夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

東京の郊外は、白梅は満開となり・・♪  《初出2008.2.22.》

2008-06-05 18:56:11 | 小庭の情景を眺めながら
東京の郊外の私の住む調布市では、ここ数日3月の中旬のような陽気に恵まれ、
早春の花の彩(いろど)りが観られる。

我家の玄関庭の白梅は、温泉滞在旅行から19日(火曜日)の夜に帰宅した時、
満開となり、そして月は満月のように輝いていた。

主庭の白梅、紅梅は、主(あるじ)の私の奥手に似てか、
莟(つぼみ)の状態となって折、
『このような陽気なのに・・いつ咲くの・・』
と私は呟(つぶや)いたりしている。

紫木蓮(シモクレン)、花梨(かりん)、無花果(イチジク)等の芽吹き時が、
私は一年の中で最も好きな時節なので、
これからの日々は1日、1日と心をときめく日々が毎年続いている。

先程の天気予報は、日中は14度の3月中旬の陽気に恵まれ、と報じている。

このような早春の便りを聴いたりしながら、
おだやかな朝のひととき、ぼんやりと主庭の樹木を眺めている。

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小雨降る中、木槿(ムクゲ)は成長し・・♪

2008-06-05 18:53:56 | 小庭の情景を眺めながら
東京の郊外は、小雨が降ったり止(や)んだした入梅の時節を迎えているが、
ときおり私は玄関の軒下で煙草を喫ったりしている。

軒下から観えるたった1本の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)があるが、
私は梅雨が終れば、初夏となり、開花の時節となるので、
気にかけているひとつの花である。


私は木槿に関しては、特に深く思いを寄せているのである。

昨年の7月中旬に、別のサイトで下記のように綴っている。




ひまわりの群生した花を眺め、木槿(ムクゲ)の花に魅(み)せられた・・。

底紅で花びらは淡紅色した高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)、
もうひとつは底紅であるが、花びらは純白の色合いの宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)である。

私は初夏から真夏に咲く花の中で、特に木槿には魅了させられている。
このサイトで、私はこの時節に数多く綴っているので、
省略はするが、高砂木槿の淡紅色は洋室、ホテルなどのロビーに相応しく、
宗旦木槿の純白の色合いは和室に相応しい、
と確信を強めている。

どちらも茶花に愛用される花のひとつであるが、
私は独りたたずんで、毎年この時節で心を慰めてくれる花である。




我家では木槿をそのうちに植えようして、
20数年過ぎていたが、昨年の伊勢・鳥羽の帰路、
道の駅のドライブ・インの売店の外れで偶然に見かけたのである。

簡素なビニール鉢に入り、樹高が20センチ足らずで、
花芽は5つ前後付いていた・・。
値段は200円程度であったと記憶している。

そして売店の販売員のお方に
『宗旦木槿は、ありませんか?・・』
と尋ねたのであるが、
花に全く無知の方である上、観光バスの出発も迫ってきたので、
妥協して購入したのが、高砂木槿であった。

帰宅後、地植えにしたが、かぼそい樹形であったが、
夏の終わりの頃まで、10数輪咲いてくれた。

そして来年こそは、樹高は50センチ前後を期待し、
本年のこの時節を迎えたのである。


私はここ10数年、
樹木・花木・草花は陽差しと雨、そして土で成長しなさい、
と身勝手な主(あるじ)であるが、
この高砂木槿は孤軍奮闘し期待に応(こた)え、小雨の降りしきる中、
勢い良く成長し、樹高は50センチを超えはじめている・・。

私は缶ビール1本に満たない価格で成長している高砂木槿がいじらしく、
最近は愛着を深めたりしている。


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小雨降る中、木槿(ムクゲ)は成長し・・♪

2008-06-05 16:55:00 | 定年後の思い
東京の郊外は、小雨が降ったり止(や)んだした入梅の時節を迎えているが、
ときおり私は玄関の軒下で煙草を喫ったりしている。

軒下から観えるたった1本の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)があるが、
私は梅雨が終れば、初夏となり、開花の時節となるので、
気にかけているひとつの花である。


私は木槿に関しては、特に深く思いを寄せているのである。

昨年の7月中旬に、このサイトで下記のように綴っている。




ひまわりの群生した花を眺め、木槿(ムクゲ)の花に魅(み)せられた・・。

底紅で花びらは淡紅色した高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)、
もうひとつは底紅であるが、花びらは純白の色合いの宗旦木槿(ソウタン・ムクゲ)である。

私は初夏から真夏に咲く花の中で、特に木槿には魅了させられている。
このサイトで、私はこの時節に数多く綴っているので、
省略はするが、高砂木槿の淡紅色は洋室、ホテルなどのロビーに相応しく、
宗旦木槿の純白の色合いは和室に相応しい、
と確信を強めている。

どちらも茶花に愛用される花のひとつであるが、
私は独りたたずんで、毎年この時節で心を慰めてくれる花である。




我家では木槿をそのうちに植えようして、
20数年過ぎていたが、昨年の伊勢・鳥羽の帰路、
道の駅のドライブ・インの売店の外れで偶然に見かけたのである。

簡素なビニール鉢に入り、樹高が20センチ足らずで、
花芽は5つ前後付いていた・・。
値段は200円程度であったと記憶している。

そして売店の販売員のお方に
『宗旦木槿は、ありませんか?・・』
と尋ねたのであるが、
花に全く無知の方である上、観光バスの出発も迫ってきたので、
妥協して購入したのが、高砂木槿であった。

帰宅後、地植えにしたが、かぼそい樹形であったが、
夏の終わりの頃まで、10数輪咲いてくれた。

そして来年こそは、樹高は50センチ前後を期待し、
本年のこの時節を迎えたのである。


私はここ10数年、
樹木・花木・草花は陽差しと雨、そして土で成長しなさい、
と身勝手な主(あるじ)であるが、
この高砂木槿は孤軍奮闘し期待に応(こた)え、小雨の降りしきる中、
勢い良く成長し、樹高は50センチを超えはじめている・・。

私は缶ビール1本に満たない価格で成長している高砂木槿がいじらしく、
最近は愛着を深めたりしている。
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箱根・姥子温泉滞在記《下》【2008.2.12. ~ 2.19.】

2008-06-05 16:10:52 | 
   第6章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ①

15日(金曜日)は箱根の『強羅公園』に行き、
確か20年ぶりぐらいであったと思われる『白雲洞茶苑』を訪れよう、
とホテルを独りで9時半過ぎに出た。

快晴の中、桃源台からロープウェイで大涌谷、早雲山で乗り継いで、
この後は鉄道ケーブルで強羅公園下駅で下車した。

久しぶりに訪ねたので、公園の正門入り口に戸惑い、苦笑したりした。

この時節、観光客も少なく、高台にある喫茶店『Cafe Pic』で、
コーヒーを飲みながら、遠望にある大文字焼で知られる頂上に近い『大』の縁取りを眺めたりしていた。

この喫茶店も客は私独りで、暖かな陽射しの射しこむ中、
モーツァルトの名曲が店内から聴こえ、贅沢なひとときを過ごした。

この後、『白雲洞茶苑』に向かったのであるが、
20年前頃、家内と共に訪れて感銘した茶室であったので、
私の心は緊張していた・・。

http://www.hakone-tozan.co.jp/gorapark/tea/index.html

公園の外れにある少し切り立った場所に巨石、樹木で茶庭とし、
そして形式美にとらわれない茶室などがある。

私は1時間ばかり、茶庭を廻りめぐり、茶室を眺めたりした・・。

               

   第7章 『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ②

私は東京オリンピックを過ぎた頃、大学を中退し、
映画、文学青年の真似事をしたので和事に関心を持ちはじめた・・。

家内と結婚した当初、家内は中学生から茶事に関して、学んでいたので、
私は何らかの影響を受けていた。

結婚して3年の初め、実家の付近に一戸建てを建てる際、
茶室を設けたが、家内の嗜(たしな)み室であり、
私には本格的な茶事は無知である。

ただ掛軸、花入、そして茶道具などの形式美があるすぎるので、
花は野にあるように、と明言された利休の精神は・・
と私なりに思いを重ねた。

私は一介のサラリーマンの身であったので、
このような心を抱いていた時に、
20年前頃に、偶然に『白雲洞』を家内と観て、
感銘をしたのであった。



   第8章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ③

『白雲洞』に関しては、この最初の①でサイト明示したので、
解説は省略する。

私が最も関心があるのは、どのような経過で、
明治時代の三井財閥の総督のような益田 孝が造営されたかであった。

明治39年に小田原市の板橋で、
茶人と深められた別名・鈍爺が『白雲洞』、『不染庵』、『対字庵』を造られ、
総称として『掃雲台』として造営された。

その後、箱根登山鉄道に寄る強羅地区の開発に伴い、
多大な援助をしたので、この箱根登山鉄道の社長より、強羅公園の一角を贈呈された。

そして切り立った地に大胆な茶庭を造営した後、
『掃雲台』の茶室などを移築し、今日の基盤である『白雲洞茶苑』となった、
と私なりに思ったしたのである。

このような思いを新たにし、
抹茶を500円で頂けるので、小鐘が置いてあったので、小さく鳴らした・・。



   第9章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば 最終

30代前半と感じられる女性が現れ、
『抹茶を頂くのは・・作法に無知ですが・・』
と私は言いながら、茶席に座った。

そしてこの女性がお点前と館内の案内も兼ねていると判り、
私の前に抹茶と和菓子を置かれた。

『床柱は・・千年前の奈良にあった・・』
とこの女性は言った。

『床柱、掛軸、花入・・などの説明は結構です・・
確固たる美のお判りになった三大の方が伝承され・・
お陰さまでこうして・・
まぎれない美を見せて頂くだけで・・充分です・・』
と私は緊張した表情で言った。

この後、私は素朴な茶室に関して、丁重に感じたことを述べたり、
この三大の伝承した人の美を残された功績をたたえた・・。

そして、こうした美の結晶である茶室を造営するには、
財力は当然とした上、茶の深い思い、
何より縁(えにし)を含めた実行力のあるお方のみが、
最低限必要である、と私は言ったりした。

私は背後から客人の気配を感じ、席を辞する旨を伝えた。

私は和菓子を頂かなかったので、
このお方は和紙に包み、
『貴方様のように・・繊細に美を語(かた)ることの出来る人に・・
お逢いできまして・・』
とこのお方は言った。

私は照れながら、
『私は一介のサラリーマンを定年退職し、
無力な者で・・お恥ずかしい限りです・・』
と私は和菓子を受け取りながら言った。

私は偶然に若い女性と茶事の美について語り合えたので、
心は充たされ、一期一会、という言葉が実感できた・・。

そして強羅駅に向かいながら、
あの人、綺麗な顔立ちで、しぐさも素敵だった、
と余計なことを思ったりした。



   第10章  ときには、芦ノ湖遊覧船

16日(土曜日)は昨夜深夜のロビーで読書をしていたので、
風邪気味となり、ホテルの館内、大浴場、露天風呂、そして布団にもぐり、
読書をしたりした。

17日(日曜日)も館内でおとなしくしたりしていたが、
持参した3冊の本は読了してしまう。

18日(月曜日)は独りで湖尻から元箱根まで遊覧船にで往復。

遊覧船の座席から快晴で雲ひとつなく冬富士も明確に観られ、
大阪から来られたご婦人のグループが携帯電話で盛んに撮影されていた。

元箱根の『成川美術館』からの冬富士の景観は一絵のようである。

この後、恩賜公園の高台にある記念館で、抹茶を頂きながら、冬富士を眺めたりした。


冬富士を 眺め愛(め)でれば 静謐(せいひつ)に

冬陽射し 湖上に受け 風光る

芦ノ湖で 冬富士眺め 感無量


このような駄作を詠んでいたが、
観光客の歓声も風邪気味で気落ちしていた私は、
心慰められる日中のひとときであった。


   最終章  旅の終りは、箱根の歴史

家内の母と私達夫婦の箱根の姥子温泉に於いて、
7泊8日の最終日、私は改めて箱根の歴史を学ぶ為、
箱根湯元にある『箱根町立郷土資料館』に立ち寄った。

家内達は歴史に興味がなく『生命の星・地球博物館』で、
地球の生命の営み等を観に行っている・・。

私は人の営みの集積である歴史で、
日本の場合に関しては奈良時代以降の歴史が関心があり、
箱根の徳川時代から昭和の敗戦前までの歴史に興味で入館した。

展示室は『湯治の道』、『箱根八里』、『生活の道』の三大区分で常設されているが、
私は小学生用に『道』と題された補助説明の学習テキストのパンフレットに魅了させられた。

例えば、『湯治』などを拝読すると、

温泉に入って病気をなおすことです。
そのために長い間、宿にとまってゆっくりと湯に入ります。
箱根の温泉は、このような湯治のために開かれ、使われました。

このように優しく表示されているので、
さて私の場合は何の病気かしら、と思い浮べ、
思わず微苦笑させられたりした。

帰路は高校時代から馴染みの小田急線の特急『ロマンスカー』を利用し、
帰宅した。


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箱根・姥子温泉滞在記《上》【2008.2.12. ~ 2.19.】

2008-06-05 16:08:35 | 
   序章 本日から箱根の姥子温泉に7泊8日で滞在

私達夫婦は、独り住まいの家内の母を誘い、
年に数回の温泉滞在をしているが、
今回は最も近場の箱根の姥子温泉に、
本日の12日(火)~19日(火)まで滞在します。

箱根には近場であるので、四季折々何10回も訪れた所であるが、
姥子に宿泊するのは初めてである。

宿泊する観光ホテルは、Web環境なしの素朴な宿と思っていますので、
この間はこのサイトに投稿は出来ません。

携帯電話も使えない私は、ときには昭和の終り頃の環境も良いかしら、
と微苦笑している。



   第1章 旅の始まりは、小雨となり

私達夫婦は、12日(火曜日)の7時半に家内の母と
小田急線の新宿駅の特急乗り場の最寄にある喫茶ルームで無事に会った。

このフルーツ・パーラー風の喫茶は、特急を利用する時間調整に大変便利な処で、
何より奥まった一角には喫煙室もあり、私にとっては大変助かる。

私は喫煙室で煙草を喫いながら、コーヒーを飲み、
前方の通勤客で混むプラットホーム、改札口を眺めたりした。

こうした情景を眺めたりしていると、のんびりと平日の朝の時間を過ごせるのは、
改めて私は定年退職後の年金生活のひとりとして実感する。

私達はロマンスカーの座席から馴染みの車窓を眺めていると、
小雨が降りだしてきた。

小田原駅で下り、梅の花を誉(ほ)めようと小田原城のある城址公園に小雨の中に行ったが、
白梅、紅梅が冷たい雨の中で咲いている程度で少し侘しい情景であった。

私は休憩処でビールを呑みながら、
わずかな観光客を眺めたり、小雨の降る寒々しい前方の樹木を見たりした・・。

家内達は暖かいお蕎麦を食べていたが、
早めに宿に行こう、と私は家内に声をかけた。



   第2章  残り雪の中の姥子温泉地

小雨の降り続ける小田原より私達は路線バスで、
芦ノ湖の付近にある湖尻行きの向った。

今回の宿泊先は、姥子温泉でも湖尻に近い処を家内が選定したのである。
自動車、レンタカー等を利用しない私達は、各観光地を訪れる際に利便性がある、
という思惑であったのである。

箱根湯元を通過し、小涌谷周辺から周囲の情景は残り雪の景観となっていた。
バスの走る道路は、小雨に濡れ、道路際には除雪の雪が高くあり、
周辺の樹木、山裾は雪景色となっていた。

東京の郊外でも過日の10日の朝は数センチの雪の朝を迎えていたが、
この周辺は20センチ前後が里山に残って折、
浜 美枝・女史に寄る随筆で、箱根は東京より雪が多い、
と読んだことを思い浮かべ、私は心を和(なご)ませてくれた・・。

私達が予約した観光ホテルは、遠方に芦ノ湖が見下ろせるコテージ風の旅館であった。

ロビーを通り過ぎると、『公衆電話』のプレートが掲げられた電話ルームがあり、
昭和50年前後に建てられたと思われる格調のある白壁と太い黒柱で、
私は風雅あり、と思ったりした。

角部屋が和室となって折、小ぶりなカラー・テレビがあり、
これからの7泊をこの部屋で過ごすと思いながら、
私は大浴場に向かった。

Web環境のない昭和時代に心寄せながら、
私は源泉の少し熱い湯船に身体をあずけた・・。



   第3章  芦ノ湖の遊歩道を散策すれば

13日(水曜日)の早朝、ホテルの庭先に下り立つと、
深夜に小雨から雪に変わったので、数センチ程の雪化粧で迎えた。

壁面の温度計はマイナス4度であり、やはり姥子温泉の湖尻付近は、
私の住む東京の郊外の調布市より5度前後は寒い地域と思ったりした。

私は独りで10時過ぎに湖尻まで下って、芦ノ湖の東岸の遊歩道を歩き、
樹木園まで散策を始めた・・。

歩き始めたが、遊歩道は村道のような情景で、日陰の処は少し根雪となり、
陽射しの処は陽だまりとなり、右手に芦ノ湖が望める人影のない遊歩道であった。


私は対岸の西岸の遊歩道を箱根関所から桃源台まで15年前頃歩いたので、
この頃が思い出された。

あの頃の社員旅行は部単位で、30名前後で夕方に現地集合、翌朝に現地解散が多く、
ゴルフ、海釣りなどで盛んに行われ、
私は独りでザックを背負い、晩秋のひひとき西岸の遊歩道を三時間半ばかりで歩いた。

関所付近を30分過ぎた頃、貸しボートでニジマス、ブラックバスの釣り人が数多くいて、
釣りに無知な私は華やかな色合いに驚いたりしていた。

桃源台に到着し、ロープウェイに乗車する為に並んでいた時、
テレビが大リーガーで初めて活躍された野茂投手の姿を放映していた。


私はあんな時代もあったね、と私は想い歩いたりしていたが、
樹木園には30分足らずで到着し、園内を散策したら、
多くの人の声が下方から聴こえた。

下り道を少し歩けば、神社が観え、百名前後の人々が参拝をして折、
九頭龍大明神と木札があった。
この後、ゆるい曲がり道を歩くと、白龍神社が観え、
湖岸に桟橋があり、10数名が見られた。


私は丘陵に建ち並ぶ貸しバンガローを眺めながら、
樹木園の出入り口の空き地で煙草を喫ったりしていた。

湖尻方面から来たと思われる若い女性のお2人が私に近づいてきた・・。
ひとりは美形で、もうひとりのお方は10人並みである。

私に樹木園の園内を訊ねられたので、
私は10人並みの女性に向かって、懇切丁寧に説明した。

私は美形の女性には弱いが、気を引く手立ては、
こうした方法が最良と信じているので、
今回の場合も微笑みを絶やさず、10人並みのお方に話したのである。

『小父さま・・ご親切に・・ありがとう・・』
と別れ際に美形の人は私に言った。

私は内心は小躍りしながら、湖尻に向かった。
そして、あの人、女優さんのどなたかに似ている、
と思ったりした。

湖尻の食事処は平日の昼は、本日休業が多く、
あらかじめ目指した店も休みで、
やむえず隣接した食事処に入った。
ニジマス、ブラックバス、ワカサギのフライをビールを呑みながら頂き、
先程の美形の人、若き日の関根恵子さんに似ていた、
と余計なことを思ったりした。



   第4章  まぼろしの『秀明館』

14日(木曜日)は私が以前から考えていた姥子温泉に泊まったならば、
夏目漱石が湯治したと知られ、
現在は日帰りの施設として名高い『秀明館』に立ち寄り湯を考えていた。

家内達は箱根園に行くので、
私は独りでゆっくりと『秀明館』で個室休憩しながら、
湯に数回は入った後、
姥子から湖尻園地までの遊歩道を下る予定でホテルを出た。

桃源台まで歩いた後、ロープウェイで姥子駅に向かって乗車したが、
下方の周辺は雪が残っている。

姥子駅で下車後、駅員さんに『秀明館』の場所を尋ねたところ、
冬季は休館、と知り、やむえず大涌谷駅まで行き、
大涌谷から姥子を通り、そして湖尻園地までの遊歩道に変更した。

大涌谷駅は観光客で賑わっていた・・。
この周囲からは冬富士が一望できるので、数多くの方達が記念撮影をしていた。

私は駐車場を除雪されている50代の男性に、
姥子までの自然歩道の入り口を訊ねた。

『旦那・・雪・・結構・・残っているよ・・
まっすぐに下りれば・・姥子に着くけれど・・
だけど・・あんた・・ものづきだねぇ・・』
と私に言った。

私は冬季の防寒フィールド・ジャケット、
ゴアテックス入りの堅牢なウォーキング・シューズの容姿を眺めた後、
『気を付けて・・下れば・・』
と言った。

歩き始めると、確かに雪は30センチ前後あり、
歩道の中央には登山靴か冬季専用の長靴の跡がわずかに残っている。

ブナやミズナラの冬木立の樹木林の中を下ったが、
積雪で狭められた歩道は冬の登山路のようである。

私は所々で立ち止まり、首からぶら下げたデジカメで、
冬富士の光景を10数枚撮ったりした。

30数分下った後、突然に一般自動車道に出た。
自動車道と下方の湖尻園地までの遊歩道は、
わずか50m前後平行するのであるが、
自動車道の除雪で遊歩道が埋もれていた。

やむえず私は、一般道を下りはじめた時、
左側に突然に『秀明館』が観えた。
門から玄関庭の途中にロープで路は遮られ、
中央に冬季の2月まで休業とさせて頂きます、
と明示していた。

この後は私は、一般道を少し下った後はペンション、会社の保養施設が多い小道を下り、
芦ノ湖を遠方に見下ろしながら、ゆっくりと下った。

湖尻の食事処で昼食用として、山芋蕎麦を頂きながら、
まぼろしの『秀明館』か、
と少しため息をついたりした。



   第5章  旅先の読書

私達夫婦は、独り住まいの家内の母を誘い、温泉滞在旅行を年に数回行ったりしている。

私は定年退職後の年金生活の身であるので、
現役時代の頃は2泊3日前後であったが、
時間は自在に使えるので、5泊6日前後が多くなっている。

温泉滞在の時、日中は周辺の観光地を訪れても、
家内達のご婦人の興味のある処と、
少なからず男の子の私と興味の差異があるので、
私は独りで周遊したりしている。

私たち3人は、朝のひととき、夕食はゆっくりとビール、日本酒を呑みながら話に盛り上がれば、
私は寝具に身も心もゆだねて本を開いたりしている。

或いは雨などで外出が覚束ない時、
日中ののひとときに風呂に入ったりし、
その間は読書をしたりしている。

このような状況なので、温泉滞在旅行の場合は、
数冊の本を持参している。

今回の箱根の姥子温泉の7泊8日の場合は、
安岡章太郎、阿川弘之、庄野潤三、遠藤周作・各氏の『私の履歴書 第三の新人』(日経ビジネス文庫)、
司馬遼太郎、ドナルド・キーンの両氏に寄る対談『日本人と日本文化』(中公文庫)、
そして40年近く愛読している今月号の総合雑誌の『文藝春秋』の3冊であった。

『私の履歴書 第三の新人』に関しては、
尾崎真理子・著の『現代日本の小説』(ちくまプリマー新書)を購入した際、
同時に買い求めた一冊であった。

『現代日本の小説』に少なからず衝撃を受けたので、
文壇の健全なあの頃の『第三の新人』の頃は・・という思いで読んだりしたのである。

『日本人と日本文化』については、昭和47年(1972年)に発刊された本であったが、
改めて再読したのである。


このように3冊を読破した後、何か本はないか、
と元箱根、湖尻、桃源台で本屋を探したが、観光地せいか残念ながらなかったのである。

芦ノ湖周辺にお住まいの方は、箱根湯元か最悪の場合は小田原市かしら、
と苦笑したのである。


旅の終り、私の住む最寄駅で本屋に入り、
佐野眞一・著の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)を買い求め、
活字文化に飢(う)えた私の心を充たしたりした。


                           《つづく》

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私が旅先で唄った歌は・・♪   《初出2008.2.11.》

2008-06-05 15:49:08 | 音 楽
私達夫婦は、独り住まいとなった家内の母を誘い、
ときたま温泉滞在、周遊観光などの旅行をしている。

一昨年の10月中旬には北海道に行って観たいわ、
と家内の母の要望があり、7泊8日で道央、道東を周遊した。

旅先で家内達の観たい処とは相違するので、
少なからず60過ぎの男の子である私は、独りであちらこちら散策をしたりする。

道東の知床、阿寒湖の遊歩道を歩いたが、人気(ひとけ)がないので、
私は小声で唄ったりしていた・・。


♪イヨマンテ
 燃えろ ひと夜を
 ああ 我が胸に

【『イヨマンテの夜』 作詞・菊田一夫 】


私は熊避(くまよ)けに熊祭りの歌を唄ったのである。
幸い熊は遭わなく、鈴より効果があると思いながらも、
少し大きめで唄ったりした。

エドリスには逢え、こうした情景に微笑んだりしていた。


昨年の10月下旬より8泊9日で沖縄本島に訪れた時、
私は人気(ひとけ)の少ないプライベート・ビーチで微かな海風を受けながら、
唄ったりしていた。


♪人にやさしくされた時 自分の小ささを知りました
 あなた疑う心恥じて 信じましょう心から
 流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
 揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない

【 『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu】


沖縄列島出身のグループのひとつであるモンゴル800が、
1時期流行った『あなたに』であった。

この歌は、名護に近いリゾートホテルで滞在した折、
市の近い処で沖縄料理専門店で昼食を頂いた時、
店内から流れてきた歌で、私は魅了させられたのである。

旅に来る前には、『花』でも口ずさむと思ったりしていたが、
偶然に聴き、魅了された歌を唄ったのである。

そして、ホテルのベランダでも8回ぐらいは唄ったりした。


明日より、箱根の姥子に7泊8日で温泉滞在をするが、
独りで散策する時は、どの歌にしょうかと迷っているのである。


♪箱根の山は 天下の険
 函谷関(かんこくかん)も物ならず

【『箱根八里』 作詞・鳥居まこと 】


観光開発で利便性となった箱根一帯は、この歌も相応しくなく、果たして・・、
と思案しているのである。


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『紅白梅』の掛軸・・♪   《初出2008.2.11.》

2008-06-05 15:45:47 | 定年後の思い
昨日の読売新聞に於いて、掛軸や美術工芸品を販売されて会社が、
掛軸の広告を見て、私は微苦笑したのである。

画家・八代玲華の『紅白梅』であるが、
広告文は、


格調高い床の間にはもちろん、
洋間にもお掛けいただける
現代的な構図です。
鮮やかな赤と白の梅。
古くから縁起の良い幸せを呼ぶ
吉鳥と呼ばれる、うぐいす。
是非貴家にお飾りいただきたい
開運画です。


私は絵を観る素養がないので、転記させて頂きましたが、
少し欲張った絵柄と感じたのである。

我家には、たまたま家内が茶事をしているので、
多少の掛軸はあるが、開運の図柄は一切置いていない。

東京の郊外の我家の小庭には、白梅、紅梅などの樹木があるが、
この時節、莟(つぼみ)の頃から花の散るまで、
メジロなどが飛来し、啄(つい)ばんだりしている。

私はこのような情景を情愛を持ち、眺めたりしているのである。

私はこの掛け軸は、遅い春を迎えられる北国の方で、
この時節は酷寒で周囲は雪でお住まいの方に、
何かしら暖かさをもらたす図柄であるので相応(ふさわ)しいかしら、
と微笑んだりしている。


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その後の私は、五輪真弓の唄声と共に・・♪  《初出2008.2.10.》

2008-06-05 15:42:44 | 音 楽
私は偶然に五輪真弓の『少女』をラジオで聴いた後、
レコードのアルバムの発売日に待ち焦がれ、
『五輪真弓/少女』を買い求めたのは昭和47年(1972年)の10月の下旬であった。

この頃の私は、個室にレコード・プレイヤー、プリメイン・アンプ、そしてスピーカと、
この当時の普通の音楽ファンの機器構成で聴いていた。
しかし、この頃の機器は、私の基本給の月収より数倍高く、
私はローンで返済していた。

そして、私は帰宅後、このアルバムに夢中になり、殆ど毎日聴いていたし、
次兄にも賞賛をしたりしていた。

翌年の7月に『風のない世界』が発売されて、
特にこの中の一曲『煙草のけむり』にはこの人の才能が満ち溢れている、
と友人らにも絶賛していた。

確か数年後であったと記憶しているが、
虎ノ門ホールで五輪真弓のコンサートがあり、
この頃に交際していた女性と観たのである。

この女性はある音楽大学を卒業したばかりで、先生に師事しながら、
ピアニストを熱望する人であり、
私はピアノを専攻する人に気後れしながらも、
ピアノを弾きながら自分の作詞・作曲され歌を唄う五輪真弓のコンサートに、
誘い出したのである。

この女性とは、コンサートの終了後に食事をしていた時、
虎の門ホールの音響、そして五輪真弓に関して才能のある人ね、
と私は聴いて、デビュー以来才能を認めていた方に同意されたので、
私の心は小躍りのような状態であった。

この人とは、渋谷、新宿で度々待ち合わせ、夕食を共にした後、自宅に送り、
この方の母親に可愛がって頂だき、親愛の情をしぐさを見せてくれたりした。

私の住んでいる所にも来て貰ったり、
私の実家にも連れて行ったりしていた。

このような時、有数なソプラノ歌手のコンサートが東京文化会館の小ホールで開催され、
伴奏としてのピアノを弾く担当に選ばれ、
私は当然として、このコンサートを観たのである。
ただ私が今までの人生で体験したことのない、特有な雰囲気につつまれていた。

私は結婚したい、と申し込んだ夜、
『貴方が思っている・・サラリーマンの良い奥さんには・・なれないわ・・』
と言った。

確かに毎日10時間前後はピアノ弾いているので、
サラリーマンの普通の生活ペースは無理であるので、
私は承知の上だ、とも言葉を重ねたりした。

数ヵ月後、貴方に負担をかけたくないの、
と私は言われ、
私は失恋をしたのである。

私は五輪真弓に関しては、スターとなった今、
何となく遠ざかり、シャンソンなどに夢中になり、深めていった・・。


私は数年後、妹の嫁ぎ先の親から、ひとりの女性を紹介され、
この人と結婚した。

私が家を建て始めて、ローンの負担が重苦しく感じ、
数年続いた折、私は懐かしい歌声を聴いたのである。


♪枯葉散る 夕暮れは
 来る日の寒さを もの語り
 雨に壊れた ベンチには
 愛をささやく 歌もない

【『恋人よ』 作詞・五輪真弓 】


私は思わず、真弓ちゃんだ、と心の中で叫んだのである。
そして、相変わらず、才能を発露させ、確固たるスターの五輪真弓さんに、
しばらくぶりだったけれど、凄い詞を書いたよね、
と心の中で祝杯したりしていた。


♪恋人よ そばにいて
 こごえる私の そばにいてよ
 そしてひとこと この別れ話が
 冗談だよと 笑ってほしい


私はピアノニストに熱望した人は、今はどうしているかは知らないが、
私にとっては若き日の貴重な苦い想いのひとつである。



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五輪真弓の『少女』を聴いた頃の想いで・・♪  《初出2008.2.10.》

2008-06-05 15:40:02 | 音 楽
私は大学を中退し、映画・文学青年の真似事を4年ばかり過ごし、
コンピュータの専門学校で一年学んだ後、
遅ればせながら昭和45年(1970年)の春に、
ある大手企業に中途入社ができた・・。

その後、この企業の音楽事業本部の中のひとつが、
レコード専門会社として独立した。

私はこの中小のレコード会社のコンピュータ専任者として配属され、
音楽に関しては、文学、映画の次の程度に関心がある程度であった。

昭和47年の初秋、私は日曜日で自宅でラジオを聴きながら、
身のまわりの整理をしていた。


♪あたたかい陽のあたる
 真冬の縁側に
 少女はひとりで
 ぼんやりと座ってた

【 『少女』 作詞・五輪真弓 】


私は思わず手を止めて、ソファに座り、
煙草に火を点(つ)けた・・。


♪つもった白い雪が
 だんだん とけてゆくのを
 悲しそうに 見ていたの
 夢が大きな音を
 たてて 崩れてしまったの


私は専門外の音楽好きなの身であったが、
感性の鋭い人と直感し、初めて作詞・作曲し唄っている人が、
五輪真弓と知ったのである。

翌朝、会社で、たまたま私が朝礼の当番であった。

本社の営業本部、同じフロアーの営業所の数多くいる社員の前で、
私は前に立ちながら、一通り業務関係を言った後、
『・・CBSソニーさんから、凄い感性のある人でデビューします。
10月に発売されますが、五輪真弓という若い女性が・・
「少女」という曲で・・感性と感覚が際立って・・』
と私は他社のアーティスであったが、半分得意げで言った。

たまたま営業の本部長の所に、邦楽の制作本部長が打ち合わせて来ていたのを、
後で知った。

この後、一時間後に、私は制作本部長とエレベータの中で、
偶然ふたりとなった。
『・・お前さんねぇ・・よく言うょ・・』
と微苦笑された。

私は中小のレコード会社で、コンピュータ専任者の身であったが、
怖いもの知らずの27歳の時であった・・。


このようなことを庭の雪どけを見ながら、ふと想いだしていたのである。




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東京の郊外は、雪晴れの朝を迎えて・・♪  《初出2008.2.10.》

2008-06-05 15:37:27 | 小庭の情景を眺めながら
東京の郊外の調布市に住む私は、
昨日からめまぐるしい冬の情景が移り変わった。

午前中のひととき、玄関庭にある白梅が二輪ばかり咲き初じめ、
明るい曇り空の中で、私は喜んだりした。

昼過ぎにひとひら、ふたひらと雪が降りはじめ、
気象庁の予測どおり、と私は微笑したのである。

30分した後、ときおり霙(みぞれ)、霧雨が降ったり、止(や)んだりした。

夜の7時過ぎに雪が降り、
遅くてご免なさい、といったように、限りないほど降ってきたのである。

10時過ぎになると、霙(みぞれに変わり、
その後は止(や)んだ。

私は玄関庭の軒下で樹木、地表の雪化粧を見ながら、
わずか数センチの積雪であったが、
この程度が良いと微苦笑したのである。

雪かきは、門扉から玄関まで、洗濯の干し場などすればよい、
と考えたからである。

雪は清冽な情景をみせてくれるが、一面おぼつかない足元となるので、
私の住む付近は、日常生活としてはこの程度の積雪が、適当と思われる。


先程から主庭を眺めながら綴っているが、樹木、地表は雪化粧となっている。
朝の陽射しをまぶしげに見ているが、まもなく庭に射しこみ、雪化粧を染めるが、
これなりに美のひとつかしら、と私は喜んでいる。

日中は10度の陽気に恵まれ、
残り雪を眺めながら散策にふさわしいかしら、
と思ったりしている。


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雪の降る前は・・♪   《初出2008.2.9.》

2008-06-05 15:31:05 | 定年後の思い
東京の郊外は、明るい曇り空の朝を迎えているが、
雲はゆったりと流れている・・。

午後から明日の朝までは、雪が降り、積雪10センチ前後、
その後は急速に回復し、快晴となる、
と予測されている。

昨年は4月にひとひら、ふたひらのわずかな雪が舞い、春を迎えたが、
今年は早くも3度目かしら、と私は微笑んでいる。

昨日は風もない冬晴れに恵まれ、
ご高齢者、幼児を連れた若き女性たちが、
買物先、遊歩道で数多く見かけられた。

『明日は雪になるでしょう・・
このような良いお天気・・家に居ては・・もったいわよ・・』
とご高齢者と立ち話で、私に微笑みながら云った。



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ホウレン草は、幼馴染・・♪ 《初出2008.2.8.》

2008-06-05 15:28:27 | 食べ物、お酒
私の幼年期、祖父と父が中心となって農業をしていたので、
私がこの時節に買物に行った際、何かとホウレン草に目がいき、買ってきてしまう。

生以外は、どのように料理しても好きだし、
何より冬の寒い時は、カブ、白菜などと幼馴染の食べ物なので、
私は毎日食べても美味しいのである。

私は八百屋さん、スーパーの野菜売り場で、
出来うる限り生き生きと根元が赤く染まっている選定している。

これは私の幼年期、祖父、父が青果市場に出荷する時、
ホウレン草の良し悪しの基本、と幼いながら学んだひとつである。

先程、本を読んでいたら、
江戸時代の後期で俳人の植蘭(しょくらん)が、


まだ寒き 茎の赤みや はうれんそう


という一句を残されていた・・。

私は日本の江戸時代でも、ホウレン草を愛食されていたこと知り、
私なりに微笑んでいる。

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ときには、身をつまされ・・!! 《初出2008.2.9.》

2008-06-05 15:16:23 | 時事【社会】
   第一章

昨夜、テレヒ番組で興味を惹(ひ)かれる番組なく、
NHKが2004.3.27に放映していた『あなたが選ぶ時代の歌』の収録した
ビデオを視聴したりしていた。

この番組は、NHKがテレビ放送開始して50周年の際、
日本の歌を視聴者の投票により、歴代ベスト百選である。

私はときおり、こうした番組を観て、
50年の歌番組を通して、この時代の出来事に思いを馳せたりしている。

この後、ぼんやりとしていたら、
NHKで『ドキュメント現場 ~出稼ぎアパート冬物語~』の番組を知ったが、
既に番組は始まっていたが、残りの20数分観て、
このあと、私は愕然としながら、
日本の現状の一端を教示され、身につまされたのである。

私は中小業のサラリーマンを35年間を過ごし、
定年退職後の年金生活の4年生であるが、昨今の日本の現状から遠ざかっているので、
無知なことが多いのである。



   第二章

昨夜、NHKで夜の11時からの『ドキュメント現場 ~出稼ぎアパート冬物語~』で、
30分間の作品である。

私は今朝に20数分しか放映された番組を視聴しなかったので、
ネットで検索した。

正式名称は『ドキュメント にっぽんの現場』であった。

http://www.nhk.or.jp/nippon-genba/yotei.html

今回の『出稼ぎアパート冬物語』についての内容については、
20数分しか私は視聴していなかったので、
このサイトの解説を転記させてむ頂きます。


自動車産業の盛んな愛知県・三河地方。
企業城下町のひとつ、高浜市の一角にある4階建てのアパートは、
10部屋が人材派遣会社の寮として使われている。

暮らしているのは北海道から沖縄まで故郷に家族を残して、
出稼ぎに来た20~50代の男たち。
3LDKの部屋に仮住まいしながら、
自動車メーカー関連会社の部品工場で日勤と夜勤を続けている。

自動車が好調の愛知では、沖縄や青森に比べて、
求人がおよそ4倍あり、賃金も高い。

昇給がストップした中、妻子を離れて青森県から働きに来た元会社員。
最低賃金が全国で最も安い沖縄から来た25歳の若者。
市町村合併でリストラに遭った元自治体関係者。

故郷とのつながりを見つめ直す年末から年始、アパートの日々に密着し、
家族への思いを胸に、ひたむきに働き続ける男たちを通して、
地域格差の現実を映し出す。


【注・上記の番組の解説原文より、勝手ながら改行を多くしました】


私が番組の途中から観たのは、
沖縄の若者が夜勤明けの疲れた表情であった。
彼は精勤した結果、30万円前後を得て、幼児の時に親が離婚し、
父親に育てられ、沖縄に在住する父親に5万円送金する。
『父親に育てられ・・父も生活も大変なので・・』
と彼は言っていた。

彼は3ヶ月単位の契約社員の身であるが、真摯に業務にあたるので、
上司より正社員の採用の話を持ちかけられる。

彼には故郷に父、恋人がいて、
将来に居酒屋を恋人と共に営業するのが夢であった。

彼は苦悩しながら、沖縄出身の同じ働く職場の先輩に相談する。

『沖縄では・・月に28日、一生懸命働いても・・
10万円前後が多いのは・・知っているだろう・・』
と先輩は正社員を受けて、安定した生活を選べば、
と彼を諭(さと)す。

番組の終りの頃、父と恋人がそばにいない上、
居酒屋の夢もあるので、彼は沖縄に帰ることに決意する。

尚、彼は先輩に相談している時、
居酒屋で金儲けをするためではない、とぽっりと言う。


このような沖縄の若者を見ていたら、
私が若く彼の立場に置かれたら・・と考えたりしたのであった。

多分、私は正社員を受けて、安定した職場に精勤しながら、
沖縄に居る恋人を呼び寄せて、新たに三河地方で生活をはじめるだろう、
と漠然と考えたりしていた。

そして私は若い頃、大学を中退した後、映画、文学青年の真似事をし、
アルバイト、契約社員の苦闘した4年間に思いを馳(は)せた・・。



   第三章

私が観たもうひとりのお方は,30代の男性で、
青森県に妻と幼児をいる方だった・・。

住まいの近くで職を探したが、給与などが低く、
やむえずこの寮で住み、部品工場に精勤されていた。
ある時、幼児が高熱で妻から電話連絡を受けても、
当人の男性は妻を慰めて他の手立てはなかったのである。

この間、他県から働きに来た方が、過酷な勤務のせいか、
1週間で無断で退去している。

年末になると、この青森の男性は妻子の元に帰郷されるのであるが、
経費削減で高速バスを乗り継いで還られている。

年末・年始、寮に留まっている方たち折、
年末年始の運賃も高く、お金を貯めたい、と帰郷がままならず、
寮で年末年始の休暇を過ごされている。

番組の終わり頃、青森の男性が三箇月の更新で働き続けるために、
この寮に戻ってくる。

部屋に入ると、この男性は妻からの電話で、
『貴方が帰られた時・・しばらく子供が泣き止まなかったのよ・・
残業も程々に・・身体・・大切にして下さいね・・』
このような意味合いの言っていたのである。


私は番組の終了時は、夜の11時半過ぎであったが、
現実の地域格差の問題を目の前に突きつけられたようで、
暗澹たる思いであった。

そして、同じ様な勤務形態、職務実態であっても、
歴然とした格差も思い返した・・。


私は20代の前半にアルバイト、そして契約社員の体験をした。

その後、コンピュータの専門学校で技量を取得して、
ある企業に中途入社し、正社員で35年間勤務した。
定年退職の5年前に出向となり、取引実態のある物流会社で勤務した。

この物流会社のひとつの物流センターに勤めたが、
管理サイドは私を含めて4人で、
男性の契約社員、アルバイト契約の20代~30代の10名前後、
そして女性のパート契約の20代~50代までの100名前後の職場であった。

私は数ヶ月して、彼等の待遇の実態を知ったのである。
賃金の低さ、将来性の乏しさ、契約更新、解雇等、
すべて勤務実情が劣悪であった。

しかし彼等は他への求職より良いと思いながらも、
将来性のない勤務に従事している。

このような職場で私なりに、契約社員、アルバイト契約、パート契約、
そして下請けの会社の方たちと様々な人に接することが出来た。

ときおり彼等の苦情と要望を管理サイドとして判断したが、
それなりに私は、人としての勉強をさせて頂ただき、
私はこの体験が、今でも秘かな宝物と思っている。


私は遅ればせながら、『にっぽんの現場』のひとつの番組を視聴したが、
国の運営をつかさどる国家議員の方に、
睡眠時間を削っても、畳に正座して視聴してほしい、
と願っているのである。


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若き女性、『待ちわびる』は死語となり・・!? 《初出2008.2.7.》

2008-06-05 15:00:34 | 時事【社会】
私は定年退職後の年金生活4年生の身であるが、
昨今の情報技術にただ唖然とし、携帯電話も使えないでいる。

私は1969年(昭和44年)にコンピュータの専門学校でソウトウェアを学んだ後、
民間会社の中小業で、情報の専門部署で20年間所属していた。
1991年から定年までは、他部門に所属していたので、
先端の情報技術は知らなく、サラリーマンを卒業した。

昨日の読売新聞を読んでいたら、
【遠距離恋愛 ケータイは本当に味方か】
と見出し記事があり、
『メディア』記事であったので、私は興味深く読んだのである。

マックスヴァルト研究所の横山雅子・社長が綴られた記事であり、
読み終わった後は、深くため息をした・・。

今の若い女性は、待ちわびる、待ち焦(こ)がれる、
死語になったのかしら、と思ったりしている。


横山雅子・才女は遠距離恋愛の手段として、
”遠恋支援”のサイトが多く普及を明確に綴られた後、


「携帯電話は常に持っているもの。
だからメールもすぐに届いて当然」

・・女性は携帯メールを送信したら即返信が理想。
30分以上返信がないと不安になるらしい。
まして相手がうっかり寝てしまい、返信が翌日に持ち越されようものなら・・。
これが要らぬ心配や妄想を誘発し、会えない分だけ双方のストレスになってしまう。

26歳のKくんは言う。
「メールは大変。
女の子は返信の速さで、
男の気持ちを計っているじゃないかと思ってしまう」

・・

現代のITコミュニケーションの源は、
多くが「女子的発想」にあるといってもいい。
気分のおもむくままにお喋りするのも、
他愛のないやりとりの連鎖も、
女子の潜在願望を溢(あふ)れんばかりに満たしている。


そして横山雅子・才女は、最後の結びとして、


その気になれば24時間監視できるようなITで、
互いの(特に女性側の)依存度がどんどん増長してしまう今より、
「信頼」だけで続いた時代のほうが、
無駄な破局は少なくなかったのではないかとも思う。

いくら調べても数値は出なかったが、果たしてどうなのだろう。


以上が記事の概要である。


私は駅前、街中で女子高校生以上の若き女性の大半が、
携帯電話を握り締め、或いは電話をしながら歩いている情景を見るたびに、
そんなに同性、異性の友人、恋人と話すことがあるの、
と感じたりしている。

私達の古い時代は、夜のひととき電話で話し合えれば、
充分と思っていた。

男性は仕事に命を賭け、現実の収入を確保し、将来の展望を切り開く責務があるので、
精勤している時、メールをなるべく即返信してほしい女性の気持ち、
私は若き男性に同情してしまうのである。

私はお互いに時間、日々を待つ、待ちわびることの出来る時代であったが、
若き女性は恵まれすぎた時代のせいか、
と63歳の私は微苦笑をしている。


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淡き雪は、朝の陽射しを受けて・・♪  《初出2008.2.7.》

2008-06-05 14:58:29 | 小庭の情景を眺めながら
東京の郊外は、深夜の2時過ぎに雪が舞い降りた、
と早朝に私は気付いた・・。

わずか1センチ前後の薄化粧であるが、
常緑樹の枝葉、落葉樹の枝、地表は雪化粧となっている。

澄み切った朝の陽射しを受けると、
常緑樹の枝葉は、身震いをしたかのように雪を払い落とし、
数多くの葉は、緑色の鮮やかな色合いとなっている。

落葉樹の枝は雪を薄っすらと湛(たた)えていたが、
陽射しをあびると、水滴となり、キラキラと光沢を放っている・・。

地表は雪の上に陽射しの帯を見せている。

このような光景をぼんやりと私は見つめている。

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