夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私は幼年期、『末期(まつご)の水』を体験し・・♪

2009-02-05 17:38:46 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市で、昭和19年に農家の子として生を受けた。
この頃の私の住む地域に於いては、田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人の手を借りて、耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

そして、私の下に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は溺愛し、私は疎外されたように感じで過ごしていたが、
父の妹である未婚の叔母の2人に可愛いがれていた。


このような時、私は3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、
診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたので、医師から叱咤を受けたりした。

しかし、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、
富山の薬の販売員が各家々を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。

まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
昭和30年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院を見かけることとなったのである。


私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、やがて呼吸が困難となり、危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言されたのである。

そして、祖父のひと言で、親戚、近くの人に、
3番めの男の子、危篤状態であるが助からない、
と伝達したのである。

私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が、
30分ぐらいした時、
祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。

私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。

そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。

このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『無念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と云いながら、強心剤の注射をしたのである。

そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生したのである。


このことは、私が小学3年の頃、
父は小学2年、まもなく祖父も亡くなった後、叔母から教えて頂いたことである。

そして、長兄とか次兄に、
私が二十歳になるまで数度、
『XXXの・・死に水・・俺は飲まされた・・』
と苦笑しながら、私に云ったりしていたのである。


今の私は、64歳の年金生活の5年生であるが、
父が肝臓を悪化して42歳で亡くなったので、
せめて60歳のサラリーマン定年退職までは生きる責務を強く感じてきた。
そして、定年後10年間だけは何とか五体満足に生かして貰らえれば、
あとは余生と思っているのである。



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改めて、『どんと焼き』の想いで・・♪

2009-01-13 16:03:56 | 幼年・少年時代の想いで
ここ数日、NHKのニュースを視聴していると、
地方に於いて、『どんと焼き』の情景が放映されて折、
私は懐かしげに見惚(みと)れていたのである・・。

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
遠い昔、私の近くの実家は、祖父と父が健在だった頃、
農業を営(いとな)んで、程々の広さの田畑を耕し、雑木林もある農家であった・・。

そして、今頃の時節に、確かに『どんと焼き』をしていたと思い、
飯倉春武・編の『日本人のしきたり』(青春新書)を本棚から取り出して、
読んだりしたのである。

この中で、【左義長(さぎちょう)】という項目で、
正月飾りを燃やす理由、と付記されて、
明晰に解説されていた。

無断であるが、転載させて頂きます。

【・・
小正月の1月15日の前後に行われる火祭りが『左義長』です。
『左義長』は『どんと焼き』、『どんと祭り』とも呼ばれ、
この日には、正月に飾った門松やしめ飾りを、
神社や寺院の境内などに持ち寄って燃やしました。

いわば正月飾りの後始末の行事ですが、
燃やす時の煙に乗って、新年に訪れた年神様が、
天上に帰っていくと信じられたのです。

そのとき同時に、棒の先に餅・芋・だんごなどを刺し、焼いて食べたりします。
地域によって違いはあるものの、
門松やしめ飾りなどを燃やした火で焼いて食べると、
その年は無病息災であると信じられました。

なぜ『左義長』と呼ばれるかについては、
平安時代の宮中の儀式で、三毬杖(さぎちょう)と呼ばれる青竹を立てて、
正月の飾り物を燃やしたことに由来するという説や、
鳥追い行事の鷺鳥(さぎちょう)から来ているなどの説があります。
・・】

注)解説の原文をあえて改行を多くした。

私はこの解説を読みながら、【どんど焼き】に於いて、
遠い昔、どうして青竹を用いていたか、初めて理解したのである。


私は【どんど焼き】については、このサイトに於いて、
一昨年の1月20日で【その昔、小正月、そして20日正月・・♪】と題して、
投稿していたが、あえて再掲載をする。


【・・
私は東京の郊外に住んでいるが、私の幼年期の頃を想いだしていた・・。

昭和26年の頃は小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で程々の広さの田畑を耕作していた農家の子であった。

お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そしてどんと焼きをしていた。

この頃は、旧家ではその家なりに工夫して、『どんと焼き』を行っていたのである

私の実家に於いては、田畑の外れに青竹を10数本ぐらい建てかけ主柱として、
稲の藁(わら)で覆(おお)いながら高い塔のように10メートル前後に作り上げた後、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、
新年に彩った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つも付けた団子をこの燃え上がる火で焼いたりしていた。

このようなことを思い馳(はせ)たりしていた・・。


古人達は、20日正月と称していたので、先程調べていたら、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)に於いて、
次のように述べられていた。

【・・
『20日正月』とは、正月の祝い納めをし、1月15日の『小正月』の飾り物などを片付ける日のことである。
つまり、元旦から始まった正月が、完全に終結する日を意味して折、
雪に閉ざされて、余り仕事もないこの季節を、
少しでも明るく過ごそうととする心情がが、
このような制度を作りだしたのではないだろうか。

小正月も20日正月も、今では地方にしか見られない風習になっているが、
かっての小正月は、それなりに重要な新年の行事だったのだ。
15日の朝、一年の健康を願う『小豆(あずき)がゆ』を食べる風習が各地で見られたり、
豊作を願って木に『繭玉(まゆだま)』を飾ったり、
若者が鬼の面をかぶって蓑(ミノ)を着け、家々を訪問して、怠け者を探し廻る儀礼などが行われたものだった。

今でも15日に、火を燃やして正月の飾りや書き初めなどを焼く『左義長(さぎちょう)』や、
『ドンド焼き』を、盛大に行う地方が少なくないらしい。
この火にあたると、1年間、風邪を退かないと云われてきたのである。
こうしてみると、小正月は健康と豊作などを祈る儀式だった訳であり、
20日正月は、そのお終(しま)いの日だったのだろう。



以上、無断であるが引用させて頂きました。


私は遠い昔のことは、忘れかけていた。
『小豆がゆ』も確かに頂いたこともあったし、
どんど焼も子供心にも風邪を退かないようにと、火に近づいたりした。

枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった雑木林の大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。

・・】


このように綴っていたのであるが、
我家は私が小学2年3学期に父が病死し、そして祖父も小学三年の一学期に亡くなり、
男手の大黒柱を失った実家は没落しはじめ、『どんと焼き』も取りやめたのである。

そして、まもなく実家の周辺も住宅街に変貌し、
私が小学校を卒業する頃になると、どの旧家でも『どんと焼き』をすることなく、
最寄の神社などに注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、輪飾りなどを持ち寄って、
神社の境内で共同の『どんと焼き』となったのである。

私は、その家なりの『どんと焼き』に愛惜を深めたためか、
神社で各家の持ち寄った『どんと焼き』には興味がなく、
これ以来、私が幼年期に体験した実家の『どんと焼き』が心の宝物と思い、
今日に至っているのである。



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改めて、幼年時代、『お正月』を唄った心情は・・♪

2008-12-30 10:39:25 | 幼年・少年時代の想いで
私の住む東京郊外kの調布市は、
26日はどんよりとした曇り空で風が強く吹き、寒い1日であったが、
この後は風もなく穏(おだ)やかな冬晴れに恵まれ、
私は日中のひととき買物、散策をしたりしている。

今朝も地元の天気情報は、
朝の6時過ぎは3度、昼下りは14度前後、そして夜の6時は10度と予測され、
今後の年末年始も晴れマークが続いている。

このように年末年始に於いて恵まれた天気は、
私の64年間で記憶がなく、どうしたのかしら、と戸惑ったりしている。

昨今の政治はもとより混迷し、経済も稀(ま)れな程に悪化し、
社会に暗いニュースばかり、報じられている。

私は憂(うれ)いながらも年金生活の5年生の無力な身であり、
天上の気候の神々が、せめてお天気ぐらいは温かい年末年始に、
と采配して下さっている、と解釈したりしている。

この後、庭のテラスで煙草を喫っていた時、
私の幼年期の頃の年末年始は、どのように過ごしたのかしら、
と思いを馳せたりした・・。
過日、買物のスーパーの店内で、『お正月』のメロディーが流れていて、
このことが脳裏の片隅に残っていたのかもしれない。


このような思いになると、私の綴ったサイトで、
『幼年・少年期の想いで』のカテゴリを開いたりしたのである。

偶然に昨年の12月30日に於いて、
【幼年時代、この時節に唄った歌は・・♪】
と題して、このサイトに投稿しているが、再掲載する。

【・・
私の父は小学二年、祖父は小学三年で死去され、
農家で大黒柱を失った我家は没落しはじめるのであるが、
一年生の時、冬休みの直前は恒例の二学期の終業式があり、
そして何より苦手であったのは通信簿を貰うことであった。

兄2人は優等生で、私は『2』が多い劣等生で、
父にしぶしぶ見せると、やっぱりね、といった表情を感じたのである。

私はいじけた可愛げのない幼児であったが、
やはりお正月が近くになると、人影の少ない農道で、


♪もういくつねると お正月
 お正月には 凧(たこ)あげて
 こまをまわして 遊びましょう
 はやく来い来い お正月

【 『お正月』 作詞・東 くめ 】


とかぼそい声で唄ったりした。

私は元旦になると、お年玉を父、祖父の両方から頂けることを覚え、
そして兄に教えて貰い、凧を揚げたりし、こまも廻したりした記憶があるので、
劣等生なりにお正月を迎えるのが楽しかったのである。

尚、凧揚(たこあ)げを兄に見習い、凧を揚げようとしたが、
私のだけが少し揚がったと思ったら、直ぐに落下するのであった。

兄達は通信簿『5』の多い優等生であり、
僕のだけは『2』が多い劣等生のせいか、
『僕の凧・・どうして揚がってくれないの・・』
と心の中で叫びながら、悲しくなり、そして益々(ますます)劣等感を増した時でもあった。

・・】


このように綴ったのを読み返し、私は微苦笑したりしたのである。
そして今年の初夏の時、中学校時代の有志で懇親会の時、
『俺は・・小学校、中学校の時・・通信簿②とか③の多い・・劣等生だったよ・・』
と私は明言したりしたのである。

隣に座っていた裕福な家庭で育てられた優等生だった女性が、
『あらぁ・・XXクン・・
そんなこと・・この人生に関係ないの・・
私の主人・・地方公務員だけど・・転勤が多かったのよ・・
お陰でさぁ・・引越しの連続・・
そのたびに子供も学校をだいぶ転校したりして・・可哀想くらいだったわ・・
その上、主人の母が病気がちで・・
人生・・うまく平等にできているの・・分かる・・』
と微笑みながら、私に云った。

私は苦笑しながら、聴いたりしていた。



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遠い昔、餅を搗(つ)いた頃の想いで・・♪

2008-12-29 22:53:44 | 幼年・少年時代の想いで
私はサラリーマンを卒業した年金生活の5年生であるが、
年末に近づくと、遠い昔、私の幼年時代に実家で、
餅を搗(つ)いた頃が想いだされる・・。

昨今の餅は、我家ではスーパーで販売されている品を買い求めている。
母の生前だった10数年以前の頃は、
母の住んでいた最寄の和菓子さんに注文した餅を頂ただいたりしていた。

そして、私が高校生だった頃は、
遠い親戚の方が、米屋を営んでいたので、
私は長兄に伴い、アルバイトのような形で、冬休みの期間でもあり、
25日前後の1週間は、早朝から夜遅くまで餅つき作業を手伝ったりした。
私は餅つきの作業が終った時、私にしては破格な礼金を頂き、
何に使ったよいかと、戸惑ったくらいであった。

私の幼年期は、祖父と父が健在だった頃までは、
東京の郊外で農家をしていて、戦前からの小作人の助力を得たりし、程々の広さの田畑を耕していた。
この頃は、江戸時代からの名残り農家の六人組で、
餅つきなどの場合でも、お互いに20日過ぎた頃から、
この日はあそこの家で餅つきをする互いの助成制度の風習が残っていた・・。

私はこうした一面の情景をこのサイトで、
【呑んべえの予感した頃・・♪】
と題して、2005年5月1日に投稿しているが、再掲載をする。

【・・
私が小学1年の頃だったので、昭和26年の年だった。
祖父と父は、東京の郊外で農業をしていたので、
年末近くになると、餅を搗(つ)いた。

祖父の家を含み、六軒の家で交互に手伝う習慣となっていた。

祖父の家の順番になると、もち米を精米にし、水に漬けた後、
その当日になると早朝から二つ大きな竈(かまど)に火をいれ、
二尺程の正方形の蒸篭(せいろ)を幾重にも重ねて、蒸した。

ご近所の主人たちが5人来てくださり、それに私の家の人である。

午後になると、杵(きね)で臼(うす)の蒸されたもち米を搗いた。
すべて手作業なので、労力のいる時代だった。

餅になると、お供え、長方形ののし餅、とそれぞれに作っていた。
長方形ののし餅は、長方形の板で形を整え、片栗粉でまぶした。

年末から正月のお雑煮、七草を得て、
その後、ときたま2月の上旬まで食卓に出されることもあった。

このために、のし餅などは10畳の部屋を二つ使い、廊下まではみ出していた。

夕方の6時頃になると、搗きたての餅をあんこ、大根のからみ、きなこ用に
それぞれ作り、夕食がわりとなった。

ご近所の主人たちには、酒が振舞われ、茶碗酒として出された。

こうした時、ご近所の叔父さんが、私に云った。
『XXちゃん・・何を食べるの・・』

『う~ん、大根の辛いの・・』
と私は云った。

『そうかい、からみねぇ・・
XXさん、この子きっと呑んべえになるね・・』
と赤い顔した叔父さんは、笑いながら私の父に云った。


この数年後に父が亡くなり、祖父も他界したので、
私の家は急速に没落しはじめた・・。

そして昭和32年の頃になると、
私の周囲の家々も時代の波が押し寄せ、住宅街に変貌し、
このような風習は、消えた去った・・。

・・】


このように綴ったりしていたが、私にとっては替え難い愛惜感もあり、
涙を浮かべそうになりながら、微苦笑している。




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私は深夜、昭和35年頃に、思いを馳せ・・♪

2008-10-05 11:34:46 | 幼年・少年時代の想いで
昨夜、NHKのBS2で、黒澤 明・監督の没後10年に際し、
『悪い奴ほどよく眠る』が放映されたので、
視聴したのである。

http://www.nhk.or.jp/kurosawa/

昭和35年(1960年)に公開された映画であるが、
黒澤プロダクションの第1作とも知られている。

私はこの映画を昭和39年(1964年)前後に、
遅ればせながら名画を上映する映画館で観たりしたので、
40数年ぶりとなる。


改めて観た映画であったが、当時はテレビが普及しはじめたといえ、
まだまだ映画界は数多くの映画が上映され、
多くの日本人は映画館に出かけて、入場料を払い、鑑賞したのである・・。

この映画を再見し、一番驚き、そしてため息をしたのは、
出演される俳優の豪華さであった。


私は昨今、映画を鑑賞後、ひとつの本を開くことが多いのである。
映画専門誌の『キネマ旬報』の増刊号で、
『1946~1996 キネマ旬報 ベスト・テン全史』であり、
通算70回記念出版として、平成9年(1997年)2月22日に発刊された書物である。

昨夜もテレビであったが、観賞を終えた後、
深夜にこの本を開き、この映画が上映された頃の昭和35年のページを読み、
この当時の頃の私に思い馳せたのである・・。



東京郊外の調布市で育った私が、地元の中学校を卒業したのは、
昭和35年(1960年)の春であった。

その直後、都心の私立高校の普通科に入学し、
都心育ちの多い学友と初めて接し、こうした影響か、
勉学の楽しさを知り、そして文学にも目覚めた。

しかし、『安保新条約』に伴う反対デモで社会全体が喧騒し、
6月の初日は都心の治安が不安定となり、学校が臨時休校となったが、
この頃の私は、恥ずかしながら『安保新条約』は無知であり、
無邪気に明治時代からの小説を読み耽(ふけ)っていた。

そして、『安保新条約』反対デモで、東大生の女子大生が亡くなったり、
その後、街には西田佐知子の『アカシヤの雨がやむとき』が流れていた・・。

秋になると、浅沼・社会党の委員長が演説中、
右翼の少年に刺殺されるという惨事があり、
私は衝撃を受け、時事の世界に関心を持つようになった。


日常生活に於いては、テレビのドラマ『ガン・スモーク』、『ローハイド』、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』、『ライフルマン』等を視聴していたが、
相変わらず小学4年頃から映画館に通ったりし、映画を観たりしていた。
この頃の私は、洋画一辺倒であり、
『ベン・ハー』、『アラモ』、『太陽がいっぱい』、『渚にて』等と、
明るいアメリカの青春映画であった。

この後、高校二年の冬休みのひととき、
黒澤 明・監督の『椿 三十郎』と『用心棒』の2本立てを、
二流の映画館で観たのであるが、『用心棒』に感銘し、
私は日本映画も捨てたもんじゃない、と思い、邦画も再び熱狂したのである。

そして、昭和39年(1964年)『東京オリンピック』が開催される頃まで、
『悪い奴ほどよく眠る』が封切られた昭和35年当時の映画も、
名画を上映してくれる映画館に通いつめて、鑑賞したのである。

思い浮かべると、邦画は『おとうと』、『黒い画集 あるサラリーマンの証言』、『笛吹川』、『秋日和』、『裸の島』等、
洋画も『チャップリンの独裁者』、『甘い生活』、『大人は判ってくれない』、
『勝手にしゃがれ』、『スリ』、そして『人間の運命』、『誓いの休暇』などに、
盛んに鑑賞していたのである。

あの当時の昭和35年の映画は、テレビが普及し始めた頃であっても、
数多くの人は、映画館で入場料を払い、鑑賞していた時代であった。
この当時の作品は、まさに満天の星空の中で、キラキラ星のような名画が多々上映されて、
今の私にとっては、ため息するほど、映画界も幸福な時代であった。


このような思いを馳せながらも、
私にとっては多感な少年が青年へと変貌する時代であり、
貴重な心身の日々を重ね、今の私は何よりの心の財産と思っているのである。




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『こっぺパン』の想いで・・♪

2008-09-12 10:17:01 | 幼年・少年時代の想いで
過日、スーパーのパン・コーナーで、
紡錘形で底の平たいパンを見かけ、
近づくと『なつかしきのコッペパン』と明記されていた。

私は昭和19年に生を受けた身なので、懐かしさの余り、ひとつ購入した。


東京郊外の私の実家から歩いて、一キロ前後の駅付近に小学校がある。
昭和26年の春に私は小学校に入学し、
3年生の頃だったと思われる。

小学校の校門の近くに文房具屋さんがあり、
私達は鉛筆、ノートなどを親から買って貰ったりしていた。
この文房具屋さんが、ある日、店の一角にパンを置きはじめたのである。

『こっぺパン』と命名され、紡錘形で底の平たいパンで、
厚みを半分に切って、バター・ピーナッ(通称・バターピー)、
或いは(イチゴ・・?)ジャムが塗られていたのである。


この頃の私の実家は、祖父と父が中心となって農業をし、
ある程度の広さで田畑を耕し、
殆ど毎日、米の白いご飯、ときには小麦を混ぜて頂いていた。
そして、ときおり小麦を精米した後に粉にした『うどん』を
家族そろって頂いていた。

父が2年の3学期に死去され、
祖父もまななく他界されて、成人は女手ばかりとなり、
我家は没落しはじめた。


このような時、文房具屋さんで、
『こっぺパン』のバターピー、確か15円だった、
とおぼろげに脳裏に残っている。

私としては、初めて見たパンでもあり、
香(かぐわ)しいバターピーに魅了され、
親がサラリーマン、商店の店主している同級生が購入しているのを見かけたりしていた。

やむえず私は誘惑に負けて、涙を浮べ、
母親にねだって、お金を貰い、文房具屋さんに行ったが、
売り切れで失望し、とぼとぼと自宅に向かい歩いたりした。

翌日、早めに文房具屋に行き、待望の『こっぺパン』のバターピーが買えて、
私は食べながら、この世にこのような美味しい食べ物があったか、
とほうばりながら、実感したのである。

その後、色々な菓子パンが店内の一角に置かれ、
私が小学校を昭和32年3月に卒業した頃は、
『こっぺパン』は消え、多彩な菓子パンで占領されていた・・。


後年、私はこの『こっぺパン』が、
太平洋戦争中は主食が配給制度だった時に考案され、
ひとつのこっぺパンが一人一食相当分と知ったりした。

そして、都心の1部の小学校の給食に於いては、
昭和25年から開始されたと知り、
世田谷区に隣接した実家の地域は、今より遙かに格差があった、
と農家に生を受けた私は苦笑したりした。


尚、過日、『こっぺパン』を購入し、自宅で家内と半分づつ頂いたが、
『今としては・・余り美味しくないね・・
思いでばかりかしら・・
過ぎ去った過去は・・美しく感じることが多いもんねぇ・・』
と私は苦笑しながら、
5歳ばかり齢下の都心育ちの家内に云ったりしていた。

あの頃は、今のように世界中から小麦の種類、
パンにそなえる素材はもとより、技術も1部の地域を除き、なかったし、
何よりも私も含め多くの人は貧しかったのである。


今の我家に於いては、スーパーのパン・コーナーで食パンを一斤を購入し、
家内はトーストで焼き、マーガリンを付けて愛食し、
ときおり私も頂き、贅沢な食べ物のひとつ、
と感じたりしている。
そして、私は時折アンパンを食べたりしている。



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私の『心のふるさと』は・・♪

2008-07-18 19:40:35 | 幼年・少年時代の想いで
私は齢を重ねた63歳の年金生活の身であるが、
過ぎた日々の半生を振り返えり、私の心の源泉は、
と問い続けたりすることがある。

そして、どなたも同様と思われるが、
やはり私は幼年期、少年期にときおり思い寄せたりしている・・。

幼年期、少年期に関しては、このサイト、別サイトで数多く投稿して折、
このブログの【年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~】に於いて、
カテゴリ『幼年・少年期の想いで』と称して、
52編ばかり残している。


私は東京郊外の調布市で農家の三男坊として、昭和19年の秋に生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に囲まれて、乳児の時を過ごした・・。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

敗戦後、まもなくして農地改革で田畑は減少したが、
幼児の私には、それなりの田畑、湧き水、小川、蓮(ハス)専用の田んぼ、
池、防空壕などの数多くの情景が、
今でも鮮明に残っている・・。


長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは3番目は女の子を期待していたらしく、
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していたかのように、
私は感じ取り、いじけた可愛げのない幼年期を過ごした。

そして、祖父と父は大学に学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。

長兄は当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
初めて国立の中学校に入学できて、
周囲の期待に応(こた)えたのである。

次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。


このした中で、私は小学校に入学しても、
通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等性であった。
父が小学2年3学期、祖父がまもなくした小学3年の一学期に死去し、
大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

私はお兄さんは出来たのに、と担任の先生のため息もさることながら、
相変わらずの劣等性でいじけた影の子であった・・。


後年、都心の私立の高校に通った頃から、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに伸び伸びとして育ち、
文学、歴史などに深く興味を持つ普通の子となったのである。

これ以降は、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした後、
何とか大企業の中途入社でき、サラリーマンを35年ばかりし、
定年退職を迎えたのである。


私は20代のなかばの頃まで、
地元を振りかえることをなるべく避けていた・・。

中学生の頃までに、急激に住宅街への変貌する情景に、
心身の波長が耐え切れなかった面があったが、
何よりも劣等性だった小・中学時代を思い出すのも、
負い目もあり、つらく、ふるさとなんかは、と思い続けていた。

30代のなかば、地元で家を構えた時、
家内と散策するたびに、小・中学校に通った路とか、
かっての情景を語ったりしたのである。

そして定年退職後、私は肩書きの失くした名刺になったので、
調布の里っ子、と明示しながら、
友人らに恥ずかしげに手渡したりしている。


尚、ここ30数年に於いて、
心のふるさと・・しばしば各界で使われているが、
この言葉を最初に使われたのは、私のつたない読書歴のメモに記載している。

旅行雑誌の『旅』の編集長をしていた紀行作家・岡田喜秋が、
作家・立原正秋に紀行文の連載を依頼した時、
『心のふるさとをゆく』とタイトルを命名されたのである。
昭和43年の新年号から1年間連載されていた。

私は紀行文をそれなりに乱読してきたが、
今は亡き立原正秋・著の『心のふるさとをゆく』には、
私なりの自己形成のひとつの基幹となしたことを付記する。


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私の幼年期、七夕(たなばた)の想いで・・♪    

2008-07-07 18:04:52 | 幼年・少年時代の想いで
私は昭和19年の秋、農家の三男坊として生を受けた。

祖父と父が中核となり、程々に広い田畑を小作人の手を借りながら、
農家を営んでいた・・。

敗戦後、農地改革などである程度は狭まったが、
それなりに旧家として維持されていた。

そして、七夕(たなばた)に関しては、
私が小学生の頃まで、自宅の庭の隅に竹に短冊を吊るす慣わしだった。


孟宗竹の今年成長した5メートル前後の若竹を一本伐って、
杭を打ち、安定させていた。
父の末妹の叔母が嫁ぐ前だったので、お正月の小倉百人一首と同様に、
叔母の指導の下で、私は妹と飾りだてをした。


そして私が小学2年の3学期、父に死去され、
その後、3年生の5月に祖父が亡くなった。

農家の大黒柱の2人が亡くなり、母と叔母、
そして長兄、次兄、私、そして妹の2人が残されたが、
農業の技量、大人の男手を失くしたので、
我家は没落しはじめた・・。


私はこの後、学校に行くと、担任の女の先生から、職員室に呼ばれた。

『XXくん、貴方のお父さん、お祖父さんも亡くなってしまい、
可哀想だか・・貴方、男の子でしょう・・
お母さんに心配させるようなことは・・分かっているわよね・・』
と私に云った。

そして
『男の子は、頑張るのよ・・』
と私に握手してくれた。


私は、その夏、短冊に書こうとしたが、少しためらっていた・・。

《 せんせい、あくしゅもいいけど、
         だきしめてほしい・・ 》


叔母や妹が短冊に何かしら綴っているので、
私は本心を書けなかった。
そして私はやむえず、

【 せいせいもげんきで
        ぼくもがんばります 】
と何とか読める汚い字で書いた。

短冊を吊るしている時、叔母が、
『どういうこと・・』
と私に云った。

『何でもない・・何となく・・』
と私は下を向きながら答えた。


私は小学生の時は、兄達は優等生で、
私はいじけた劣等生で可愛げもない児であったが、
齢を重ねた63歳の今、
それなりに苦くも懐かしい想いでとなっている。

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早くも『潮干狩り』のお便りを読み・・♪  《初出2008.3.8.》

2008-06-08 20:17:08 | 幼年・少年時代の想いで
東京郊外の調布市では、桜の咲くような陽気となり、
ときおり微風が吹けば、春風は甘く、心身恵まれた日中であった。

先程、読売新聞の夕刊を読んでいて、

【 春です 潮干狩り 】

と見出しがあり、記事を読んだりしていた。

記事に寄れば、千葉県・富津海岸に於いて、
東京湾の沿岸のトップで潮干狩り場がオープンした、
と報じられていた・・。

雲ひとつない青空の陽気の中で、若き母と幼児の女の子が、
殆ど風もない中、アサリを採る情景が写し出され、
お互いに微笑みながら、潮干狩りを楽しまれている写真が掲載されていた。


私は昭和33年の4月中旬頃、
中学一年になったばかりの時、学校で潮干狩りに行ったのが想いだされた・・。

あの頃は東京湾の晴海の付近から、木造の遊覧船に乗船し、
稲毛海岸の浜辺でアサリなどを採ったりしていた。

帰宅後、父の妹である叔母に、収穫した潮干狩りの成果を差し出し、
XXくん・・潮吹きが多いわね、
と洗い場で云われたりしていた。

私の幼児の頃は、祖父と父が中心と農家を営んでいたので、
大衆魚以外の魚、貝などは殆ど知らない方が多かったのである。

私は叔母に、やっぱりボクは《里っ子》だよね、
といい訳をしたりしていた。


私の住んでいる調布市では、
この頃までは殆ど平坦な地で田畑、雑木林が残っていた・・。

ある児童本の中のように、
本格的な山里の子供の《山彦》にもなれないし、
かといって海沿いに住む子供の《海彦》でもなかったので、
私は秘かな自分は《里彦》と命名をしたりしていた時であった。

このような思いの里彦を飛躍させ、自身を里っ子と呼んだりしていた。

煮魚、焼き魚は好きな食べ物であるが、
収穫した直接の魚の匂いは、幼児からの体験が少なく不馴れな私は、
齢を重ねた63歳になっても、少し苦手なのが本音でもある。


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幼年期、『ひな祭り』の想いで・・♪  《初出2008.3.2.》

2008-06-07 19:29:13 | 幼年・少年時代の想いで
私は昭和19年に東京郊外で、農家の三男坊として生を受けた。

祖父、父が中心となって、程ほどの広さの田畑を耕していた。

長兄、次兄の後に私は生まれきたが、
祖父、父が何かしら女の子を期待していたらしく、
私の後に生まれた妹を溺愛した。

幼年期の私はこうした情景を見たしていると、
期待されないように感じ取り、いじけた可愛げのない児であった。


早春の2月の下旬になると、母の実家から贈られたひな人形を
父が蔵から出してきて、母や未婚の叔母に手渡していた。

10畳の一角にひな壇を設け、ひな人形の五段飾りを設置し、
この前に桃の花、ひし形の白色、桃色、薄緑色のひし餅を置いたりしていた。

ひし餅は、父が餅米を精米所に持ち込んだ後、
我家で臼(うす)で餅にしたものであった。

そして桃の花は、宅地の外れにある陽当たり良い所に3分咲きを活(い)け、
何かしら華やぎ、かぐわしい香りがしていた。


こんな情景を私は、ぼんやりと眺めていたが、
華やかな桃の花、3色のひし餅、そして絢爛(けんらん)な17人の人形を見つめていた。

そして、私はため息を吐(つ)きながら、
『女の子はいいよなぁ・・皆に大事にされるから・・』
といじけた私は思ったりしていた。

そして、人形の中のひとつ、護衛のようになっている人形を見つめ、
あのように綺麗な格好でいられたらいいよなぁ、
と眺めたりしていた。

このような思いを抱いた後、櫻の咲いた頃、
私は小学校に入学した。


尚、『桃の節句』が終り、翌日になると母は五段飾りを撤去し、
蔵に仕舞う準備をしていた。

私はせっかく飾ったのだから、せめて櫻の咲く頃まで、
このままにして置けばよいのではないか、と幼年心に感じていた。



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『節分の日』豆まきの想いで・・♪   《初出2008.2.3.》

2008-06-05 14:30:18 | 幼年・少年時代の想いで
私は昭和19年に東京の郊外で農家の子として生を受けたが、
私の幼年時代の頃は、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。

神社といっても、村の住民で維持管理されている小さな神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。

それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を三割方入れ、
夕暮れになると、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。

私の住んでいた家から、少なくとも300メートルは離れていたが、
家の中で居ても充分に聴こえたのである。

『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。

『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に云ったりしていた。

我家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は戸締りが終わっていた。

夜の七時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって言っていた。

そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。

そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と叔母が私達に云った。

私は、7つだけか、と云いながら、
兄達の手には私より多くあったので、
おまけと云いながら、こっそりとふたつ余計にとった。

このような祖父、父達に囲まれて、楽しげな年であったが、
翌年の早春に父、晩春に祖父に死去され、我家は没落をしはじめた・・。



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初めて『都電』に乗った想いで・・♪  《初出2008.2.2.》

2008-06-05 14:22:40 | 幼年・少年時代の想いで
若い世代の人には、都電と綴ってもお解りにならないと思うが、
東京の都心で昭和30年代は路面電車が隈(くま)なく走っていた・・。


私が小学6年の昭和32年の時、
次兄から有楽町で洋画のロードショーを観に行こう、と誘われた。

私は最寄駅から新宿のデパートなどは行ったことがあったが、
乗り物に酔いやすい少年であった。

新宿まで京王線で30分前後で到着したが、
何となく気分が悪かったのである。

新宿より数寄屋橋まで都電を利用する為に乗車した。
電車賃は終点の築地まで乗っても、確か13円と記憶している。

都電は一両編成で、大通りを走ったが、
自動車も両脇に走って折、繁華街、ビル街が車窓から観え、
その上、都電は揺れるので、気分が悪くなった。

私は次兄に、
『まだ・・遠いいの・・』
と私は云った。

『もうちょっと・・我慢・・13円だから・・』
と次兄は云った。

一区間が13円で降りたら、もう1度支払う必要があると、
次兄から乗車前に聴いていた。

私は皇居のお堀が観えた頃、
『もう無理だから・・降りよう・・』
と私は次兄に懇願した。

結果として、目指した数寄屋橋のひとつ手前の日比谷で降りた。

私は青白い顔で次兄に謝(あやま)り、
とぼとぼとお堀端を歩き、数寄屋橋の映画館に到着した。

映画は『朝な夕なに』であったが、
綺麗な白人女性の教師とトランペットを吹く生徒が心に残った。

後年になると、私としては洋画の初めてのロードショーであり、
綺麗な女性はルート・ロイベリックで、
映画の主題歌は『真夜中のブルース』が流行した、
と判明した。


私は都電を観るたびに、苦手意識を持っていたが、
その後、高校の新宿から中野までの通学は都電を利用し、
この区間の沿線に美術短期大学、女子高校等が三校あり、
車内で数多くの綺麗なお姉さんに気を取られ、
乗り物酔いなどは忘れ去ってしまった。

私が卒業する頃は、この区間の都電は廃線となり、
地下鉄に変貌した。

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私が初めて文章を綴ったのは・・♪ 《初出2008.2.2.》

2008-06-05 14:20:15 | 幼年・少年時代の想いで
私は昭和19年に、東京の郊外の農家の三男坊と生を受けた。

初めて文字を書いたのは、小学校に入学したからだった・・。
この頃は、私の住む村では幼稚園が出来たのは、私が小学校3年頃だったと思う。

私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。

小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。

そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、今の時代で云うと粗雑な藁半紙で書かされたのである。

この頃に家にある本と云えば、
農協の発刊する『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
書棚に本が並んでいたを見たときは、
子供心でも眩暈(めまい)を感じたのである。

夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。

私が都心にある高校に入学してから、
突然に読書に目覚めて、高校二年の夏に小説の真似事の原稿用紙に習作をした。

東京オリンピックの直前に、私は大学を中退し、
映画青年、文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

確固たる根拠もなく、シナリオとか小説の習作していたが、
お彼岸に親戚の小父さんから、
『30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は自身のつたない才能に自信を失くした。

この後、大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年通った後、サラリーマンの一員となった。


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ボケ(木瓜)の花咲く頃の想いで・・♪  《初出2008.1.31.》

2008-06-05 13:59:55 | 幼年・少年時代の想いで
私は昭和19年に東京の郊外で、農家の三男坊として生を受けた。

幼年期のこの時節は、村道に面した門を入り、
雑木林の囲まれた玄関先までの小道の片側には、
サザンカのピンク、純白の花が新年より満開となり、
奥まった雑木の中で、ひときわ大きな紅色の藪椿(ヤブツバキ)が咲いてたりしていた。

節分が過ぎ、2月の中旬には、
宅地の外れの畑との境界線に10数本の白梅が咲きはじめ、
子供心に早春の陽射しを受けた白い花は、まばゆく感じたりしていた。

この時節になると、玄関先に近くなった陽当り良い所に、
3本の朱紅色の咲き始めたボケの樹木があった。

私はサザンカは可愛らしく、梅の花はまばゆく、
そしてボケの朱紅色は春到来、と何かしら華やかさを感じていたのである。

白梅より大きな朱紅色の花は、早春の陽射しの中で凛と咲き、
小枝には棘(トゲ)があったので、私はただ眺めているだけで満足していた。

やがて花が終りを告げると、10幾つかの小さな実となり、
そして初夏の頃には黄色い果実となっていた。

この果実は漬物の樽に入れた後、食べたと思われるが、
今の私は思い出さないでいる。

このようなことを想い浮かべていたら、
華やかな朱紅色のボケは、綺麗なものにはトゲがある、と古人から伝えられているので、
若き20代の女性かしら、と思ったりしている。

そして、サザンカは10代の清純な乙女で、
藪椿の美しさは、やはり40代以上の中年女性の妖艶なしぐさかしら、
と余計なことを考えたりしている。


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東京の郊外、雪の想いで・・♪   《初出2008.1.20.》

2008-06-05 12:32:34 | 幼年・少年時代の想いで
東京の郊外は、今宵の深夜に初雪が降る、
と報じられているが、
薄日のおだやかな陽射しが射しこんで折、
深夜に雪が舞い降りるのかしら、と空を見つめたりしている・・。

私は東京の郊外の調布市に住む身であり、
結婚の5年間前後は、川崎の登戸、千葉県の市川市に仮住まいをしたが、
ほぼ60年近く、この地の調布市の一角で住んでいる。

私の住む処は世田谷区と狛江市に隣接しているが、
昭和30年前後で大きく変貌したのである。


私は昭和19年に農家の三男坊と生を受け、
祖父と父が中心となって、程々広い田畑を小作人などの手助けもあって
農業を営(いとな)んでいた。

この頃は、京王線の最寄駅までは
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。

私の幼年期は、毎年、冬の時節になると
雪が30センチ前後が数回降ったのである。


昭和26年の春に私は小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、
この時は無視し、畑は雪に埋もれていたので、
この中を吹雪いていたが一直線で登校したのである。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅に正方形の1間幅の暖炉があった。
コークスはむろん、石炭も使用される前の時代であったので、
薪(まき)が燃やされていたのである。

私達は衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、
子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、番傘でチャンバラの真似事をし、
番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もったのである。


その後、都会の人達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した昭和32年であるが、この頃になるまで大きく変貌したのである。

東京オリンピックを過ぎた時代になると、数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、
この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。


私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると雪恋しい心情か、
北の地域に旅行し、雪の情景を享受している。





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