夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

国立がん研究センター中央病院で、過ぎし30年前に私は手術を受けた時の思いで・・。

2013-10-25 14:11:22 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、洗面を終わった後、鏡を見ていた時、鼻から一センチぐらい離れた所の横に、
0.5センチぐらいの傷跡がうっすらと残っているのに、微苦笑したりした。

この傷跡は、過ぎし30年前に、がん治療として名高い築地にある通称『がんセンター』病院、
昨今の正式名称は『国立がん研究センター中央病院』となっているが、
私が手術を受けた時の痕跡である・・。

この当時の私は音楽業界のあるレコード会社に勤め、管理系の情報畑に奮戦していた時である。

この一年前の頃は、私は六本木にある本社のコンピュータの専任者で、
資本関係のあるレコード会社のシステムを利用して、処理もある情報センターに委託処理をし、
開発・運用に専念して従事していた。

そして私の勤める会社の業績は悪化してきた時、首脳部のひとりから、
コンピュータを自社導入して、システム全体の見直して効率と経費節約を図れ、
と難題を指示され、新たな部署を組織して下さった。

そして、XX君、貴方だったら出来るょ、と私はおだてられて、
日曜日以外は深夜まで、ブロジェクトの4名と共に奮闘しはじめた時であった。
          

そして3か月過ぎた頃、何かしら私の鼻の横に1センチぐらい腫瘍のような突起物ができ、
どうしてなのょ、と思いながら、日曜日の時に私の住む調布市の中の総合病院に訪ねた。
私は担当医師から診察を受けながら、明確な診断結果が得られず、困苦したりした。

この後、腫瘍のような突起物が少し大きくなり困り果てて、家内も不安となり、
やはり日曜日に、私たち夫婦はこの病院に再訪した。
そして担当医師から診察を受けながら、明確な診断結果が得られず、
『先生・・悪性の腫瘍物・・或いはガンですか・・』
と私は差し迫ったりした。

私としては勤めているブロジェクトで奮戦している中、もとより失敗は許されず、
何よりも住宅ローンなどの返済の責務、或いは人生設計の修整も余儀なくされ、
まして最悪の場合は私の人生の終幕もあり、私は動揺しながら混迷していた・・。

結果として、この後に『がんセンター』病院に紹介状を頂き、
その後の一週間後に、初めて大きな『がんセンター』で受診した。

しかしながら担当医師からは、明確な診断状況が得られなかった。
私は日本で一番最先端のガンに詳しい病院でも、不明確な診断であったので、
『先生・・悪性の腫瘍物・・もしかしたらガンの初期状態なのか・・
この部分を切除し、判明して下さい』
と私は担当医師に言った。

『腫瘍を開く、手術か・・』
と担当医師は少し困り果てたような苦笑を浮かべたりした。
          

やがて5日の平日に、私たち夫婦は指定された部屋に訪ね、
私は指定された受診服に着替え、近眼の私はメガネを取りように言われた。

そして看護婦さんに導かれて、広い部屋の中で、ベットがひとつある中、
横たわるように指示された。

やがて看護婦さんから、顔の一部だけの麻酔を受けた後、
担当医師が助手と思われる3名の方たちと共に、明るくした照明の下で、
私の腫瘍のような突起物を切り開いた・・。

私は顔の全体はタオル状で覆(おお)われて、顔の一部だけ露呈させ、
麻酔状態であったので、医師と助手の話し合いが聴こえたりした。
『この患部・・少し深いなぁ』
このような意味合いの言葉も聴こえたりしてきた。

そして遠くの通路から、
『XX先生・・手術ですか・・?』
と話し声が聴こえたりした。

『いゃあ・・患者が悪性の腫瘍物か・・ガンか・・明確にして欲しいと言われ、
やむなく切除している所です』
このような担当して下さった医師の言葉も私は聴こえたりした。

やがて一時間後に手術は終了して、私は看護婦さんに導かれて、
家内の待っている通路にある小さな待合室に戻った。

『あなた・・真っ青ょ』
と家内は私に言いながら、少し安堵した表情で言った。

やがて中央にある待合室の片隅で、私は横たわった。
『この病院・・手術した後、数時間ぐらいはベットに横たわれると思ったが・・
直ぐに帰宅していい、と先生は言ったので驚いたょ。

そして切った所、数週間過ぎても大きくなるようだったら、もう一度来なさい、
と先生が最後に言われたょ』
と私は苦笑しながら、家内に言ったりした。
          
そして私たち夫婦は、地下鉄の築地駅から、私の勤務先の六本木駅に向った。
私は平日に手術を受けたので、ブロジェクトの奮戦している状況、
そして私の直接上司の首脳部の方も心配して下さっていたので、
せめて面会でも、と思いながら、家内は近くの喫茶店に待機させて、出社した。

そして私は首脳部の方にお逢いし、驚いたような表情で、
『手術・・大変みたいだったねぇ・・今日は帰宅してゆっくり休んで下さい』
と私は労(ねぎら)い挨拶を受けた。

この後、私はトイレに行き、鏡を見たら鼻の横から右頬まで白いガーゼで覆(おお)われて、
少し血が滲(にじ)んで、数か所血が飛び散った箇所もあり、周囲に絆創膏でガーゼが止められていた。
私は麻酔の余韻と何より手術を受けた動揺した心情であったので、気が付かなかったのである。
          
やがて私は退社した後、家内の待っている喫茶店で合流し、
通いなれた地下鉄の乃木坂の駅に向かった。

そして防衛庁(現在・東京ミッドタウン)の前の長い道を歩きながら、私は家内に話しかけたりした。
『心配させたけれど、この程度で助かったょ・・
先程の病院の手術室の近くの小さな待合室・・手術後にぼんやりと歩いた時、
20代の娘さんと息子さんと共に待機していた奥さんを見かけたの・・
多分、ご主人は私のような軽い手術じゃないような情態と思われ・・
あのような状態になったら・・深刻で大変だよなぁ』
と私はこのような意味合いの言葉を重ねて、私たち夫婦は帰宅に向った。

やがて悪性の腫瘍物、或いはガンか判明しなかったが、沈静化して、
0.5センチぐらいの傷跡がうっすらと残った。

そして徹夜も幾たびかして、やがて新システムは何とか軌道に乗せた。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
strong>
にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする