最終章 昭和の初期に生を受けた人々は
家内の母は、昭和5年生まれで、
3年前に死去した家内の父は昭和2年生まれである。
家内の父は、大学を繰り上げ卒業で召集され、
初年兵として仙台の郊外、浜松の郊外で軍事訓練に明け暮れ、
古参兵の洗礼を受けている中、敗戦時を向えた・・。
家内の母は、新潟県の高田の女学校の時代に、
軍事工場の支援に強制従事させられた身である。
家内の母は、今回の沖縄の旅として、
特にひめゆりの塔、そして平和祈念公園の中で、
沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地に花をささげたい、
という要望であった。
那覇に着いた翌朝、朝8時過ぎにタクシーで『ひめゆりの塔』を目指して、
最初は私の熱い思いの『ずゐせんの塔』に花をささげ、しばらく黙祷をした。
この後、徒歩5分の『ひめゆりの塔』に行き、
『ひめゆり平和祈念資料館』の中で私は別れ、
独りで早めに庭に出て、
クファデーサーの樹木を探したり、
資料館の中で厚い一冊の本を買い求めたのをベンチで読んだりしていた。
1時間半前後して、家内達がベンチに座っている私の所に来た・・。
家内の母は、
『XXさん・・ご免なさい・・遅くなってしまって・・
ひめゆり学徒の方たち・・私と同じぐらい齢なの・・』
と私に云った。
私は家内の母の顔を見ると、目に涙を浮かべていた・・。
この後、タクシーで『平和祈念公園』に移動し、
私達3人は、無名者の墓地、新潟県の墓地に花をささげ、
黙祷をした。
私は敗戦の一年前に生を受けた身で、
戦争を知らないひとりである。
あくまで、親族から教えて貰ったり、教科書、歴史書、小説、随筆などの書物、
そして映画などで観る限りである。
つたない身の私は、戦時で亡くなわれた数多くの墓石、
平和の礎に無数の刻まれた戦死者名を見ると、
言葉を失い、呆然と戦争の残酷さを痛感させられた。
昭和の初期に生を受けた人々は、余りにも若くして、
戦いのさなかで亡くなわれた人、
特攻隊で散った人、戦地に向かう折、米軍の攻撃で亡くなった方、
或いは沖縄の地上戦で戦死された方・・
原爆、空襲で亡くなった住民の方、
それぞれの立場の人々が、戦争という旗の下で、
命を落とされている。
そして、日本の各地で強制支援として、
軍事工場、病院などで従事させられたりした・・。
平和祈念公園を辞する時、家内の母は私にぽっりと云った。
『私も・・ひとつ早く生まれていたら・・
戦地の病院などで行かされたかも知れないし・・
どうなったか・・わからないわ・・
父さんも・・よく云ってた・・
俺より・・たったひとつ齢の上ひと・・
多く戦死された・・と』
《終り》
家内の母は、昭和5年生まれで、
3年前に死去した家内の父は昭和2年生まれである。
家内の父は、大学を繰り上げ卒業で召集され、
初年兵として仙台の郊外、浜松の郊外で軍事訓練に明け暮れ、
古参兵の洗礼を受けている中、敗戦時を向えた・・。
家内の母は、新潟県の高田の女学校の時代に、
軍事工場の支援に強制従事させられた身である。
家内の母は、今回の沖縄の旅として、
特にひめゆりの塔、そして平和祈念公園の中で、
沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地に花をささげたい、
という要望であった。
那覇に着いた翌朝、朝8時過ぎにタクシーで『ひめゆりの塔』を目指して、
最初は私の熱い思いの『ずゐせんの塔』に花をささげ、しばらく黙祷をした。
この後、徒歩5分の『ひめゆりの塔』に行き、
『ひめゆり平和祈念資料館』の中で私は別れ、
独りで早めに庭に出て、
クファデーサーの樹木を探したり、
資料館の中で厚い一冊の本を買い求めたのをベンチで読んだりしていた。
1時間半前後して、家内達がベンチに座っている私の所に来た・・。
家内の母は、
『XXさん・・ご免なさい・・遅くなってしまって・・
ひめゆり学徒の方たち・・私と同じぐらい齢なの・・』
と私に云った。
私は家内の母の顔を見ると、目に涙を浮かべていた・・。
この後、タクシーで『平和祈念公園』に移動し、
私達3人は、無名者の墓地、新潟県の墓地に花をささげ、
黙祷をした。
私は敗戦の一年前に生を受けた身で、
戦争を知らないひとりである。
あくまで、親族から教えて貰ったり、教科書、歴史書、小説、随筆などの書物、
そして映画などで観る限りである。
つたない身の私は、戦時で亡くなわれた数多くの墓石、
平和の礎に無数の刻まれた戦死者名を見ると、
言葉を失い、呆然と戦争の残酷さを痛感させられた。
昭和の初期に生を受けた人々は、余りにも若くして、
戦いのさなかで亡くなわれた人、
特攻隊で散った人、戦地に向かう折、米軍の攻撃で亡くなった方、
或いは沖縄の地上戦で戦死された方・・
原爆、空襲で亡くなった住民の方、
それぞれの立場の人々が、戦争という旗の下で、
命を落とされている。
そして、日本の各地で強制支援として、
軍事工場、病院などで従事させられたりした・・。
平和祈念公園を辞する時、家内の母は私にぽっりと云った。
『私も・・ひとつ早く生まれていたら・・
戦地の病院などで行かされたかも知れないし・・
どうなったか・・わからないわ・・
父さんも・・よく云ってた・・
俺より・・たったひとつ齢の上ひと・・
多く戦死された・・と』
《終り》