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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

定年後の男性、低所得よりも怖いのは“精神的な貧困”と学び、年金生活の私は微苦笑し・・。

2015-08-09 10:24:52 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業のサラリーマンを卒業した年金生活の70歳の男性の身であるが、
昨夜のひととき、パソコンを開き、私はトップページの【YAHOO! JAPAN】をぼんやりと見た。

そしてトップニュースの見出しが8つ表示されている中で、
【低所得よりも怖いのは“精神的な貧困”】を見て、どういうことなのょ、
とクリックしてしまった。

やがて記事を読み終わった後、定年後の男性の一部には“精神的な貧困”になるケースがある、
と知り、何かとプラス思考の年金生活11年生の私は、微苦笑させられたした・・。

この記事の原文は、『週刊SPA!』に掲載された記事のひとつであり、
社会学者の阿部真大・甲南大学准教授が回答を寄せられている内容であり、無断ながら転載させて頂く。
          

《・・「未婚化が進む日本では、高齢男性の“おひとりさま”世帯はより増えていきます。
経済的な貧困の解決は、政治の問題ですが、
“精神的な貧困”に陥らない方策を提示することが、社会学的な課題です」

そう語るのは社会学者の阿部真大氏。
精神的な貧困の代表である孤立化は、未婚化が進む現代人にも悩みの種だ。

「老人ホームの調査をする際、たむろしておしゃべりしている女性に対して、
男性は独りぽつねんとしている姿を目にします。

別に『男もおしゃべりのスキルを』と言っているわけではなく、
“独りでいても孤独を感じない”ということが重要です。
これは“他人志向型”
つまり他者からの評価を価値基準とする出世競争に邁進してきた人ほど陥りやすい。

精神的貧困を避けるためには、自分だけが楽しめる価値観を持った、“内部志向型”の人間を目指すべきです」
          
  
定年後、おもむろに趣味を持ち始めようとして挫折する高齢者は多い。
現役世代のうちに、仕事とは別の趣味や生きがい、人的ネットワークを持つことが大切なのだ。

「高齢化社会というとマイナス面ばかりが取りざたされますが、
見方を変えれば、“知恵を持ち、落ち着いて物事を見れる”人が多い社会ともいえます。

成熟した高齢者の知恵とは生きるための工夫や、人付き合いのスキルである“生活知”のこと。
コンテンツばかりが高齢化している今の消費社会では見えづらいですが、
老後は消費することが豊かさには直結しません。

そのために必要なインテリジェンスは、今からでもカネをかけずに身につけることができます」

カネがすべての価値観が、閉塞感を生み格差を感じる。
ボロを着てても心は錦の精神が重要だ。 <取材・文/スギナミ>

<3か条>
1 孤立しても孤独を感じない内部志向型の人間を目指す
2 現役世代のうちに仕事とは別の趣味、仲間を見つける
3 生活知を磨くことが尊敬される老人への第一歩・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そしてサラリーマンの現役時代に於いては、もとより我が家の収入の責務は私であるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。
          
          
こうした中で家内は少なくても料理、洗濯、掃除などがあり、
私は現役のサラリーマン時代から、小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後の年金生活に於いては、日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

それでも小心者の私は、引け目を感じて、家内の茶坊主に専念し、
家内がコーヒーが飲みたい雰囲気を察して、私は日に5回ぐらいは淹れたりしている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。
                                  
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良し恋し、
と何と社交辞令を頂いている私たちでも、
いずれは片割れとなり『おひとりさま』となる・・。

そして残された方は落胆し寂寥感を深める中、強い趣味があれば、やがて失墜感は薄らいで、
命果てるまで生きがいのひとつとなると思い、お互いの趣味の時は大切にしている。
          
そして時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                       

昨日の午後3時過ぎ、小庭の樹木と樹木の間を20前後の蜻蛉(とんぼ)が舞っていた。

そして群れをなして悠然と舞っているが、ひとつの蜻蛉だけは群れから勝手に離れて、
自在に舞っているので、私に似ているのかしら、と私は思わず微苦笑したりした。

蜻蛉の群れは3分ぐらい舞った後、青い空に向かい、
そして独りぼっちの蜻蛉も群れに遅れながらも、何処に去って行った。
          

過ぎし2006年〈平成18年〉8月下旬、年金生活丸2年を迎えようとした時、
山口文憲(やまぐち・ふみのり)・著作の『団塊ひとりぼっち』(文春新書)を読んだりした。       

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に、
大学を中退し、アルバイトとか契約社員をしながら映画・文学青年の真似事をし、やがて敗退し、
その後は民間のある会社に何とか中途入社できたのは、
1970年(昭和45年)4月で、満25歳の時だった。

この時代、定期採用で新入社した人達は、団塊の世代の人々であった。
そして私はやがて本社に配属されて、団塊の世代の人々と机を並べることが多く、
この業界の荒波の多い時代の苦楽を共にし、何かと友人には団塊の世代の人々が多かった、

やがて2007年(平成19年)の頃から、団塊の世代の多くは定年を迎えるに際し、
数多くの団塊の世代について出版されていた・・。

こうした中で、私は山口文憲・著作の『団塊ひとりぼっち』からは、多々教示され、
団塊世代の多くは、これからの時期も《ひとりぼっち》と学んだりした。

私は中途入社の身であったので、彼ら同期で何かと励まし合いながらも時代を過ごしてきたのを、
羨ましく感じたりしてきたので、遅ればせながら私は衝撃を受けたりした。

そして私は定年後の年金生活は、何かと『ひとり遊び』の読書、本屋に寄ったり、散策などが多いので、
彼ら団塊世代も《ひとりぼっち》かょ、と微苦笑したりし、今日に至っている。
                    

昨年の2014年7月中旬、ネットで偶然に
『“孤独力”を身に付け、より豊かな人生を歩む』と題された見出しを見て、
幼年期から何かと『独り遊び』が好きな私は、どういう内容かしら、と思いながら記事を精読してしまった。

この記事は、『週刊SPA! 』の青山由佳さんが取材されて、綴られた記事であり、
無断ながら転載させて頂く。

《・・独身、離婚、孤独死への不安。
漠然とした闇を一切感じさせず、「ぼっちライフ」を謳歌している中年たちがいる。
なぜ孤独でも楽しく過ごせるのか? 中年を迎えたときに、隣に誰もおらずとも寂寥感にとらわれずにすむ方法を模索した。

◆“孤独力”を身に付け、より豊かな人生を歩む

老後のためのライフラインづくりが必要な一方、
精神科医の水島広子氏は「他者に振り回されないためにも、孤独力が重要」と語る。

「孤独力とは、人の目を気にするのではなく、自分の置かれている環境に感謝したり楽しむということ。
『友達がいない』『食事をする相手がいない』と引き算の発想をするのではなく、
今できることに感謝するのです。

群れを好む人は、誰と時間を過ごすかよりも、『人と一緒にいる』ことだけで満足してしまいがち。
誰かいないと何もできないので、“自由度”も格段に低い。
上質な時間を過ごし人生をより豊かにするためにも、単独で動く習慣は大切です」
                    

また、他者の目を気にするのは、40代後半からのバブル世代に多く見られる傾向だという。

「バブル期は、ぼっちというだけで人間性が否定されるほど、みんな他人の目を気にしている時代でした。
でも今こそ、その価値観を捨て、本当に自分がやりたいこと、
共に過ごしたい人や環境などを他者に振り回されずに選択すべき。
孤独力こそ人間としての基本力に繋がるのです」

他人の評価で価値を決めず、自分で考え行動する。
孤独力は対人関係の質の向上にも繋がるのだ。・・》

このような記事であったが、何かと『独り遊び』が好きな私は、
そうですよねぇ、と微苦笑しながら、同意したことがあったりした。
                    

しかしながら私は、母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして上記の《・・ボロを着てても、心は錦の精神が重要だ・・》は、
高齢者こそは清潔な身なりをしなければ・・と平素から家内から私は言われているので、
少しは身なりを整(とと)えて、颯爽と歩いているが私の実態となっている。


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