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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過去は、懐(なつ)かしく、そして愛(いと)おしく  《初出2008.1.13.》

2008-06-04 14:51:54 | 幼年・少年時代の想いで
母の命日に私達夫婦と妹2人で、お墓参りした後、
駅前に近いイタリア料理店で昼食とした。

このレストランは、末妹が偶然見つけた料理店で、
私達は気に入り、ほぼ毎年利用している。

ある程度の赤、白のワインを呑みながら、コース料理を頂くのだが、
気心知れた私達4人は、
一年に一回のささやかに母を偲(しの)ぶ集(つど)いであるので、
話題は生前の母のエピソードが多かった・・。


私は昭和19年に農家の三男として生を受けたが、
小学2年に父に死去され、まもなく祖父も亡くなり、
技量の必要とされた農家は没落しはじめた・・。
母は嫁ぐ前の叔母2人とで、
私達兄妹を何とか世間並みに願いながら育ててくれたが、
困窮した生活は隠せる状況ではなかったのである。

こうして私の小学生時代は、母、叔母達に見守られながら過ごした・・。


私は亡き母の死生観を話していた時、
ふと祖父の妹の方を想いだした・・。

私達が最も生活に困窮した時、あの頃、
このお方は頻繁に来宅し、私と妹の2人に何かと面倒を見てくれたのである。

このような話題になると、
あの叔母さんには特にお世話になった、
と私達は話し合った。

私達は多くのお方に見守れながら、
今は世間並みの生活を送ることが出来ているが、
過ぎ去った困窮した時代は、懐かしく、愛(いと)おしくも感じられ、
お互いに、あの時は、と話し込んだりした。




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幼年時代、この時節に唄った歌は・・♪   《初出2007.12.30.》

2008-06-03 11:53:36 | 幼年・少年時代の想いで
東京の郊外は、昨夜も雨が降り、今朝は雨上がりの澄み切った朝を迎えている。

雨上がりのせいか、何となく暖かいように感じているのであり、
ここ数日はぐずついた天気であったが、これからの1週間の快晴、と報じていた。

庭に下り立ち、55年前以上の幼年期の頃は、
この時節はどのように過ごしていたのかしら、
と思ったりした。

私の父は小学二年、祖父は小学三年で死去されたが、
一年生の時、冬休みの直前は恒例の二学期の終業式があり、
そして何より苦手であったのは通信簿を貰うことであった。

兄2人は優等生で、私は『2』が多い劣等生で、
父にしぶしぶ見せると、やっぱりね、といった表情を感じたのである。

私はいじけた可愛げのない幼児であったが、
やはりお正月が近くになると、人影の少ない農道で、


♪もういくつねると お正月
 お正月には 凧(たこ)あげて
 こまをまわして 遊びましょう
 はやく来い来い お正月

【 『お正月』 作詞・東 くめ 】


とかぼそい声で唄ったりした。

私は元旦になると、お年玉を父、祖父の両方から頂けることを覚え、
そして兄に教えて貰い、凧を揚げたりし、こまも廻したりした記憶があるので、
劣等生なりにお正月を迎えるのが楽しかったのである。

尚、凧揚げを兄に見習い、凧を揚げようとしたが、
私のだけが少し揚がったと思ったら、直ぐに落下するのであった。

兄達は通信簿『5』の多い優等生であり、
僕のだけは『2』が多い劣等生のせいか、
僕の凧、どうして揚がってくれないの、
と悲しくなり、そして益々(ますます)劣等感を増した時でもあった。




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なぜ冬至の時、カボチャを食べるの・・♪  《初出2007.12.22.》

2008-06-03 11:07:13 | 幼年・少年時代の想いで
冬至の日には、ユズ湯に入いれば、
無病息災で冬が無事に過ごせると古来から云われている。

私も幼児の頃から、ユズの浮んだ湯に入いったりしていた。

そして、夕食の時はカボチャを煮込んだのを食べたりしていた。

私は晩酌している父に、
『近所の友達も・・今晩はカボチャといっていたよ・・
どうして・・カボチャを食べるの・・
去年の今頃でも・・3日に1回ぐらいカボチャがよく食べたのに・・』
と私は云いながら、父を困らせた。

私が小学1年生の頃で、
祖父と父が中心となって農業をしていた。

まもなく父が死去し、祖父も後を追うように亡くなったが、
我家は冬の時節、カボチャの料理が多く、私は食べすぎたせいか、
未(いま)だに私は苦手な食べ物のひとつとなっている。

先程、『冬至』に関して調べたりしていた時、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)を読んで、
私なりに苦笑しながら、理解できた。

無断であるが、引用させて頂きます。


・・栄養価の高い緑黄色野菜の代表格。
炭水化物、蔗糖(しょとう)、ブドウ糖のほか、カロチンにも富(と)んでいる。
・・この保存のきく野菜を、栄養が片寄りがちな冬に食べて、
元気をだそうという意味・・

カボチャの優れている点は、
果肉だけでなく、「南瓜仁(なんがにん)」と呼ばれる種までが栄養豊富なことである。
アミノ酸のバランスがよく、リノール酸とオイレン酸を主とする脂肪質も豊富・・
カボチャの種を炒(い)って食べれば、
高血圧症や前立腺肥大症の予防に効果がある・・

このように明記されて折、昭和の28年の頃を思い出したりしている・・。
あの頃は、敗戦後10年を満たない時期であったので、
どの家も食べ物は豊富でなく、
冬の時節にカボチャで空腹を満たし、栄養を補強し、
そして甘味のある香ばしいカボチャを食べられたのだろう。

10年前に亡くなった母は、生前の時、
ショート・ケーキよりカボチャの方が美味しいわ、
と私は度々聴かされたりしていた。

私はカボチャの煮物を見るたびに、亡くなった母を想いだすのである。

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早朝の鼻歌は、『水色のワルツ』となり・・♪  《初出2007.12.14.》

2008-06-03 10:07:30 | 幼年・少年時代の想いで
私は目覚めたが少しぼんやりとして、起きだしたのは5時半過ぎであった。

薄暗い玄関庭の軒下で煙草を喫った後、
煎茶とコーヒーを淹れたりした。
この時にどうした思いか、


♪君に逢ううれしさの 胸にふかく
 水色のハンカチを ひそめる習慣(ならわし)が

【 『水色のワルツ』 作詞・藤浦 洸 】


と小声で唄いだしたのである。

そして何時ものように、コーヒーと牛乳をそれぞのマグカップに入れ、
お盆にのせて、寝室の家内の枕元に置いた。

その後、新聞を取り入れながら、何で今朝は『水色のワルツ』になったのかしら、
と思ったりした。

この『水色のワルツ』は、私の小学3年生の頃の想いでの歌のひとつである。


東京の郊外で祖父と父が中心となって程々の広さの田畑を耕していた農家であった。
父が病死し、その後まもなく祖父も亡くなり、
農業の技量を失くした我が家は没落をはじめた・・。

こうした折、母の実家から異母とその娘が来宅した。
私はみすぼらしい格好で迎えたが、
どなたが見ても都心の裕福なお2人をまぶしげに見たのである。


私はこの時のお嬢さんを後年になると、
『水色のワルツ』と重ねてしまうのである。


私は主庭に下り立ち、


♪いつのまにか 身にしみたのよ
 涙のあとをそっと 隠したのよ


と小声で唄いながら、胸が熱くなったりした。

私の母、兄妹、そして未婚の叔母達の家族が生活に困窮していた時代であったので、
まぶしげに都心の裕福なお嬢さんを見た情景が忘れない時の歌でもある。

そして私は、昔の歌はどうして美しいのだろうか、
と余計なことを思ったしている。




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私の小学生時代の愛唱歌・・♪   《初出2007.10.19.》

2008-05-31 15:59:21 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学校に入学したのは、昭和26年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であった。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、
【二等兵物語】』で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感銘を受けたりした。

しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、私を『三原山』とあだ名を付けていた。
普段無口の癖、ときたま怒り出すので、活火山の由来だった。


私が小学5年になる頃、小学校の音楽室にピアノが導入されて、
何かしら女の子達はピアノに触れることが、
羨望の的となっていた。

我が家でも妹の2人が小学5年、3年で私が中学1年になったばかりの時、
妹達は先生にほめられた、と母は聴いて、有頂天になり、無理してピアノを購入した。

小学校の音楽の成績は、兄2人と妹2人は通信簿『5』であり、
何故かしら私だけが『2』の劣等性であった。


私が25歳を過ぎた時、企業に中途入社し、たまたまレコード部門に配置されて数年後、
妹のひとりが母の前で、
『お兄ちゃんがレコード会社で・・
家にいる時はモーツァルトを聴いているなんて・・想像できる・・
信じられないわ・・』
と云ったらしく、私は苦笑していた。


今の兄妹は、日常は音楽から遠ざかった普通の人々で、
日常生活で最も音楽をこよなく愛聴しているのは私だけである。

尚、母が苦労して購入したピアノは、10数年後、埃を被り、
中古業者に引き取られた。



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チョコレートの想いで・・♪   《初出2007.10.10.》

2008-05-31 14:42:31 | 幼年・少年時代の想いで
私は原則として甘い菓子を食べないが、
ときおり、大福とチョコレートを月に一度ぐらい口にしたりしている。
そして、家内と旅行に行った時、
地方の銘菓と称されている和菓子を抹茶、煎茶などを頂いて、
家内のお供として、賞味したりしている。

昨日の小雨の降る中、買物を済ませて帰宅し、
家内と遅い昼食を頂だいた後、何時ものように午後の読書をはじめた・・。

この時に来訪のチャイムが鳴り、
家内が玄関に立つと、
『自治会の・・共同募金の集金・・なの・・
それが、小学一年生の男の子なの・・』
と家内は私に云った。

そして、台所の小棚に行き、居間に戻ると、
家内は一枚の板チョコを私にかざした・・。

私はいいょ、というしぐさをした。

男の子を見送った家内は、
『チョコレートを上げたら・・最初はびっくりしていたけれど・・
嬉しそうな笑顔・・可愛いわね・・』
と家内は私に云った。

『そりゃ・・良かった・・』
と私は家内に微笑みながら云った。

私は日常の買物を担当しているが、
スーパーの菓子売り場で明治、森永のごく普通の100円程度の板チョコを見かけると、
一ヶ月に一度ぐらい手を伸ばし、購入してしまうのである。


私が昭和29年の小学三年生になったばかりの時、
私を可愛がってくれた祖父が死去した。
前年に父が亡くなり、跡継ぎを失くしたので、祖父は病気の上、
落胆した表情が幼年期の私さえ感じていた。

祖父、父が中心として、程ほどの広さの田畑を耕し、
忙しい時期は小作人の助けも借りて農業をしていたが、
大黒柱の2人を失った我が家では、
長年の農業の技量の伝承が絶たれてしまったので、没落期となった。

こうした折、祖父の妹に当たる叔母が、
何かと心配し、日常口にできない菓子とかを持参してくれた。
その上、妹の2人には、お揃いの洒落た下駄などを頂戴した。

私は駅までの15分ぐらいの道程を叔母と共に歩いて、
駅で見送った。
この直前、叔母は私に、
『チョコレートでも買ったら・・』
と私にお金を手渡した。

私は小汚い身なりであったが、駅の商店街の菓子屋で、
輝かしい一枚の板チョコレートを買った。

私は駅前から急いで帰宅し、妹のふたりと割って食べた。
正確にいうと私は少し大き目の3分の一であった。
あの家も貧乏になった、と幼児の私さえ、近所の噂を聴こえたりしていたが、
この時ばかりは妹2人と食べあった板チョコは、急に裕福に感じたりした。


こうして私なりに、たった一枚の板チョコレートであるが、
昨今のベルギー産の高級品、宇治抹茶生チョコなどのチョコレートより、
遥かに美味しく感じられるのである。


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秋の運動会の想いで・・♪   《初出2007.10.6.》

2008-05-31 14:10:54 | 幼年・少年時代の想いで
私は秋日和を迎える朝、ときおり小学生の時の運動会を想いだすと、
微苦笑したりしている・・。

昭和26年の春に小学校を入学したが、
この頃は祖父、父が健在で、
ある程度手広く田畑を耕して、農業をしていた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた男の子で三男坊の身であり、
跡継ぎ候補が2人であったので、今度は女の子と期待されていたらしく、
また男の子、と云う視線を乳児の頃から何となく感じたりしていた。

幼児の頃から屈折したいじけたような思い過ごし、
兄2人が通っていた小学校に入学した。

長兄は原則として跡継ぎの身であったので、祖父と父たちは家庭教師を付けて、
長兄はそれなりに答えて、XX小学校60年開校で初めて国立の中学校に入学できた、
と村中の評判となっていた。

次兄は活発で運動神経にも優れ、クラスの人気者であったので、
何かと私はあいつの弟、
という視線を先生、同クラスの人々から見られた。

そして兄達は通信簿を頂く際、『5』と『4』の優れた成績で、
私は同じ小学校でも『3』と『2』で占められいた。

ともかくいじけ屈折した可愛げのない子で、
日陰のような子であった。

こうした状況で、小学校一年の秋、
初めて運動会で50メートル競争に出場した・・。

6人で同時に走ったが、そのうちに頑張れば、
と思っているうちにゴールに着いた。

結果は、後ろから2人目の5位だった・・。
この頃は、走り終えると、1位の旗から6位まで並列されていたので、
私は『5』の旗の後に並ばされた。

何故かしら、私は小学校を卒業するまで、
6人で走るといつも5位が続き、勉強の成績と同様に劣等生であった。

私が長兄、次兄の全(まった)く影響のない私立の都心の高校に入学してから、
心が解放されてか勉強に目覚めて、
体育の授業で長距離の5キロ競争はいつか追いつけると走りながら思い、
上位グループに属した。


私の古いアルバムの中で、一番古い写真の一葉は、
初めての小学校の運動会で、昼食をしている時の情景が写しだされている。

父親の横に秋の陽射しを眩(まぶ)しそうにしている私、
母に抱かれている乳児の妹との4人である。

父親と私が撮れた写真はこの一葉だけで、
私が2年生の3学期を終える頃、父は42歳の厄年に死去された。


私は今でも短距離は弱いのである。
そのうち追いついて抜いてあげるから、
と走りながら思っているうちに、ゴールになってしまうから、苦手である。

その点、長距離は頑張れる時間と機会があるから、
得意であるが、今では走れない。


秋日和のひととき、庭先で煙草を喫ったりして、ときおり幼児の頃を想いだされると、
何故かしら目頭が熱くなったりする時もある。



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あの頃の9月27日に生を受けて・・♪  《初出2007.9.27.》

2008-05-31 13:18:03 | 幼年・少年時代の想いで
私は昭和19年に、東京の郊外の調布市で生を受けた・・。

農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。

敗戦の大戦の一年前の頃であるので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居はもとより、
親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。

北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた崖の雑木林に防空壕に避難した、
と話していた。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人での足らない折は小作人の人々の手も借りていたので、
空襲警報が発令されると、とりあえず大きな防空壕に避難されたらしいので、
慌しい時代でもあった。

私のような乳児をかかえ、おしめの取れない時期であったので、
何かと家族の方達は大変だっただろう、
と思い返したりしている。

後年の小学三年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台が数多く見受けられた。

米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。

この頃までは、学校の帰路に寄り道をすると、
防空壕がよく見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

私は二十歳の誕生日に大学中退を決意し、
父が私が小学2年の時の42歳の厄年に病死したので、
何とかこの歳までは元気でいる責務がある、
と秘かに思っていた。

父の歳を乗り越えると、せめて定年退職後の10年は五体満足が生かして欲しい、
と念願したのであった。

満63歳になった今、
70歳までは大病することなしに、自在な日々で過ごしたく、
これ以降は天上の神々の采配によるので、余生と思っている。

敗戦の一年前頃に生を受けたせいか、
或いはこれまで歩んできた歳月を肯定したいのか、
最近はとみに昭和の時代に愛惜を深めたりしている。


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『中秋の名月』の想いで・・♪   《初出2007.9.25.》

2008-05-31 12:31:19 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学校に入学したのは、昭和26年の春である。

この頃は、祖父、父が先祖代々から農家を引き継いで、
ある程度手広く、小作人の手を借りながらも田畑を耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けたが、
2人男の子が続いたので、今度は女の子を期待していたらしく、
三男の私としては、幼児心に何となくいじけた可愛らしくない児であった、
と幼年期を振り返り時、想いだしたりしている・・。

この時節の満月を迎える中秋の名月の時は、
母屋の主庭に面した縁側で、月の光が観える位置に飾りを供(そな)えていた。

三方(さんぽう)と称された檜(ヒノキ)の白木で作った方形の折敷(おしき)に三方に穴が開いた台に、
半紙を敷いて、お米の粉で作った団子を15個ばかり供えられていた。

薄(すすき)が活(い)けられ、その脇には農作物の里芋(さといも)、サツマイモ、蓮(の根)などが置かれていた。

私は祖父に可愛いがわられて、祖父の冷酒を呑む横に座って、
満月を眺めたりしていた。

今、こうして想いだすのは、農家であったので、
春から育てられた農作物が何とか夏の日照り、台風などの被害を受けることなく、
無事に秋の収穫を迎えることができ、感謝をささげる意味から、
このように形式がとられたと解釈している。

尚、それから数年後、父が死去し、祖父にも死別され、
大黒柱を失った実家は衰退の一途となり、このような儀式には余裕がなく、
消滅した。


今の私は、この時節になると、
家内とどちらともなく月を眺めたりした時、
『月・・綺麗だね・・』、
と誉(ほ)めたりしている。


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『ラジオ体操』の想いで・・♪   《初出2007.8.19.》

2008-05-30 09:54:37 | 幼年・少年時代の想いで
私は小学校に入学したのは、昭和26年の春だった・・。

夏休みになると、近くのお寺の境内でラジオ体操が行われていた。
集合時間は、朝の7時頃だった、かしらと思っているが確かでない。

お寺のお賽銭箱の横の階段の横に、ラジオが置かれて、
NHKの『朝のラジオ体操』が流れると、近所の30名前後の小学生の前で、
6年生の班長が少し高い台でお手本のように始め、
小学生達はそれに習って続く・・。

小学生は家を出る時は、必ず所定の出欠カードを持参し、
体操が終わった後、班長から出席のマークをカードに押して貰ったりしていた。

私の長兄、次兄は優等生であったので、
6年生になると班長に選出されていた。

3男の私は、いじけた劣等性であったので、
6年の夏に班長に選ばれる確率は少なかった。

結果として、班長は私となり、
この年から何故かしら副班長が設けられて、
お寺の娘の同級生が選ばれた。

この夏、私は照れながら、俺でいいのかしら、と心の中で呟(つぶ)いて、
小学生達に出席マークを押したりした。


【注) 私の旧サイトで投稿した原文を加筆した】

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私が『ラムネ』を飲んだ頃・・♪   《初出2007.7.27》

2008-05-17 11:02:43 | 幼年・少年時代の想いで
私は定年退職後の3年生の身であるが、
この初夏の時、原則として日中は冷やした煎茶、
夜はビール、或いは冷やした純米酒を頂いたりしている。

昨日、例外として、昼下りのひととき、ビールを呑んだりしていた時、
幼児の時に飲んだラムネが想いだされた・・。


昭和26年の春、小学校に入学して、初めての夏、
叔母に連れられて、付近の雑貨屋に行った。

叔母が、ラムネひとつ、と店の主人に言った。
店の主人が、栓を開け、ポーンと音がし、
瓶の中からあわ立ちながらあふれてきたのを、
私に手渡された・・。

私は不思議な形の瓶もさることながら、
刺激のある飲み物であったが、喉越しに甘さが残る飲みと感じたりし、
3分過ぎて、お腹の満腹感を感じた頃、飲み終えた。

そして、瓶の中にビー玉のような玉に気付き、
瓶を少し振ると、不思議な音がした。

叔母は私を少しみつめながら、微笑(ほほえ)んでいた。
そして、購入したアイス・キャンディをかじっていた。


その後、夏休みになると、独りでこの雑貨屋に行き、
おじさん、ラムネ頂戴、と言って飲んだりした。

そして飲んだ後、いつもビー玉のような玉はどのように入れているのか、
不思議な思いでいた。

私はこの頃、家にあったB29(アメリカの爆撃機)の鉄製のおもちゃがあり、
どうして空に飛べるの、と同様に、
ラムネの中にある玉、どうして入れて作れるの、
と母や叔母を困らせた。


小学5年の夏休みになると、私はサイダーに変った。
三ツ矢サイダー、と明示されたサイダーをやっと飲み終えると、
満腹となり、
これ以上の幸せはない、と子供心に充たされていた。

20数年前、家内と旅先で、ラムネを見つけた時、
私達は飲んだ後、こんな味だったかしら、とお互いに笑ったりした。

そして、瓶を振ると、かすかな音がし、
もう一度、手を振り、音色を楽しんだ。


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純白な蓮(ハス)の花の想いで・・♪   《初出2007.7.21.》

2008-05-15 20:23:58 | 幼年・少年時代の想いで
私は時折、蓮の花を夢で見かけたりしている。


浴衣姿で田畑の広がった畦道を歩くと、
外れに蓮の水田があり、あたり一面、数多くの蓮の葉が水面から茎を伸ばしている。

そのなかで純白の花色は莟(つぼみ)となったのや、3分咲き、
そして満開となり黄色くなった花床が観られたりしている・・。

そして、著名な作家が私の方に近づいてきて、
蓮の葉で包んだ火薬飯を大事そうに手に持っている。

私は亡くなった作家を敬愛していたので、
貴方はどうして・・、と声を掛けようとしたら、
夢から覚(さ)めたりしている。


私は東京の郊外に昭和19年に農家の子として生を受けた。
祖父、父が中心となり、ある程度の田畑、竹林、雑木林を維持管理していた。
田んぼの外れに半反程度の広さの蓮専用の水田があった。

父、祖父が亡くなる小学生の前半までは、
毎年この時節は幼いなりに楽しんでいた。


7月の下旬に蓮の花は莟となり、8月の初めにお盆を迎えるので、
祖父か父が6本前後採ってきた・・。

私は祖父にねだって、大きな葉をひとつ貰ったりした。
水を少し入れると、水玉になるので、幼児なりに楽しんだのである。

そして泥だらけの中で、
どうしてあんなに白い花が咲くの、
と子供心に不思議となったりした。

お盆の時、仏壇の前に畳一帖ぐらい台を設置し、
位牌の前に、盆棚を置いて、野菜、果物を供えたりしている。
外れに茄子(ナス)や胡瓜(キュウリ)に割り箸で足を付けて、
馬や牛にみたてたりしている。
台の手前は、座布団を敷き、その脇に桶に水を入れ、蓮の葉を浮べ、
淡いピンクのミソ萩を小箒(こぼうき)のように作ったのを、水にしたし、清めていた。
そして台の左右に、この時節の草花を飾り、この中で蓮の花が中核となっていた。


夏休みが終わった頃、蓮の田んぼに行くと、
花が終り、可愛い蜂の巣のような実となっていた。

数週間過ぎた頃、この実を採り、
少しむくとどんぐりのような形の実が出てきて、
食べたりした後、少し甘い香りが残った・・。


やがて蓮の葉が枯れる頃になると、
祖父、父が泥だらけの地中から大きくふくらんだ蓮根を取り出し、
食卓を彩った。

私は蓮(ハス)と呼んでいたが、
後年になると、レンコン、と世間で言ったりしているので、
戸惑いを覚えたりしている。


このような想いでがあるので、
公園などで淡い紅色した華やかな大賀蓮(オオガハス)観かけた時は、
あれは蓮じゃない、
と幼児の思いに還ったりしている。


定年退職後の翌年の夏、
黒羽山の大雄寺の高僧が綴られているのを知った。



泥中に生じ汚れなく、幽香を漂わせる蓮の花は、
清浄、柔軟、可憐から、他の植物にはない特徴があることから、
仏教の象徴的な意味を持つものとなっている。

泥の中で成長し根を張り、清楚な美しい花を見せる。
そして、普通の花は、まず花が咲いてから実をつけるものだが、
蓮は花をつけると同時に実を中に詰めたつつみが出てくる。
このことから蓮は、過去・現在・未来を同時に体現しているとされている。



こうようなことを綴られている。


私は宗教に関しては興味はないが、
泥の中から茎を出し、純白な花びらを見せてくれるので、
私なりの身過ぎ世過ぎの日常生活を過ごして折、
改めてこうした純白の花を眺めると、
何かしら私の心を洗い清めてくれる随一の花と思っている。






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淡紅色の花、百日紅(ヒャクジッコウ)の想いで・・♪ 《初出2007.7.20.》

2008-05-15 18:04:45 | 幼年・少年時代の想いで
東京の郊外は街路樹、近所のお宅で、
百日紅の花をこの時節に観かけたりする。

猿滑り(サルスベリ)として慕(した)われている夏の花のひとつであるが、
7月の初めの頃から、秋にかけて長い期間彩(いろど)ってくれる。

古人の人たちは、夏の季節に百日も咲き続けると称して、
百日紅と命名した、と私は何かの本で読んでいた。


私の実家にも百日紅の大きな樹木があるが、
私の小学生の頃には、夏休みの時などは、木登りをしたりした。

叔母達は、猿も滑るくらい・・つるつるした樹だから・・気をつけるのよ、
とたびたび言われたりした。

毎年、この淡い紅色の花が咲く頃、
夏休みが近づいてきた、と思いながら、
夏休みの期間を見守り、初秋の台風の季節まで咲いていた。

ここ数年、散策などでこの花に出逢うと、
小学生の頃が思い出されるのである。

私の住む調布市では、市の花として、
この百日紅が指定され、淡紅色、純白の花が街路樹などで彩っている。

こうした折、暑い夏の時節であるが、
私の心は微笑(ほほえ)んだりしている。



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ひな祭りのひし餅の想いで・・♪    《初出2007.2.19.》

2008-05-09 22:07:50 | 幼年・少年時代の想いで
東京の郊外は曇り空から9時過ぎになると、
快晴となり庭に陽射しが差し込んできた。

満開の白梅、日本水仙に早春の柔らかな光を受けて、
私はぼんやりと主庭の彩(いろど)りを見詰めたりした。

このように静寂の中、ゆったりと過ごしてよいものか、と思ったりした。
私は現役時代は激務で、退職後は陽射しの移ろいを眺めながら一日を過ごすのが夢だったので、
こうして夢が叶(かな)い幸せのひととき甘受している。

3月の雛祭りの雛人形は、本日に飾りつけする日だったと想いだされた・・。


祖父、父が健在だった昭和27年の頃、
私の妹の2人用に母の里から頂いた五段飾りを蔵から父が出してきて、
母が丁重に並べていた。

私は小学2年生であったが、
菱餅(ひしもち)の形と三色を珍しく眺めたりしていた。

私の家は、祖父と父が健在の時は農家をしていたので、
もち米を精米に出して、餅を付いて、やがて菱形にしていた。


先程、知識人・藤野邦夫の本で調べたりしていた。



菱形になった理由がわからないが・・・
初期の菱餅は草色だったが、江戸末期になって、
真ん中の1枚が白くなり、更に明治時代になってから、
上の1枚に小豆(アズキ)で色をつけて、
今のような桃色に仕上げるようになった。

これには、
『1枚目の紅は桃の花、2枚目の白は雪を、3枚目の緑は若草を表わす』
という、うがった解釈もなされている。



以上、無断であるが引用させて頂きました。


私はこの年になって初めて知ったが、どうして菱形になったのかしら、
と考えたりしている。


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東京の郊外の雪の想いで・・♪  《初出2007.1.21.》

2008-05-08 14:13:00 | 幼年・少年時代の想いで
東京の郊外である調布市に生を受けた私は、
この時節、ときおり雪の降る日を待つ焦がれることがある。


私が昭和26年の頃、小学1年だったが、
この地域は駅前から少し外れると、田畑が広がり、雑木林があり、
その中の一角に宅地があり、人々の生活が営(いと)まれてきた・・。

祖父、父も健在であったので、程々広さのある田畑を耕して、
小作人の手伝いを受けながらも農家をしていた。

この頃の時代は、冬の時節はよく雪が降ったりした。
多分、30センチ、厳しい時は60センチ程度であった、と想いだしている。

私は長靴の中に、藁(ワラ)と赤い唐辛子を三つぐらい入れて、
番傘を差して登校した。

何時もの村道を避けて、真っ白になった畑の中を直進して、
徒歩15分程を歩いたりした。
ある年は風が吹き、雪にまみれながら登校し、学校に何とか着いた時は、
学友達の校門の付近でお互いの健闘をたたえながら、
『よく・・来られたなぁ・・』
とふざけあったりした。

こうした折、番傘は少し破れて、帰宅後、母に怒られたりした。


小学校を卒業した昭和32年頃になると、この地域は雪が降りそそいでも15センチとなった。

その後は冬の時節、雪が降らない年もあれば、
多少薄っすらと降る程度であった。


平成10年の1月中旬、母が亡くなり、長兄宅で葬儀をした折、
仮通夜の時、霙(みぞれ)から雪が降り続け、
本通夜の日中の時は、ご近所の人々に雪かきをして頂いたりした。
本通夜の読経、お焼香の時も雪が降り続け、
私は公共交通の電車、バスは乱れていたので、会社関係の人達には辞退したりした。

翌日の告別式の時は、20センチ程度の積雪となった朝、
晴れ上がり雪の照り返しがまぶしかったりした。


忌明けの法要の四十九日の前日、
雪が降りだして、翌日の親族、親戚、知人関係の来客を私は心配したりした。

翌日の法要は曇り空となり、無事に法要を終えて、
境内を妹と叔母と歩いていた時、
『お母さんさぁ・・私を忘れないで・・と雪が降ったのかなぁ・・』
と私は言った。

妹の2人、そして叔母は微笑んでいた・・。

私達夫婦は、この時から、私達の住む地域でこの時節に雪が降りだしたりすると、
私の母のしぐさ、ことばなどを想い馳(はせな)がら、
あの時・・お母さん・・ああ・・だったわよ・・
と深い想いで話しとなっている。




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