第2章 秋山郷往還記
私が秋山郷の名を知ったのは、遅ればせながら20数年前の頃であるが、
新潟県の大河の信濃川に注(そそ)ぐ中津川の奥まった処であり、
新潟県と長野県にまたがった渓谷沿いにあるので、
自動車を所有しない私は、はなはだ遠方すぎ、未知の地となっていた。
今回の志賀高原の発哺温泉滞在の2日目に、秋山郷の周遊があったので、
私達夫婦は魅了させられて、団体観光バス・ツアーの参加の理由のひとつとなった。
そして私は、江戸後期の商人、随筆家として、『北越雪譜』などを遺(のこ)された鈴木牧之に興味を深め、
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を読み始めたりし、『秋山紀行』も知り、
そしてネットで秋山郷に関してそれなりに調べたりした・・。
http://www.akiyamago.com/
このような思いで、私は中型バスに乗車して、宿泊先の発哺温泉から旅立った。
奥志賀高原までの上る道程、そして緩(ゆる)やかな下り道、
いずれも狭くカーブの多い奥志賀林道、そして雑魚川林道から、秋山郷の最上流の切明までは、
1時間半ばかりの車窓からの情景は、まさに錦秋の世界であった。
道路沿いに薄(ススキ)の群生は穂先が白さを増し、
落葉樹の圧倒的に多い黄色に染められた色合いの中、
所々(ところどころ)に散見できる朱色の色模様は、鮮やかな色合いとなっていた。
このような中で、陽射しを受けたり、枝葉の木漏れ陽は地上や周辺をゆらめき、
そして、ときおり微風が吹くと、黄色に染められた葉が空を舞いながら、
地上に落下していた。
私は思わず、
『夢のような情景だね・・
林道ではなく・・夢街道だね・・』
と隣席の家内に云ったりしていた・・。
私達は、中津川を下るように秋山郷の集落の『切明温泉』、山源木工の付近に
ある『蛇淵の滝』を観たり、
そして『前倉』は渓谷となり、対岸に聳える岩は錦繍に染められ、一幅の絵画となっていた。
この景観を眺めながら、昼食となった。
自由食であったが、地元の食材を加味したお握(にぎ)りと茸(きのこ)汁が
私達と同行した人が多かった。
私達夫婦は、炉辺で焼かれている岩魚をそれぞれ2匹づづ頂き、
私はワンカップの地酒、家内は煎茶で岩魚を誉(ほ)めたりした。
その後、秋山郷の入り口に当たる『見玉不動尊』で、
眼病に良いと称せられているので、私は丁重に参拝した後、
清流があふれるように流れていたので、小岸で私は顔を洗ったりしたのである。
このような戯(たわむ)れも多かったのであるが、
江戸時代の後期に鈴木牧之・著の『秋山紀行』のような過酷な環境と違い、
現在は豊かな田畑や里山の情景となっている。
『結束』集落にある石垣の田圃(たんぼ)は、
津南町観光協会の発刊した『秘境 秋山郷 ~人が抱く本来の故郷~』に寄れば、
【・・
江戸時代、秋山郷では、穀物をはじめ、農作物の収穫が極めて少なく、
天明・天保の飢餓では多くの村が滅びてしまった。
そんな背景の中、明治時代の始め、「石垣田」の開田が始まった。
それまでは粟(あわ)や稗(ひえ)が主食だったが、
「米を食べたい」その一心で、
石だらけの急斜面地を村人たちは競うように開拓したようだ。
重機などない時代、作業は難航した。
中には、5人がかりで3日間もかけて動かした巨石もあると言われている。
その石垣は積み方も工夫が施され、現在でも殆ど当時のまま残されている。
・・】
そして、樹木はブナ、トチノキ、白樺(シラカバ)、
片栗粉の原料となる片栗(カタクリ)の花は大切にされている、
と記載されたりしている。
最近の民宿に於いては、
白米のご飯、黍(きび)ご飯、
鹿(シカ)肉、岩魚(イワナ)があり、
山菜としては、行者大蒜(ギョウジャ・ニンニク)、ゼンマイ、蕨(ワラビ)、
コゴミ、ウド、ミョウガ、
茸(きのこ)としては、舞茸(マイタケ)、ナメコ、椎茸(シイタケ)
そして、里芋(サトイモ)、山芋(ヤマイモ)、筍(タケノコ)、豆腐(トウフ)などが、
食膳として頂けると聞いたりしたのである。
このような食材であったならば、都心の高級食事処より、
遙かに健全で確かな美味に頂ける、と確信したりしたのである。
宿泊地への帰路、ふたたび雑魚川林道を通った時、
バスのドライバーのご厚意で、臨時停車となり、
錦繍の美麗な情景を私達は鑑賞できたのである。
数多くの人も私もカメラで写し撮ったが、
その人なりの心に残る思いに、勝(まさ)るものはない、と私は実感したのである。
秋晴れの中、日中の大半に於いて、錦繍の世界に酔えた私は、
私達と同行した多くの方は、行いの良い人ばかり、
或いは強運の人ばかり、と私は微笑んだりしていた。
《つづく》
私が秋山郷の名を知ったのは、遅ればせながら20数年前の頃であるが、
新潟県の大河の信濃川に注(そそ)ぐ中津川の奥まった処であり、
新潟県と長野県にまたがった渓谷沿いにあるので、
自動車を所有しない私は、はなはだ遠方すぎ、未知の地となっていた。
今回の志賀高原の発哺温泉滞在の2日目に、秋山郷の周遊があったので、
私達夫婦は魅了させられて、団体観光バス・ツアーの参加の理由のひとつとなった。
そして私は、江戸後期の商人、随筆家として、『北越雪譜』などを遺(のこ)された鈴木牧之に興味を深め、
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を読み始めたりし、『秋山紀行』も知り、
そしてネットで秋山郷に関してそれなりに調べたりした・・。
http://www.akiyamago.com/
このような思いで、私は中型バスに乗車して、宿泊先の発哺温泉から旅立った。
奥志賀高原までの上る道程、そして緩(ゆる)やかな下り道、
いずれも狭くカーブの多い奥志賀林道、そして雑魚川林道から、秋山郷の最上流の切明までは、
1時間半ばかりの車窓からの情景は、まさに錦秋の世界であった。
道路沿いに薄(ススキ)の群生は穂先が白さを増し、
落葉樹の圧倒的に多い黄色に染められた色合いの中、
所々(ところどころ)に散見できる朱色の色模様は、鮮やかな色合いとなっていた。
このような中で、陽射しを受けたり、枝葉の木漏れ陽は地上や周辺をゆらめき、
そして、ときおり微風が吹くと、黄色に染められた葉が空を舞いながら、
地上に落下していた。
私は思わず、
『夢のような情景だね・・
林道ではなく・・夢街道だね・・』
と隣席の家内に云ったりしていた・・。
私達は、中津川を下るように秋山郷の集落の『切明温泉』、山源木工の付近に
ある『蛇淵の滝』を観たり、
そして『前倉』は渓谷となり、対岸に聳える岩は錦繍に染められ、一幅の絵画となっていた。
この景観を眺めながら、昼食となった。
自由食であったが、地元の食材を加味したお握(にぎ)りと茸(きのこ)汁が
私達と同行した人が多かった。
私達夫婦は、炉辺で焼かれている岩魚をそれぞれ2匹づづ頂き、
私はワンカップの地酒、家内は煎茶で岩魚を誉(ほ)めたりした。
その後、秋山郷の入り口に当たる『見玉不動尊』で、
眼病に良いと称せられているので、私は丁重に参拝した後、
清流があふれるように流れていたので、小岸で私は顔を洗ったりしたのである。
このような戯(たわむ)れも多かったのであるが、
江戸時代の後期に鈴木牧之・著の『秋山紀行』のような過酷な環境と違い、
現在は豊かな田畑や里山の情景となっている。
『結束』集落にある石垣の田圃(たんぼ)は、
津南町観光協会の発刊した『秘境 秋山郷 ~人が抱く本来の故郷~』に寄れば、
【・・
江戸時代、秋山郷では、穀物をはじめ、農作物の収穫が極めて少なく、
天明・天保の飢餓では多くの村が滅びてしまった。
そんな背景の中、明治時代の始め、「石垣田」の開田が始まった。
それまでは粟(あわ)や稗(ひえ)が主食だったが、
「米を食べたい」その一心で、
石だらけの急斜面地を村人たちは競うように開拓したようだ。
重機などない時代、作業は難航した。
中には、5人がかりで3日間もかけて動かした巨石もあると言われている。
その石垣は積み方も工夫が施され、現在でも殆ど当時のまま残されている。
・・】
そして、樹木はブナ、トチノキ、白樺(シラカバ)、
片栗粉の原料となる片栗(カタクリ)の花は大切にされている、
と記載されたりしている。
最近の民宿に於いては、
白米のご飯、黍(きび)ご飯、
鹿(シカ)肉、岩魚(イワナ)があり、
山菜としては、行者大蒜(ギョウジャ・ニンニク)、ゼンマイ、蕨(ワラビ)、
コゴミ、ウド、ミョウガ、
茸(きのこ)としては、舞茸(マイタケ)、ナメコ、椎茸(シイタケ)
そして、里芋(サトイモ)、山芋(ヤマイモ)、筍(タケノコ)、豆腐(トウフ)などが、
食膳として頂けると聞いたりしたのである。
このような食材であったならば、都心の高級食事処より、
遙かに健全で確かな美味に頂ける、と確信したりしたのである。
宿泊地への帰路、ふたたび雑魚川林道を通った時、
バスのドライバーのご厚意で、臨時停車となり、
錦繍の美麗な情景を私達は鑑賞できたのである。
数多くの人も私もカメラで写し撮ったが、
その人なりの心に残る思いに、勝(まさ)るものはない、と私は実感したのである。
秋晴れの中、日中の大半に於いて、錦繍の世界に酔えた私は、
私達と同行した多くの方は、行いの良い人ばかり、
或いは強運の人ばかり、と私は微笑んだりしていた。
《つづく》
