夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

秋空高く、誠に爽やかな快晴に恵まれ・・♪

2008-10-02 17:18:49 | 定年後の思い
東京郊外は、1週間ぶりの秋晴れとなり、
雲ひとつない青空となっている。

先ほど、買物に行く途中で住宅街の外れの空き地で、
コスモスの数種類の彩(いろど)られた花、そして薄(すすき)も観られたが、
残念ながらアザミの野花が観られなかったのである。

帰路、少し遠回りをして、小公園に立ち寄り、
わずかに朱紅色に染めはじめた花水木(ハナミズキ)に魅了され、
たたずんで眺めていた・・。

下旬の頃になれば、秋の陽射しの中で、朱紅色の鮮やかな色合いに染まり、
齢を重ねた64歳の私は、より深く心を寄せるだろう、
と思ったりした。

しばらくした後、私の心はひとつの歌を唄いはじめたのである・・。


♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈 】


このような歌を心の中で唄いだしたのであるが、
年金生活を家内と過ごし、程々に充たされた生活は、
果たしていつまで続けられるだろう、
と爽やかな秋空に恵まれた下で、漠然と感じたのである。


♪君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈 】



私が命(いのち)果てる時は、何年先か解からないが、
せめて、あと6年は生かして欲しい、と思ったりしている。

このことは、定年退職後の時、10年間は五体満足で過ごせれば、
あとは余生である、と念願していたからである。



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『無料動画の音楽』をブログ等に添付に誘惑されたが・・♪

2008-10-02 16:39:00 | 定年後の思い
私は午後のひととき、
このサイトで『秋空高く、誠に爽やかな快晴に恵まれ・・♪ 』
と題して投稿した。

そして投稿を終えた後、
少し口ずさみながら、心の中で、


♪薄紅色の可愛い君のね
 果てしない夢がちゃんと 終りますように
 君と好きな人が 百年続きますように

【 『ハナミズキ』 作詞・一 青窈 】

と唄ったのであるが、
昨今世界的に流行の無料動画の『You Tube』から、
この歌を添付しょうとしたが、取り止めたのである。


私は年金生活の4年生の身であり、
現役時代は長らくレコード会社に勤めていた。
ここ数年、アーティストと歌が結び付かない時などは、
【YAHOO! JAPAN】の無料の『動画』に於いて、
『音楽』を指定し、目的の曲を視聴したりしている。

或いは、【You Tube】に於いて、
曲名をキー・インして、視聴したりしている。

このように個人的に享受しているが、
ブログ等に添付し、公開のような形にするのは、
少なくとも道義的にためらったのである。


確かに添付すれば、読んで頂いたお方は、
URLのラインをクリックすれば、この曲が直ちに視聴でき、便利であるが、
単なるネットの検索結果、
例えば『XX観光ホテル』のホームページの宣伝を兼ねた案内を添付するのとは、
明らかに違うのである。

ただし、音楽論評などを投稿した場合は、
【YAHOO! JAPAN】、【You Tube】等から、
URLを添付することは理解できる。

音楽の著作権は、公開する場合どこまで許容できるか、
悩ましい問題であるが、私はブログ等に綴る時は、
作詞の1部を引用させて頂いている。
そして、引用した曲名と作詞家の氏名を明記している。

このことであっても、著作権に触れるから止めて欲しい、
とあるブログサイトの加入者のお方から、
数年前にクレームを受けたことがある。


このような思いで、
『無料動画の音楽』をブログ等に添付し、公開のような形にするのは、
道義的にためらい、断念したのである。
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『わけあり』商品、時代到来・・♪

2008-10-02 09:37:59 | 時事【社会】
昨夜、NHK総合で9時より『ニュースウオッチ9』を視聴していたら、
私は思わず微笑んだことがあった。

お煎餅の製造過程が映し出され、
やむえず割れたし、片割れとなったお煎餅の状景、
そして、ニンジンの最終選別の時、
規格より大きい品、小さい品、或いは少し変形した品・・・映し出されていた。

良質であるが、従来はお煎餅の割れた品、
ニンジンは規格以外だと店頭に並ぶことなかったのであるが、
昨今の社会状況の変化で、販売され好評、
と報じていたのである・・。
こうして商品を『わけあり』と称されている、と教示されたのである。


私は東京郊外で幼年期は農家の児であり、
今はサラリーマンを卒業した年金生活の4年生の身である。

若きサラリーマンの現役時代、休日の時に家内の買物にお伴した時、
ニンジン、キュウリ、ナスが整然と形の良い品ばかり並んで、
おかしいなぁ、と思ったのである。
そして、平成の初めの頃、作家の倉本 聰の随筆を読んでいた時、
教示させられたのである。


作家の倉本 聰さんは、北海道の富良野市の奥地に移住されて、
付近のニンジン畑で収穫時に規格品は捨てられいる実態に失望された、
と綴られていた。

生産される農家の方たちが天災を含めた労苦の果て、
何とか収穫できたニンジンが規格品以外だからと、
泣く泣く捨てているのである。

流通業者は店頭に規格品以外だと、消費者は買わないと勝手に判断してか、
或いは消費者の傲慢なのか、形の一定した規格品しか購入しないのか、
私には判らないのであるが、
都心郊外の住宅街に住む私は、店頭で規格品が整然と並んでいたのである。


私は幼年期に農家の児であったので、
ニンジンはもとより、キュウリ、ナスなどは、
収穫した形はある程度区分して、青果市場に出荷していた父を見たりしていた。
私は55年前以上の情景であったが、
私の心の片隅に今でも残っているのである。


年金生活の私は、日常の買物を担当しているので、
スーパーの野菜売り場、八百屋さんでニンジン、キュウリ、ナスを観かけているが、
余りにも一定した規格品で戸惑いを覚えているのが、本心である。


こうした品は工業品と違い、天災をたえず気を払った上で育成するので、
何かと労苦の多い上、出荷時には流通業者に買い叩かれ、
消費者は新鮮で出来る限り廉(やす)く、と要望され、
嫌いな言葉であるが、効率を求めることの出来ずらい、生きた商品なのである。

私は昨夜で知った『こだわり商品』の時代の到来に、
流通業者、消費者はやっと気付いてくれた、
と限りなく悦びを感じている。


尚、食べ物に関し、消費者という表現は険悪し、
食べさせて頂く人たち、が正鵠と思っているが、
やむえず消費者と表示したことを付記する。



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