私はサラリーマンを卒業した年金生活の5年生であるが、
年末に近づくと、遠い昔、私の幼年時代に実家で、
餅を搗(つ)いた頃が想いだされる・・。
昨今の餅は、我家ではスーパーで販売されている品を買い求めている。
母の生前だった10数年以前の頃は、
母の住んでいた最寄の和菓子さんに注文した餅を頂ただいたりしていた。
そして、私が高校生だった頃は、
遠い親戚の方が、米屋を営んでいたので、
私は長兄に伴い、アルバイトのような形で、冬休みの期間でもあり、
25日前後の1週間は、早朝から夜遅くまで餅つき作業を手伝ったりした。
私は餅つきの作業が終った時、私にしては破格な礼金を頂き、
何に使ったよいかと、戸惑ったくらいであった。
私の幼年期は、祖父と父が健在だった頃までは、
東京の郊外で農家をしていて、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕していた。
この頃は、江戸時代からの名残り農家の六人組で、
餅つきなどの場合でも、お互いに20日過ぎた頃から、
この日はあそこの家で餅つきをする互いの助成制度の風習が残っていた・・。
私はこうした一面の情景をこのサイトで、
【呑んべえの予感した頃・・♪】
と題して、2005年5月1日に投稿しているが、再掲載をする。
【・・
私が小学1年の頃だったので、昭和26年の年だった。
祖父と父は、東京の郊外で農業をしていたので、
年末近くになると、餅を搗(つ)いた。
祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。
祖父の家の順番になると、もち米を精米にし、水に漬けた後、
その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、
二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。
ご近所の主人たちが5人来てくださり、それに私の家の人である。
午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗いた。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。
餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。
年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後、ときたま2月の上旬まで食卓に出されることもあった。
このために、のし餅などは10畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。
夕方の6時頃になると、搗きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。
ご近所の主人たちには、酒が振舞われ、茶碗酒として出された。
こうした時、ご近所の叔父さんが、私に云った。
『XXちゃん・・何を食べるの・・』
『う~ん、大根の辛いの・・』
と私は云った。
『そうかい、からみねぇ・・
XXさん、この子きっと呑んべえになるね・・』
と赤い顔した叔父さんは、笑いながら私の父に云った。
この数年後に父が亡くなり、祖父も他界したので、
私の家は急速に没落しはじめた・・。
そして昭和32年の頃になると、
私の周囲の家々も時代の波が押し寄せ、住宅街に変貌し、
このような風習は、消えた去った・・。
・・】
このように綴ったりしていたが、私にとっては替え難い愛惜感もあり、
涙を浮かべそうになりながら、微苦笑している。
年末に近づくと、遠い昔、私の幼年時代に実家で、
餅を搗(つ)いた頃が想いだされる・・。
昨今の餅は、我家ではスーパーで販売されている品を買い求めている。
母の生前だった10数年以前の頃は、
母の住んでいた最寄の和菓子さんに注文した餅を頂ただいたりしていた。
そして、私が高校生だった頃は、
遠い親戚の方が、米屋を営んでいたので、
私は長兄に伴い、アルバイトのような形で、冬休みの期間でもあり、
25日前後の1週間は、早朝から夜遅くまで餅つき作業を手伝ったりした。
私は餅つきの作業が終った時、私にしては破格な礼金を頂き、
何に使ったよいかと、戸惑ったくらいであった。
私の幼年期は、祖父と父が健在だった頃までは、
東京の郊外で農家をしていて、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕していた。
この頃は、江戸時代からの名残り農家の六人組で、
餅つきなどの場合でも、お互いに20日過ぎた頃から、
この日はあそこの家で餅つきをする互いの助成制度の風習が残っていた・・。
私はこうした一面の情景をこのサイトで、
【呑んべえの予感した頃・・♪】
と題して、2005年5月1日に投稿しているが、再掲載をする。
【・・
私が小学1年の頃だったので、昭和26年の年だった。
祖父と父は、東京の郊外で農業をしていたので、
年末近くになると、餅を搗(つ)いた。
祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。
祖父の家の順番になると、もち米を精米にし、水に漬けた後、
その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、
二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。
ご近所の主人たちが5人来てくださり、それに私の家の人である。
午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗いた。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。
餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。
年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後、ときたま2月の上旬まで食卓に出されることもあった。
このために、のし餅などは10畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。
夕方の6時頃になると、搗きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。
ご近所の主人たちには、酒が振舞われ、茶碗酒として出された。
こうした時、ご近所の叔父さんが、私に云った。
『XXちゃん・・何を食べるの・・』
『う~ん、大根の辛いの・・』
と私は云った。
『そうかい、からみねぇ・・
XXさん、この子きっと呑んべえになるね・・』
と赤い顔した叔父さんは、笑いながら私の父に云った。
この数年後に父が亡くなり、祖父も他界したので、
私の家は急速に没落しはじめた・・。
そして昭和32年の頃になると、
私の周囲の家々も時代の波が押し寄せ、住宅街に変貌し、
このような風習は、消えた去った・・。
・・】
このように綴ったりしていたが、私にとっては替え難い愛惜感もあり、
涙を浮かべそうになりながら、微苦笑している。