夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

あの頃の9月27日に生を受けて・・♪  《初出2007.9.27.》

2008-05-31 13:18:03 | 幼年・少年時代の想いで
私は昭和19年に、東京の郊外の調布市で生を受けた・・。

農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。

敗戦の大戦の一年前の頃であるので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居はもとより、
親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。

北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた崖の雑木林に防空壕に避難した、
と話していた。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人での足らない折は小作人の人々の手も借りていたので、
空襲警報が発令されると、とりあえず大きな防空壕に避難されたらしいので、
慌しい時代でもあった。

私のような乳児をかかえ、おしめの取れない時期であったので、
何かと家族の方達は大変だっただろう、
と思い返したりしている。

後年の小学三年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台が数多く見受けられた。

米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。

この頃までは、学校の帰路に寄り道をすると、
防空壕がよく見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

私は二十歳の誕生日に大学中退を決意し、
父が私が小学2年の時の42歳の厄年に病死したので、
何とかこの歳までは元気でいる責務がある、
と秘かに思っていた。

父の歳を乗り越えると、せめて定年退職後の10年は五体満足が生かして欲しい、
と念願したのであった。

満63歳になった今、
70歳までは大病することなしに、自在な日々で過ごしたく、
これ以降は天上の神々の采配によるので、余生と思っている。

敗戦の一年前頃に生を受けたせいか、
或いはこれまで歩んできた歳月を肯定したいのか、
最近はとみに昭和の時代に愛惜を深めたりしている。



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