夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

俳優・宝田明さんのご一家、敗戦後の満州より苦難の帰還に、涙を浮かべて・・。

2015-08-13 12:29:02 | ささやかな古稀からの思い
私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
戦争の過酷で悲惨な状況は、戦地に行かされた親戚の叔父さん、近所の小父さん、
或いは近現代史、随筆、映画などで学んだりしてきた。

今年は戦後70年に伴い、新聞、総合月刊誌などで特集記事が掲載されたり、
テレビの番組でも、数多く放送されている。

私が購読している読売新聞の朝刊に於いても、『戦後70年』の連載記事が掲載され、
私は襟を正して読み、多々教示されている。

昨日の12日は、海外の地で敗戦に遭遇した人々を掲載されていた。
転記させて頂くと、
《・・敗戦時、海外には軍人・軍属、民間人を合わせ約660万人の日本人がいた(厚生省「援護50年史」)。
最も多かったのが満州で、約155万人。
満州を占領したソ連は在満の日本資産を持ち去るばかりで、邦人保護に目を向けなかった。

頼みの綱の関東軍も満鉄も1945年9月末までに消滅し、残された日本人は寄る辺を失う。・・》
          

私は二十歳の頃に、藤原ていさんの『流れる星は生きている』を読み、
1943年に新京の気象台に赴任する夫(後年、作家の新田次郎=本名・藤原寛人)と共に満州に渡り、
やがて敗戦後の1945年、夫を一時残して、子供を連れ満州より引き揚げ苦難を学んだりした。

ここ10年は、ご子息の数学者でエッセイストの藤原正彦さんの随筆で、
この時の悲惨な状況を教示されたりしてきた。

或いは作家の五木寛之さんは、敗戦時に平壌にいて、ソ連軍進駐の混乱の中では母死去し、
やがて父と共に幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げる状況を
ときたま随筆で公表されたのを、ここ30数年読んだりしてきた・・。
          

昨日の『戦後70年』は、俳優・宝田明さんが敗戦時は満州の地で、
日本の地に引き揚げるまでの過酷な実態が掲載されていた。
やがて、記事を読み終わった時、私は涙があふれていたことに気付いた・・。

無断であるが記事を要約させて頂く。

《・・12歳で満州(現中国東北部)から引き揚げるまで、日本の地を踏んだことがありませんでした。
父は、朝鮮総督府の海軍武官だった祖父の勧めで、鉄道技師として朝鮮総督府鉄道に入り、私も朝鮮で生まれました。

2歳の時、父が南満州鉄道勤務になり、満州に移りました。
小2から終戦まで暮らしたのはハルビンです。

1945年8月9日夜、轟音ごうおんで家族全員が跳び起きました。
敵の飛行機が旋回し、ハルビン駅近くに火柱が立っていました。
そして15日。玉音放送で敗戦を知り、五臓六腑をえぐりとられたように、全身から力が抜けました。

日本の軍隊は武装解除し、無政府状態の街にソ連軍が侵攻してきたのです。
ソ連兵は略奪、暴行、陵辱の限りを尽くし、日本人は子ヤギのように脅おびえていました。

生きるために何でもやりました。
靴磨きやたばこ売り。ソ連兵から黒パンの切れ端をもらうためです。

そのうち強制使役の命令が下りました。
父と中学生の三兄と私の3人が毎日交代で、ハルビン駅のそばから貨物列車まで石炭を運びました。
列車には関東軍の兵隊さんたちが次々に乗せられ、北へ向かいました。
シベリア抑留のために働いたのかと思うと、辛つらいです。
                    

出征した兄が乗っているかもしれないと、私はホームを歩き回りました。
その時です。見回りのソ連兵に撃たれたのです。

転げるようにして家に戻りました。右腹が熱くて仕方がありません。血だらけでした。
1日我慢したら、はれて悪化するばかり。元軍医という人に来てもらい「緊急手術」です。

麻酔も手術道具もありません。
裁ちばさみの刃を焼いて消毒し、傷口を切り開きました。
出てきたのは、使用が禁止されているはずのダムダム弾。
鉛がつぶれて体内に広がる恐ろしい銃弾でした。
糸も針もないので傷口はそのままでした。

46年11月、日本への引き揚げが決まりました。
最も気がかりだったのは、三兄が強制使役に行ったまま、半年以上戻って来なかったことです。

やむなく両親と弟と私の4人で出発することになりました。
父の生家がある新潟の住所を紙に書いてホームの鉄骨に貼り、「必ず来い」と呼びかけ文を付けました。

引き揚げ船が出るのは、南満州の葫蘆ころ島。
ハルビンから列車に乗り、野を越え山を越えて、2か月半かかりました。
食べ物もなく、赤ん坊を死なせるよりはと、途中で中国人に託す人もいました。
弟は6歳でしたが、よく頑張って付いてきたと思います。

博多港から列車を乗り継いで、新潟に着いた時はぼろぼろでした。
          

生活のため、母は魚の行商を始めたのですが、
47年冬のある日の午後、母の手伝いをしていると、
軍隊の外套がいとうをまとい、顔に傷のある男の人が通り、役場の場所を聞かれました。

1時間ほどで戻って来て、何度もこっちを振り返るのです。
それが、ハルビン以来、行方不明だった三兄だったとわかった時はもう……抱き合って、涙、涙でした。

兄はソ連軍の兵舎で飯炊きをさせられ、やっと解放されて社宅に戻ったら誰もいない。
一人で南へ南へと歩き、密航船に乗るためお金を稼ぎ、九州上陸後は日本海沿いに歩いてたどり着いたというのです。
15歳の少年にはあまりに過酷な体験。

自分は家族に見捨てられたという思いが消えず、しばらくして家を出ました。

私が東宝に入って、グラビアに出るようになると、「よかったな。足しにしろ」と、300円を送ってきました。
本当は心の温かい三兄でした。63歳で亡くなったのが悲し過ぎます。
次兄は復員しましたが、長兄は戦死しました。

無辜(むこ)の民をも引きずり込んで、一生を狂わせてしまう。
それが戦争なのです。・・》
          

私は三兄が満州のハルピンに取り残こされて、《・・ソ連軍の兵舎で飯炊きをさせられ、
やっと解放されて社宅に戻ったら誰もいない。
そして15歳の三兄は、動乱のハルピン、やがて朝鮮半島、独りで南へ南へと歩き、
困窮しながら密航船に乗るためお金を稼ぎ、
九州上陸後は日本海沿いに歩いて、念願の新潟にたどり着いた・・》

こうした状況を思い馳せたりしていると、私は涙があふれたのである。

かくも戦争は余りにも、悲惨で過酷である。

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コメント (2)
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