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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

その昔、小正月、そして20日正月・・♪    《初出2007.1.20.》

2008-05-08 14:03:50 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京の郊外に住んでいるが、私の幼年期の頃を想いだしていた・・。

昭和26年の頃は小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で程々の広さの田畑を耕作していた農家の子であった。

お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そしてどんと焼きをしていた。

田畑の外れに青竹を主柱として、稲の藁(わら)で高い塔のように作り上げ、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、
新年に彩った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つもつけた団子がこの燃え上がる火で焼いたりしていた。

このようなことを思い馳(はせ)たりしていた・・。

古人達は、20日正月と称していたので、先程調べていたら、
知識人・藤野邦夫・氏は次のように述べられていた。



『20日正月』とは、正月の祝い納めをし、1月15日の『小正月』の飾り物などを片付ける日のことである。
つまり、元旦から始まった正月が、完全に終結する日を意味して折、
雪に閉ざされて、余り仕事もないこの季節を、
少しでも明るく過ごそうととする心情がが、
このような制度を作りだしたのではないだろうか。

小正月も20日正月も、今では地方にしか見られない風習になっているが、
かっての小正月は、それなりに重要な新年の行事だったのだ。
15日の朝、一年の健康を願う『小豆(あずき)がゆ』を食べる風習が各地で見られたり、
豊作を願って木に『繭玉(まゆだま)』を飾ったり、
若者が鬼の面をかぶって蓑(ミノ)を着け、家々を訪問して、怠け者を探し廻る儀礼などが行われたものだった。

今でも15日に、火を燃やして正月の飾りや書き初めなどを焼く『左義長(さぎちょう)』や、
『ドンド焼き』を、盛大に行う地方が少なくないらしい。
この火にあたると、1年間、風邪を退かないと云われてきたのである。
こうしてみると、小正月は健康と豊作などを祈る儀式だった訳であり、
20日正月は、そのお終(しま)いの日だったのだろう。



以上、引用させて頂きました。


私は遠い昔のことは、忘れかけていた。
『小豆がゆ』も確かに頂いたこともあったし、
どんど焼も子供心にも風邪を退かないようにと、火に近づいたりした。

枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。


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ふるさとの錦繍の想いで・・♪    《初出2006.11.14.》

2008-05-05 21:43:29 | 幼年・少年時代の想いで
私の住んでいる調布市では、昭和30年頃までは、
晩秋になるとサクラ、モミジ、ドウタンツツジなどが朱色に染められ、
ケヤキ、イチョウ、ウメ、コナラ、クヌギ等が黄色の色合いとなっていた。

小学生の私は、知り合いの旧家の十軒のお宅を訪れたが、
殆どこの程度の樹木は数多くあった。
私の生まれた家の庭先でも、サクラ以外はこのような情景であった。

特に私は、コナラ、クヌギの樹木の四季のうつろいが好きで、
そしてサクラよりウメが好きであるので、
親戚の叔父さんから、変わった子だよねぇ、
と父に話していたのを微(かす)かに覚えている。
昭和27年の頃である。

今の時代は、公園など私のふるさとの樹木を見つけ、しばらくたたずんだりしている・・。

ナナカマドの朱色、そしてダテカンバの黄色に染め上げられるのは、
美しい日本の光景のひとつであるが、
残念ながら私のふるさとにはなかった。

私は北国を旅する時、ため息をして、これ等の樹木のうつろいを眺めたりしている。

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あの頃のハイカラな女性・・♪    《初出2006.8.26.》

2008-05-04 12:49:15 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学校に入る頃、ラジオから哀愁帯びたメロディーが聴こえてきた・・。


♪君に逢ううれしさの 胸に深く
 水色のハンカチを ひそめる習慣(ならわし)が

【 『水色のワルツ』 作詞・藤浦 洸 】


私は後年、『水色のワルツ』で作詞・藤浦 洸、作曲・高木東六、
そして二葉あき子が唄っていたと知るのだが、
6歳の幼年期の私は、都会のハイカラな若い女性を思い浮かべた。

私が10歳の頃になると、
映画館で三本立ての東映の時代劇を独りに観に行った。
この映画館は、2週間於きに上映する映画が変わっていた。

東映のチャンバラ映画を観ていたが、
この頃の映画館は、ニュース、次週に上映する予告編があり、
そして本編の三本の作品が上映していた。

この予告編に大映映画が上映していた。
京 マチ子、山本富士子は綺麗過ぎて遠い存在だったが、
若尾文子をはじめとする八潮悠子、川上康子、叶 順子のお姉さんには、
何故かしらドキドキした・・。

私は『水色のハンカチ』を聴くたびに、
都会のセンスの良い若き女性の恋心と
昭和29年から数年に於いて、大映映画の若き女優と想いを重ねてします。

そして白いワンピース、ツーピースのこだわりが、この頃から私は芽生えていた。

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されどラーメン・・♪    《初出2006.8.25.》

2008-05-04 12:44:50 | 幼年・少年時代の想いで
私が街中の中華そば屋でラーメンを食べたのは、
映画館に独りに観に行きはじめた小学4年であったので、昭和29年の頃である。

よく通った映画館の帰り、胡椒と香(かぐわ)しいスープの香り、
そして中華麺に魅せられて、良く食べたりした。
確か値段は35円であった。

日常、家で食べる麺は、お蕎麦、素麺、冷麦、うどん等であったので、
異国情緒的な食べ物として、私は魅せられた。


その後、サラリーマンとなった25歳過ぎでも、
晩秋から春先にときたま食べたりしている。

私が食べるラーメンは、醤油ベースのチャーシューメンである。
味噌味、塩味等は、家内は食べられるが、私は醤油味にこだわる。

家でインスタント・ラーメンを食べる時は、
家内が事前に豚肉を買い、ゆで豚にした後、大蒜(ニンニク)漬けにチャーシューを作ってくれる。

スーパーで売っている極く普通のインスタント・ラーメンと添付しているタレで作っているが、
私の場合はプラスこのチャーシューを5切れのせて、胡椒を多めにかけて、頂いている。

冬の寒い時、チャーシューに沁みた大蒜の濃厚な味がスープに溶け込み、
私なりの絶妙な味となる。

雪が降っている時、ときには昼食として最適と思っている。
食べ終わった時、身体が温かくなる不思議な食べ物である。

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『ラジオ体操』の想いで・・♪   《初出2006.8.17.》

2008-05-04 09:45:17 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学生の夏休みになると、近くのお寺の境内でラジオ体操が行われていた。
多分、集合時間は、朝の7時だった、と思う。

NHKの『ラジオ体操』が流れると、近所の小学生達の前で、
6年生の班長が少し高い台でお手本のように始め、
小学生達はそれに習って続く。

小学生達は家を出る時に、必ず所定の出欠カードを持って行き、
班長から体操が終わると、出席のマークをカードに押して貰っていた。

私の長兄、次兄は優等生であったので、6年になると、班長に選ばれた。

三男の私は、いじけた劣等性であったので、6年の夏、班長に選ばれる確率は少なかった。
結果として、班長は私となり、この年から何故かしら副班長が設けられ、
お寺の娘の同級生が選ばれた。

この夏、私は照れながら、小学生達の出席マークを押した。

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百日紅(サルスベリ)の花の想いで・・♪   《初出2006.7.29.》

2008-05-03 11:32:16 | 幼年・少年時代の想いで
私の住む街は、百日紅の淡い紅色の花をよく見かける。

我が家ではないが、実家にはある。

私の幼年期、大きな百日紅の樹木があり、木登りの遊びで私はしがみついて登ったりした。
叔母たちに、滑る樹だからね、とたびたび言われたりした。
柿の樹は、ボキッと折れるからね、とも言われた。

百日紅の花は、7月の初めの頃から、9月の終りの頃まで、
宅地の外れを彩ってくれた。

私の幼年期の夏は、蓮の純白の花、
鉄砲百合(テッポウユリ)の白い花が好きで、
向日葵(ヒマワリ)の花には見向きもしなかった。

小学幼年期の夏休み、百日紅の淡い紅色の花が、
私を見守ってくれた。

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通信簿の想いで・・♪    《初出2006.7.20.》

2008-05-02 23:36:10 | 幼年・少年時代の想いで
私の幼年期の頃の夏休みは、確か7月21日から8月の月末までであった。

20日の日は一学期の終業式があり、
通信簿が担任の先生から手渡された。

長兄、次兄、妹の2人は、優等生であり、『5』と『4』が多く、『3』はわずかだった。

私は『3』と『2』が多く、『4』は2つばかりだった。

終業式を終えた帰り道、廻り道をしながら帰った。
祖父、父は、小学3年の夏は既に他界していたので、
母と未婚の叔母に通信簿を見せたが、次兄の通信簿を盗み見していた。

いじけた劣等生で心も屈折していたので、期待されない独りであった。

小学、中学生を過ぎて、私が本格的な勉強の面白さを感じたは、
高校になってからである。

後年、私がレコード会社に勤め、コンピューターの専任担当者となった時、
兄と妹が驚いていた。
母は笑っていた・・。


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白いユリの想いで・・♪   《初出2006.7.17.》

2008-05-02 23:12:13 | 幼年・少年時代の想いで
先程、夏の草花の本を於いて、
テッポウユリの白い花が掲載されているのを見ていて、幼年期の頃が想い出された。

小学二年生の初夏の頃、昭和27年だった。
祖父と父が亡くなる1年前だった。
農家であったので、宅地の外れの畑との境界に草花を十坪ほど植えてあった。

この頃のある程度の農家は、仏壇、お墓に飾る花は、殆どその家の草花でまかなわれていた。
この夏の季節になると、ダリヤ、グラジオラス、カンナ、ホウセンカ、ケイトウ、ヒマワリ等があり、
そして橙色のスカシユリと白のテッポウユリがあった。

東京の郊外でどの家でも咲く花であった。

私は花の好きな叔母に教えられて、球根を並べてたりした。

ユリに関しては、橙色の花は何となく野暮ったい感じがして、
白い花は上品な感じがしていた。

小学四年を過ぎた頃、祖父、父が亡くなった後、
男手を失った農家は衰退となり、子供でも貧乏になったと実感し、何かと屈折したりしていた。

母方の実家の叔母が来宅した時、
都会の裕福なお方の人であったので、子供の私さえ、気後れしていた。
このお方は、未婚の女子大の四年生だった。

レースのついた日傘、水色のツーピース、ハイヒール・・私には眩(まぶ)しかった。

私は母の許しを貰らった後、
このお方のお土産として白いユリを五本切って、
母に包んでもらった。

この花だったら、都会の上品に通用する、と私は思っていた・・。

私は二十歳を迎えるまで、都会に対しては羨望と気後れが何かとあった。

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短期大学生は、短気な人・・?!    《初出2006.7.15.》

2008-05-02 21:58:57 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学二年で、昭和27年の晩秋の時だった。

通学の途中、遠い親戚のお姉さんに逢い、駅前まで一緒に行くことになった。

お姉さんは、スカーフを首に巻きつけて、
ワンピース、そしてハイヒールを履いて、
子供心に《かっこいいお姉さん・・》と感じた。

『お姉さん・・XX短期大学の二年生になったのょ・・』
と言った。

『ほんとぉ・・』
と私は答えた。

駅前でお姉さんと別れ、小学校の校門に向かった時、
《お姉さん・・短気な人に見えねぇ・・
けど・・女の人って・・分からないょ・・》
と私はつぶやいた。



☆このサイトに昨年の一月に投稿した原文を加筆した☆

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湧き水の想いで・・♪    《初出2006.7.14.》

2008-05-02 21:52:51 | 幼年・少年時代の想いで
東京の郊外の私の住む周辺には、昭和30年の頃までは湧き水が見られた。

昭和28年に父,祖父が亡くなるまでは、農家をしており、程ほど広い田畑を耕していた。
田圃(たんぼ)の一帯の脇に蓮専用の田圃があり、
その付近に湧き水があった。

湧き水の周囲は、いつも小奇麗に手入れがされており、ミソハギが植えられていた。

夏のお盆になると、仏間の仏壇は閉じられ、
位牌等が座敷の一角に、四方を竹で囲み、真新しい茣蓙(ござ)の上に移行されて、
蓮の花、淡いピンクの咲いたミソハギが飾られていた。

私は湧き水を観るのが好きだった。
春の季節であっても、冬の時節に於いても
淡々と湧き出る水を不思議そうに眺め、飽きることがなかった。


小学五年生の頃、下校の途中で廻り道をしている時、
雑木林の斜面を下り立った処に池があり、その端に湧き水があった。
この家の主人と思われる老人が池を眺めていた。
私がときたま通る時、よく見かけていた・・。

『池のある処の・・お爺さん・・いつも難しそうな顔しているなぁ・・』
と私は友達に話したりしていた。

後年、私が高校に入学し、小説を読みはじめた頃、
本の中に、このお爺さんの写真があり、
武者小路実篤、と付記されていたのには、
私は驚いていたりした。


私が結婚した後、家内と湧き水を観に旅行をしたりした。
富士山の伏流水が湧き出る三島郊外の柿田川、
或いは忍野八海の湧き水を観に行ったりした。

三島市の近くにある国道一号の脇の湧き水は、
壮大な眺めであったが、馴染めなかった。

伊豆地方の湯島に宿泊した時、湯ヶ島にある山葵(わさび)が植えられている処があり、
杉木立の斜面の外れに湧き水があった。
小さな湧き水が四箇所あり、淡々と湧き出て、小川となっていた。

私は小さな湧き水が好きであり、
私の小学低学年に観た実家の湧き水を思い出し、
心のふるさとを求めているのかしらと思ったりしている。




☆このサイトに昨年の5月に投稿した原文を大幅に加筆した☆

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トマトの想いで・・♪    《初出2006.7.13.》

2008-05-02 21:21:42 | 幼年・少年時代の想いで
ここ一ヶ月、スーバー・マーケットの果物売り場、八百屋でトマトを見たりしている。

はじめの頃は、熊本県産が多かったが、日増しに千葉県産などがあり、
この2週間に於いては東京の郊外産が見かけるようになっている。

先程、冷蔵庫で冷やしたトマトを食べていたら、小学生の頃を想いだした・・。


昭和26年の春に私は小学校に入学したが、
この当時は実家は祖父と父が中心となって農家をしていた。

初夏の頃になると、茄子(ナス)、胡瓜(キュウリ)、トマト等を収穫し、
夏になると西瓜(スイカ)、瓜(ウリ)等を青果市場に出荷していた。

茄子、胡瓜、トマト等は早朝から畑で選定し、収穫した後、
7時過ぎに父は青果市場にリヤカーに乗せて行っていた。

家では形の悪いもの、大き過ぎたもの、熟れ過ぎた品を食べたりしたが、
胡瓜とトマトは井戸水につけて置いて、
午後の3時過ぎに空腹になった私はトマトを噛(かじ)ったりしていた・・。

朝の登校する8時過ぎに、遠い親戚の叔父さんの畑の細道を歩いていたが、
トマト畑の支柱にたわわになっているトマトを眺めながら、
ひとつ採ったりした・・。

消毒の白さと朝露を服で拭いながら、噛り付いたりした・・。
適当に熟れたトマトは収穫済みだったので、
明日頃に熟れるトマトを選んだりしていたが、青味が少し残っていた。


後年、私の結婚披露宴の時、この叔父さんに来て頂いた時、
何気なしに私は小父さんにこのトマトを話題にした。

『叔父さんの畑で・・
小学校の頃、よくトマトを盗んで頂きました・・』
と私は言った。

『あの頃の子供・・皆そうだったょ・・』
と笑いながら小父さんは言った。


私が先日買い求めたトマトは、ひとつ百円であったが、
家内用は熟れたつややかな色合いの品を選び、
何故かしら私が食べる品は、
少し青味がかった熟れる寸前の色合いを選んでいる。

私の住む処の周辺は、
東京オリンピックの前頃に田畑は無くなり、住宅街となっている。

あの頃は・・と私は想い出している・・。


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七夕(たなばた)の想いで・・♪    《初出2006.7.7.》

2008-05-02 13:24:01 | 幼年・少年時代の想いで
私が小学生の頃まで、自宅の庭の隅に竹に短冊を吊るす慣わしだった。

孟宗竹の今年成長した5メートル前後の若竹を一本伐って、
杭を打ち、安定させていた。
叔母が嫁ぐ前だったので、お正月の小倉百人一首と同様に、
叔母の指導の下で飾りだてをした。


私が小学2年の時、父に死去され、3年生の5月に祖父が亡くなった。

私はこの後、学校に行くと、担任の女の先生から、職員室に呼ばれた。

『XXくん、貴方のお父さん、お祖父さんも亡くなってしまい、
可哀想だか・・貴方、男の子でしょう・・
お母さんに心配させるようなことは・・分かっているわよね・・』
と私に言った。

そして
『男の子は、頑張るのよ・・』
と私に握手してくれた。

私は、その夏、短冊に書こうとしたがためらった。
《せんせい、あくしゅもいいけど、
         だきしめてほしい・・》


叔母や妹が短冊に何かしら綴っているので、
私は本心を書けなかった。
そして私はやむえず、

【せいせいもげんきで
        ぼくもがんばります】
と書いた。

短冊を吊るしている時、叔母が、
『どういうこと・・』
と私に言った。

『何でもない・・何となく・・』
と私は答えた。


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『百人一首』の想いで・・♪   《初出2006.5.28.》

2008-04-30 09:59:18 | 幼年・少年時代の想いで
昨日、『百人一首の日』であったので、
久々に小倉百人一首を読み、味わったりした・・。

この日に制定された由来を調べていたら、
知識人・藤野邦夫・氏の解説が解りやすいので、引用させて頂きます。



『百人一首』とは、普通は『小倉百人一首』のことをさし、
平安時代末期から鎌倉時代初期(13世紀)にかけて活動した歌人・藤原定家が、
100人の歌人の和歌を一首ずつ選びだした『秀歌選』が基になっている。

定家が残した日記『明月記』の1235年(文暦2年)5月27日の箇所には、
依頼を受けて「嵯峨中院山荘」の障子にはるため、
天智天皇から藤原家隆と藤原雅経にいたる歌人の歌を、
色紙に書いて贈ったと書かれており、
これが百人一首の成立の基になったわけである。

つまり小倉百人一首は、奈良時代(8世紀)から鎌倉時代初期の歌人の優れた作品を、
平安時代(9~12世紀)を中心に選んだものであり、
これが【小倉】と付くのは、定家が後に自分の「嵯峨小倉山荘」用に、
書き直したからだといわれている。

内容別では、恋の歌が1番多く43首、ついでに四季の歌が32首。
性別では男性が79人で、女性は21人となっている。

17世紀に始まる江戸時代には、
若い女性の古典入門書として普及し、『小倉百人一首かるた』も登場。
元禄時代(1688年~1704年)から、今のような『かるたとり』も始まって、
多くの日本人に長く親しまれてきた。



以上、引用させて頂きました。


私の小学生の時、お正月のひととき、叔母と兄達とで《かるたとり》をした。
意味も解らず、特有な読み方に耳を傾けていた。
7枚前後、取れればよい方だった。


私は、24歳の頃、和歌を知る為に一冊の本を購入した。

田中初夫、伊藤秀文の両氏による『小倉百人一首 味わい方と取り方』を読んだりした。
和歌を知る為に、奈良時代から鎌倉初期の代表的な和歌が『小倉百人一首』に、
集約されていた理由からであった。

昨日、再読していたが、24歳の頃に視(み)えなかった和歌が多いのに、
私自身驚きを禁じえなかった。

優雅な情趣の基調の中、人生の心の屈折、四季の移ろい、妖艶な女人の心身の移ろい等が、
私の若い時には、ほんの少ししか解らなかった、というのが実情であった。

齢を重ねた今でも、解らない事も数多くあるが、
千年の時が流れた今さえ、燦然と心に沁みる歌は、
私の心の慰めのひとつである。

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タケノコ、されど筍(たけのこ)・・♪   《初出2006.5.6.》

2008-04-29 17:40:38 | 幼年・少年時代の想いで
   第一章

以前、筍については、私はたびたび綴ってきた。

私の幼少の頃、竹林があり、青果市場に出荷していたので、
鮮明な思い出とこだわりがある。

地上から5cm以上、芽を出し伸びたものは筍じゃない、ということである。

私が大学入学後、ある体育系の部に所属した時、
同期の方が福井県、福岡県の友がいた。

このような話をしたら、半信半疑の目付きをされたので、困っていた。

私の新婚旅行の時、京都の筍の売り場を観た時、
15センチの高さ、根回りが5センチが3月末に売られていた。

私の実家では、少なくとも30センチ、根回りが10センチ以上が基準値であったので、
これが筍かょ、と感じた。

このような思いがあり、地方のお方は理解してくれるかしら、
と思い続けていた。

幸いにして、昨日の読売新聞で私の証言に近い記事があったので、
嬉しく感じ、記事を精読した。

      
     
   第二章

昨日の読売新聞の中、【彩事記】が随時掲載をされているが、
榊原智子・女史が綴られた記事を無断引用させて頂きます。


・・今春は寒い日が多かったため、タケノコが生えてくるのが、
例年より遅くなった。
一番手の孟宗竹は、関東では4月下旬から頭を出し始め、
首都圏のタケノコ園ではこの連休に、
タケノコ狩りのピークを迎えているという。

タケノコの産地といえば鹿児島、京都、静岡などの暖かい地方が知られている。
中でも京都産は軟らかく味のよさで有名だが、
実は東京も、戦前まで京都と並ぶタケノコの産地だった。

とりわけ『目黒のタケノコ』は、知る人ぞ知る名産だった。
目黒区守屋教育会館・郷土資料室によると、
京都では土や肥料をふわりとかけて、軟らかいタケノコを育てるのに対し、
目黒では根っこのあたりまで深く掘り、肥料を加えては固く戻したという。
この作業を数回繰り返す独自の栽培法で、身が締まり、味のいいタケノコを作っていた。

これが《初物好き》の江戸っ子の間で人気となり、
値段が高騰したため、質素倹約を求めた天保の改革(1841~43年)では、
『早い時期の掘り出しはダメ』と禁制まで敷かれたという。

それほど盛んに栽培されたタケノコだが、
関東大震災の後に郊外に広がった宅地開発や、
高度経済成長期の都市の拡大で、タケノコ畑はじりじりと減少。

・・(略)・・



以上、引用させて頂きました。


東京の郊外の私の実家でも、程々にひろい田畑を耕していた農家は、
竹林を保持し、筍を青果市場に出荷していた。
竹になったのは、竹細工の業者が買いに求めに来た、記憶が残っている。

目黒方式と違うのは、秋になり、根が浅くなったのを、
最低50センチ前後、深く掘り、枯れた竹の葉、肥料を施して、地中に埋めた。

地上は生育した竹以外は黒土1色で、冬を越え、春の4月頃に地割れを見つけ、
専用のスコップで掘り出した。

この間は、子供は竹林に入ることは、足跡、靴跡が残るので、厳禁となっていた。

芽が地面より5センチ以上になったものは、柔らか味が薄れるので、
買取価格が安くなり、家庭で食べたりしていた。

特にこれ以上伸びた筍は、竹の皮が黒ずみ、
子供の私さえ、カラスと呼び馬鹿にしていた。

東京の郊外は、地中でいかに大きく育てあげるかが鉄則であった。



   第三章

東京の郊外は、東京オリンピック以前にどの家も筍の青果市場への出荷は終えた・・。

わずかに竹林はあるが、かつてのような手入れがされず、
ただ伸ばし放題の竹林が残っている。

このような形の竹林は、まだ私が小学生の頃、
付近の崖に面した傾斜地に著名な小説家の邸宅があった。

傾斜に竹林が密集し、下方に池があった。

私は小学3年ぐらいの時、下校の時に遠廻りし、この脇道を通った時に、
この小説家が難しい顔して池を見詰めていた。

『あれが芸術家かょ・・難しい顔しているが・・
竹は生え放題・・孟宗竹のこと解っていないなぁ』
と子供心に内心呟(つぶや)いた・・。

私は筍を出荷した竹林は、ある程度に間引いた上、黒土の1色で春になると、
筍が出やすい状況のこだわりがあった。

孟宗竹が密集し、その間から筍が出てきて、
地上から10センチ以上に成育した時に、収穫するのは邪道と思っている。

こんな思いもあるが、
実家でもわずかに残した手入れが行き届かない竹林から、
毎年10本前後生えてくる。

子供の頃、カラスと馬鹿にしたのを実家から、毎年頂いている。

かってのような整備された孟宗竹の群生を旅行先で見かけると、
私は少し涙ぐんで、立ちすくんだりしている・・。

            
            《終り》

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お茶を摘む頃に・・♪   《初出2006.5.2.》

2008-04-29 15:08:58 | 幼年・少年時代の想いで
遠い昔、昭和26年の頃だった。

祖父と父が中心となって農家をしていたので、
東京の郊外でも程ほど広い田畑を耕していた農家でも、
お茶の樹を持ち、自宅用にまかなっていた。

母屋、蔵、納戸小屋の2軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風用に欅(けやき)が50数本があった。
2間ほどの間隔で植えられて折、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅が互いに寄り添うにになると、片方を伐採して、薪(まき)とされた。

その先は平坦な地で陽当りが良く、苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。

この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は4尺、高さは5尺程度で、50間前後の長さであった。

5月の初旬の頃になると、新芽を摘んでいた。
一家総出で、分家された人々も手伝いに来てくれた。
私が幼児の3歳の頃は、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、寝そべっていた、
と後年に母から教えてもらっている。

新芽を摘んだ後、生葉撰り(なまはより)といって、
お茶の葉から混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉を新鮮なうちに、蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。
そして、長方形の大きな台の上に炭火をおこし、
その上に鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉んでいた・・。

煎茶として出来た後、大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、家族が1年で使ったり、来宅した方の1部の方に差し上げたりしていた。
最もこの選別は、祖父の一言によった。

私は幼児の頃、いじけていたので、いたずらをして、父からよく怒られた。
祖父は、長兄、次兄に続き、私も男の子であったので、
不憫と思ったらしく、祖父の名から一字を私の名前にしてくれた。

祖父からは、可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。

私は、成人してから、煎茶を淹れる時、
ときたま祖父を想いだされる・・。


注)昨年の5月2日に、私の別ブログ【続・極楽とんぼ】に投稿した綴りに、加筆しました。

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