私は東京の郊外に住んでいるが、私の幼年期の頃を想いだしていた・・。
昭和26年の頃は小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で程々の広さの田畑を耕作していた農家の子であった。
お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そしてどんと焼きをしていた。
田畑の外れに青竹を主柱として、稲の藁(わら)で高い塔のように作り上げ、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、
新年に彩った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つもつけた団子がこの燃え上がる火で焼いたりしていた。
このようなことを思い馳(はせ)たりしていた・・。
古人達は、20日正月と称していたので、先程調べていたら、
知識人・藤野邦夫・氏は次のように述べられていた。
【
『20日正月』とは、正月の祝い納めをし、1月15日の『小正月』の飾り物などを片付ける日のことである。
つまり、元旦から始まった正月が、完全に終結する日を意味して折、
雪に閉ざされて、余り仕事もないこの季節を、
少しでも明るく過ごそうととする心情がが、
このような制度を作りだしたのではないだろうか。
小正月も20日正月も、今では地方にしか見られない風習になっているが、
かっての小正月は、それなりに重要な新年の行事だったのだ。
15日の朝、一年の健康を願う『小豆(あずき)がゆ』を食べる風習が各地で見られたり、
豊作を願って木に『繭玉(まゆだま)』を飾ったり、
若者が鬼の面をかぶって蓑(ミノ)を着け、家々を訪問して、怠け者を探し廻る儀礼などが行われたものだった。
今でも15日に、火を燃やして正月の飾りや書き初めなどを焼く『左義長(さぎちょう)』や、
『ドンド焼き』を、盛大に行う地方が少なくないらしい。
この火にあたると、1年間、風邪を退かないと云われてきたのである。
こうしてみると、小正月は健康と豊作などを祈る儀式だった訳であり、
20日正月は、そのお終(しま)いの日だったのだろう。
】
以上、引用させて頂きました。
私は遠い昔のことは、忘れかけていた。
『小豆がゆ』も確かに頂いたこともあったし、
どんど焼も子供心にも風邪を退かないようにと、火に近づいたりした。
枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。
昭和26年の頃は小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で程々の広さの田畑を耕作していた農家の子であった。
お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そしてどんと焼きをしていた。
田畑の外れに青竹を主柱として、稲の藁(わら)で高い塔のように作り上げ、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、
新年に彩った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つもつけた団子がこの燃え上がる火で焼いたりしていた。
このようなことを思い馳(はせ)たりしていた・・。
古人達は、20日正月と称していたので、先程調べていたら、
知識人・藤野邦夫・氏は次のように述べられていた。
【
『20日正月』とは、正月の祝い納めをし、1月15日の『小正月』の飾り物などを片付ける日のことである。
つまり、元旦から始まった正月が、完全に終結する日を意味して折、
雪に閉ざされて、余り仕事もないこの季節を、
少しでも明るく過ごそうととする心情がが、
このような制度を作りだしたのではないだろうか。
小正月も20日正月も、今では地方にしか見られない風習になっているが、
かっての小正月は、それなりに重要な新年の行事だったのだ。
15日の朝、一年の健康を願う『小豆(あずき)がゆ』を食べる風習が各地で見られたり、
豊作を願って木に『繭玉(まゆだま)』を飾ったり、
若者が鬼の面をかぶって蓑(ミノ)を着け、家々を訪問して、怠け者を探し廻る儀礼などが行われたものだった。
今でも15日に、火を燃やして正月の飾りや書き初めなどを焼く『左義長(さぎちょう)』や、
『ドンド焼き』を、盛大に行う地方が少なくないらしい。
この火にあたると、1年間、風邪を退かないと云われてきたのである。
こうしてみると、小正月は健康と豊作などを祈る儀式だった訳であり、
20日正月は、そのお終(しま)いの日だったのだろう。
】
以上、引用させて頂きました。
私は遠い昔のことは、忘れかけていた。
『小豆がゆ』も確かに頂いたこともあったし、
どんど焼も子供心にも風邪を退かないようにと、火に近づいたりした。
枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。