私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の午前中のひととき、NHKのテレビのニュースを視聴していたら、
大型で強い台風26号は16日午前、勢力を保ったまま伊豆諸島付近や千葉県沿岸を通過した時、
伊豆大島(東京都大島町)に於いては 台風に伴う大雨で、
同日未明に観測史上最多の1時間に122・5ミリの記録的な雨を観測し、土砂崩れなどが発生。
警視庁や大島町によると男女13人が遺体で発見され、43人と連絡が取れなくなっている。
このようなことを報じていた・・。
私はテレビの画面を見ながら、少し動揺を重ねたりした。
やがて過ぎし年に伊豆大島に訪れた旅路の情景、
そして私たち夫婦が今後に深い思い秘めて伊豆大島に訪れることを思い馳せたり、
複雑な思いを交差させたりした・・。
私が初めて伊豆七島のひとつの大島に訪れたのは、1960〈昭和35〉年の夏で、
高校1年の夏休みを利用して、初めて独りで旅行に思い立った・・。
夜、東京湾の確か晴海埠頭(はるみ・ふとう)だった記憶しているが、
ここから乗船し、早朝に伊豆大島を訪れた後、
午後に出航する観光船で、伊豆半島の下田港に向かい、下田にある観光旅館に宿泊する。
そして翌日は伊豆半島の西岸を観光周遊バスで、名所に立ち寄りながら北上し、
修善寺にある観光旅館に宿泊した後は、
三島まで私鉄を利用し、国鉄(現在・JR)で東京駅に帰京するプランであった。
このプランは、ご近所の旅行会社に勤めていた方から立案して頂き、
クーポン券のような周遊券を持ちながら、予約済の観光ルートめぐる旅であった。
私は旅行鞄のボストンバックを提げて、
白いワイシャツと黒の長ズボン、革靴と通学とまったく同じ様な学生服の容姿で、
東京の晴海埠頭から東海汽船の観光船で、伊豆大島行きに乗船した。
確か夜の10時に出航し、翌朝の4時前に大島の岡田港の沖で着いて、
島の朝が動き始める6時頃に入港した、と記憶している。
この間の乗船していた時は、仕切りのない大部屋のゴロ寝のような感じで、
私は大部屋の片隅に横たわり、旅先の盗難を警戒していたのでボストンバックを握りながら、
不安げに眠れない深夜を過ごした。
岡田港に下船した時、高波警戒の注意報の掲示板があり、少し不安げに私は見つめていた。
私は午前中に大島の観光バスで半日周遊観光をした後、
午後、元町港から下田港行きの定期航路の観光船に乗り、そして下田の観光旅館に予約済みであった。
このような思いがあったので、高波警戒の注意報が気になり、
うつろな思いで、初めての伊豆大島の情景を車窓から眺めていた。
半日周遊観光の終点は元町港であったが、
下田港方面は本日欠航、と私は掲示板を見て、小心者の私はどうしょう、と内心うろたえたのである。
しばらくした後、下田港、伊東港は欠航、
熱海港は午後2時過ぎに出航、と報じられた・・。
私は予期せぬ周遊で、熱海港行きの定期観光船に乗船したが、
観光客で満席となり、私は客室に入らず、
ボストンバックを握り締め、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。
空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、
果てしなく海原が広がる情景を眺め、そして潮風を受けながら、
私は心身爽快な心となった・・。
この当時は、私にとっては苦手な俳優の加山雄三が演じた若大将シリーズ映画が、
盛んに映画館で上映されていた時代であった。
そして海に魅了される人たちの思いも解かったような心情となった。
わずか1時間半ばかり航路であったが、
熱海港を下船後、私は東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、
乗り込んだのである。
この当時は、伊東から下田までの伊豆急行が開通前の時期で、
鉄道の施設の工事を盛んにしていたので、埃りっぽい中をバスで南下したのを、
おぼろげに記憶している。
下田に着いた後、予約した観光旅館を探し当て、
大浴場で心身を清めていたが、余り疲れを感じることなく、
何とか予約した観光旅館に着けた、という思いが強く、安堵したのである。
この後の周遊は、予定通り順調であった。
私は16歳をまもなく迎える前、独りで初めての旅行をし、
今となっては、愛惜ある旅のひとつとなった。
この後は私が50代の前半、夏季休暇の時に、
家内が海を観たいわ、と言ったりしたので、近場の熱海でビジネスホテル風の観光ホテルに二泊して、
初島に観光船で往還したり、或いは大島に日中の大半に訪れたりした。
この時の大島の島内に於いては、私たち夫婦は三原山の遊歩道を歩き廻ったり、
リス園があり、動物好きな家内はリスの餌(えさ)を幾度も買い求めて、
係員さえも驚き、私は少し離れた所で苦笑したりした。
そして定年後の年金生活の中、2009(平成21)年5月10日から1泊2日の『新島』を訪れた。
家内と共に東海汽船の謝恩企画により、破格に廉(やす)い1泊2日の短かき旅で、
伊豆七島のひとつの新島に初めて訪れた・・。
もとより伊豆七島は大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島と東京都の地域に所属し、
太平洋に浮かぶ諸島である。
この東海汽船の謝恩企画としては、高速ジエット船の『セブンアイランド』で往復し、
この間に大島に30分ぐらい寄港し、
私たち夫婦は過ぎし年の大島に訪れた旅路を談笑したりしていた。
私たち夫婦は、ここ12年ぐらい『樹木葬』のことを幾たびか話合ったりしている。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
と言ったりしている。
そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見であり、家内も賛意している。
どちらかが四十九日の納骨が終われば、
何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、と信念を共有している。
そして残された人は、温泉滞在の帰りの気が向いた時、お線香の一本でも良いと思っている。
こうして私たちは、『樹木葬』を執り行って下さる日本の各地を定年後の9年間で探し求めてきた。
こうした思いの中、念願の候補として、5年前頃に伊豆大島にある、知った。
http://www.miraien.jp/00miraien-index.html
☆【 千の風 みらい園 】公式ホームページ☆
そして私たち夫婦の主旨に合致し、調布市に住む私たちは交通にも利便性があり、
今年の晩秋に訪れて、私たちが思案してきたことと合致したら決定しょう、と夏の間に、
話し合ったりしてきたのである・・。
今回の伊豆大島の大災害を昨日の夕方、家内と共にテレビで視聴し、
観測史上最多・・とかは幾たびも到来することもないし、
まして三原山が噴火することなどは幾百年に有るか無いかであるし・・
このような意味合いの言葉を私は家内に言ったりした。
そして私たち夫婦は、今回の大被害が落ち着き平穏になった頃・・
来年の春の頃に伊豆大島にある『千の風 みらい園』に訪れよう、と話したりした。
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昨日の午前中のひととき、NHKのテレビのニュースを視聴していたら、
大型で強い台風26号は16日午前、勢力を保ったまま伊豆諸島付近や千葉県沿岸を通過した時、
伊豆大島(東京都大島町)に於いては 台風に伴う大雨で、
同日未明に観測史上最多の1時間に122・5ミリの記録的な雨を観測し、土砂崩れなどが発生。
警視庁や大島町によると男女13人が遺体で発見され、43人と連絡が取れなくなっている。
このようなことを報じていた・・。
私はテレビの画面を見ながら、少し動揺を重ねたりした。
やがて過ぎし年に伊豆大島に訪れた旅路の情景、
そして私たち夫婦が今後に深い思い秘めて伊豆大島に訪れることを思い馳せたり、
複雑な思いを交差させたりした・・。
私が初めて伊豆七島のひとつの大島に訪れたのは、1960〈昭和35〉年の夏で、
高校1年の夏休みを利用して、初めて独りで旅行に思い立った・・。
夜、東京湾の確か晴海埠頭(はるみ・ふとう)だった記憶しているが、
ここから乗船し、早朝に伊豆大島を訪れた後、
午後に出航する観光船で、伊豆半島の下田港に向かい、下田にある観光旅館に宿泊する。
そして翌日は伊豆半島の西岸を観光周遊バスで、名所に立ち寄りながら北上し、
修善寺にある観光旅館に宿泊した後は、
三島まで私鉄を利用し、国鉄(現在・JR)で東京駅に帰京するプランであった。
このプランは、ご近所の旅行会社に勤めていた方から立案して頂き、
クーポン券のような周遊券を持ちながら、予約済の観光ルートめぐる旅であった。
私は旅行鞄のボストンバックを提げて、
白いワイシャツと黒の長ズボン、革靴と通学とまったく同じ様な学生服の容姿で、
東京の晴海埠頭から東海汽船の観光船で、伊豆大島行きに乗船した。
確か夜の10時に出航し、翌朝の4時前に大島の岡田港の沖で着いて、
島の朝が動き始める6時頃に入港した、と記憶している。
この間の乗船していた時は、仕切りのない大部屋のゴロ寝のような感じで、
私は大部屋の片隅に横たわり、旅先の盗難を警戒していたのでボストンバックを握りながら、
不安げに眠れない深夜を過ごした。
岡田港に下船した時、高波警戒の注意報の掲示板があり、少し不安げに私は見つめていた。
私は午前中に大島の観光バスで半日周遊観光をした後、
午後、元町港から下田港行きの定期航路の観光船に乗り、そして下田の観光旅館に予約済みであった。
このような思いがあったので、高波警戒の注意報が気になり、
うつろな思いで、初めての伊豆大島の情景を車窓から眺めていた。
半日周遊観光の終点は元町港であったが、
下田港方面は本日欠航、と私は掲示板を見て、小心者の私はどうしょう、と内心うろたえたのである。
しばらくした後、下田港、伊東港は欠航、
熱海港は午後2時過ぎに出航、と報じられた・・。
私は予期せぬ周遊で、熱海港行きの定期観光船に乗船したが、
観光客で満席となり、私は客室に入らず、
ボストンバックを握り締め、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。
空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、
果てしなく海原が広がる情景を眺め、そして潮風を受けながら、
私は心身爽快な心となった・・。
この当時は、私にとっては苦手な俳優の加山雄三が演じた若大将シリーズ映画が、
盛んに映画館で上映されていた時代であった。
そして海に魅了される人たちの思いも解かったような心情となった。
わずか1時間半ばかり航路であったが、
熱海港を下船後、私は東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、
乗り込んだのである。
この当時は、伊東から下田までの伊豆急行が開通前の時期で、
鉄道の施設の工事を盛んにしていたので、埃りっぽい中をバスで南下したのを、
おぼろげに記憶している。
下田に着いた後、予約した観光旅館を探し当て、
大浴場で心身を清めていたが、余り疲れを感じることなく、
何とか予約した観光旅館に着けた、という思いが強く、安堵したのである。
この後の周遊は、予定通り順調であった。
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この後は私が50代の前半、夏季休暇の時に、
家内が海を観たいわ、と言ったりしたので、近場の熱海でビジネスホテル風の観光ホテルに二泊して、
初島に観光船で往還したり、或いは大島に日中の大半に訪れたりした。
この時の大島の島内に於いては、私たち夫婦は三原山の遊歩道を歩き廻ったり、
リス園があり、動物好きな家内はリスの餌(えさ)を幾度も買い求めて、
係員さえも驚き、私は少し離れた所で苦笑したりした。
そして定年後の年金生活の中、2009(平成21)年5月10日から1泊2日の『新島』を訪れた。
家内と共に東海汽船の謝恩企画により、破格に廉(やす)い1泊2日の短かき旅で、
伊豆七島のひとつの新島に初めて訪れた・・。
もとより伊豆七島は大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島と東京都の地域に所属し、
太平洋に浮かぶ諸島である。
この東海汽船の謝恩企画としては、高速ジエット船の『セブンアイランド』で往復し、
この間に大島に30分ぐらい寄港し、
私たち夫婦は過ぎし年の大島に訪れた旅路を談笑したりしていた。
私たち夫婦は、ここ12年ぐらい『樹木葬』のことを幾たびか話合ったりしている。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
と言ったりしている。
そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見であり、家内も賛意している。
どちらかが四十九日の納骨が終われば、
何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、と信念を共有している。
そして残された人は、温泉滞在の帰りの気が向いた時、お線香の一本でも良いと思っている。
こうして私たちは、『樹木葬』を執り行って下さる日本の各地を定年後の9年間で探し求めてきた。
こうした思いの中、念願の候補として、5年前頃に伊豆大島にある、知った。
http://www.miraien.jp/00miraien-index.html
☆【 千の風 みらい園 】公式ホームページ☆
そして私たち夫婦の主旨に合致し、調布市に住む私たちは交通にも利便性があり、
今年の晩秋に訪れて、私たちが思案してきたことと合致したら決定しょう、と夏の間に、
話し合ったりしてきたのである・・。
今回の伊豆大島の大災害を昨日の夕方、家内と共にテレビで視聴し、
観測史上最多・・とかは幾たびも到来することもないし、
まして三原山が噴火することなどは幾百年に有るか無いかであるし・・
このような意味合いの言葉を私は家内に言ったりした。
そして私たち夫婦は、今回の大被害が落ち着き平穏になった頃・・
来年の春の頃に伊豆大島にある『千の風 みらい園』に訪れよう、と話したりした。
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