一部の方が、
純文学の『新潮』、『文學界』、『群像』などの雑誌で掲載される機会があり、
こうした方たちでも、果たして筆一本で妻子を養っていける方が少ない、と学んだりした。

若き日に私が、たとえば偶然に純文学の新人賞を得たとしても、
その後の作品を書き上げて、掲載される保証もなく、才能も乏しく、
やむえず生活の為に、この世に多い教養講座の文藝講師などに、ありつければよい方だろう・・。

そして、たえず生活費に追われながら、文學の夢を捨てきれない時期を過ごしていただろう、
と深く思ったりした。
                                  

このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された定年退職後の人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
                       
          
ここ10数年の出版業界の不況を、読書好きな私は憂いたりしている。

作家・瀬戸内寂聴さんが確か2009年(平成21年)10月に於いて、
読売新聞社・主催の講演会で、発言されたことを思い重ねている。

《・・私を見習って、もしもみなさんの中に小説を書こうと思っていらっしゃる方がいれば、
お勧めしかねますね。
非常に険しい道でございます。
そして人が認めようが認めまいが、芸術というのは、その人に才能がなければ意味がないんですね。

一に才能、二に才能、三に才能なんです。
あとは運ですよ。
努力なんてしなくても、才能があればモノになる。
これは芸術だけでございます。

作品がどれだけ読まれるか、残るかというところで、勝負がつきます。
だいたい流行作家のよく売れてる本というのは、死んだら3年と持ちませんよ。
                       

わたしの先輩の円地文子さんが、女流作家では最高のところにいらっしゃった方で、源氏物語も訳した方なんです。
その方が顔を見るたびに、言ってらっしゃったんです。
「作家なんて生きている間だけよ、生きている間に稼ぎなさい」と。

私もその教えが身にしみていますから、本当に死ねば、誰も読んでくれなくなるんですよ。
・・
文学というものは量ではなく質です。
私がなかなか文学賞をもらえないように、これも量ではなく質の問題で、
いくら量を書いても、意味がないんですね。
          
しかしその中でも、人は認めないけれども、私がよしとするものもあるんです。
それがないと作家なんてやってられませんからね。
小説家で通す、書くことだけで生活する、というのは、やはりとても難しいことです。

私は長く生きて、長くこの世界におりますけれど、今また最低の時代がやってきました。
本屋に行くと、山ほど本がありますよ。
読みきれないほど、新刊本が並んでおります。
その中でどれだけ残るかわからない。

目まぐるしく人の嗜好(しこう)が変わっておりますからどんどん読み捨てになっています。
出版社がだんだん、もちきれなくなっている。 (2009年12月3日 読売新聞)一部を引用 ・・》
                                 

こうした出版業界と創作者の作家の状況の中、電子書籍の時代の著作権が不明確のまま到来、
何よりも出版社と著作者に無断のまま、本を裁断してコピーし、販売する業種も出現し、
出版社などは、大揺れの状況下となっている。

或いはアマゾンなどのネット書店に席巻されて、街にあった中小書店が激少し、
出版業界全般として縮小している。


昨今、私が衝撃を受けたは、芥川賞作家の柳美里(ゆう・みり)さんが、インタビューされた記事の中で、
《・・多くの作家が経済的に困っている状態ということですか、と問いに、
柳美里さんは、「書くことだけで食べている作家は、30人ぐらいではないか」という話を聞いたのですが、
かなりリアルな数字だと思います。
ただ「貧乏は恥ずかしい」と考えている方が多く、公にしないだけだと思います。・・》

こうしたことに私は動顛させられた。
                       

そして私が勤めてきた音楽業界のレコード会社の各社でも、
1998年(平成10年)に売上のピークで、これ以降今日まで下降している。

主因としては、経済の低迷化の中で、ネットの違法な音楽配信の蔓延化、そして社会全般の多趣味化であり、
やがて正規な音楽配信元でも、無料、或いは有料の音楽利用料金が普及してきたが、
著作権を有するアーティストに対しての対価は、余りにも廉(やす)過ぎる、と私は感じたりしている。

このような環境下では、肝要の音楽アーティストの多くは、
収入の激少化となり、生活もままならず、創作意欲がなくなってしまうのではないか、
或いは転職を余儀なくされてしまうのではないか、と憂いたりしてきた。
                    

この世には職業には貴賤がないといわれているが、
たとえば政治家の諸兄諸姉は、法律を立案や憲法を改定したり、外交が破綻した時は戦争をしたり、
或いは財界人は経済を発展させる基盤を施策したりして、国民の豊かさを享受させる能力を有する方が、
ここ百年でも歴然としている。

こうした方の前では、小説家とか音楽アーティストなどの創作者の多くは無力であるが、
しかしながら一部の人に圧倒的に感動させたり、感銘させる心を豊かにする作品に、
私は小説家になれなかった劣等感の為か、創作者には敬意し絶賛してしまう習性が、ここ50数年の深情である。
            

年金生活をまもなく丸12年を迎える私は、年金生活の中、都立の神代植物園に四季折々散策したりしてきた。
こうしたある日、人生が二度あれば、神代植物園の園長になれれば良かった、と夢想したりした。

こうしたことの前提として高校、大学も勉学に励み、やがて難関の都庁に勤めて、都立の公園を管轄する部署で精進し、
そして定年退職する前の3年間ぐらい神代植物園の園長で、現役働く生活を終える。

このようなことを思案したりしたが、過ぎ去った70数年の今、もとより叶わぬ夢であり、
老ボーイの私は、独り微苦笑したりすることもある・・。

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