私は昭和19年に、東京の郊外の調布市で生を受けた・・。
農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居はもとより、
親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。
北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた崖の雑木林に防空壕に避難した、
と話していた。
祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人での足らない折は小作人の人々の手も借りていたので、
空襲警報が発令されると、とりあえず大きな防空壕に避難されたらしいので、
慌しい時代でもあった。
私のような乳児をかかえ、おしめの取れない時期であったので、
何かと家族の方達は大変だっただろう、
と思い返したりしている。
後年の小学三年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台が数多く見受けられた。
米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。
この頃までは、学校の帰路に寄り道をすると、
防空壕がよく見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。
私は二十歳の誕生日に大学中退を決意し、
父が私が小学2年の時の42歳の厄年に病死したので、
何とかこの歳までは元気でいる責務がある、
と秘かに思っていた。
父の歳を乗り越えると、せめて定年退職後の10年は五体満足が生かして欲しい、
と念願したのであった。
満63歳になった今、
70歳までは大病することなしに、自在な日々で過ごしたく、
これ以降は天上の神々の采配によるので、余生と思っている。
敗戦の一年前頃に生を受けたせいか、
或いはこれまで歩んできた歳月を肯定したいのか、
最近はとみに昭和の時代に愛惜を深めたりしている。
農家の子として、長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊となる。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、
後年になると祖父、父、母、叔母の同居はもとより、
親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰った。
北に飛行機を製造する中島工場、
西に軍事物資を生産する東京重機が数キロ先にあったので、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた崖の雑木林に防空壕に避難した、
と話していた。
祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人での足らない折は小作人の人々の手も借りていたので、
空襲警報が発令されると、とりあえず大きな防空壕に避難されたらしいので、
慌しい時代でもあった。
私のような乳児をかかえ、おしめの取れない時期であったので、
何かと家族の方達は大変だっただろう、
と思い返したりしている。
後年の小学三年生の頃になると、
図画の授業で先生に引率されて、近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台が数多く見受けられた。
米軍の飛行機の来襲に備えて、造られた形跡であった。
この頃までは、学校の帰路に寄り道をすると、
防空壕がよく見受けられたり、
実家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。
私は二十歳の誕生日に大学中退を決意し、
父が私が小学2年の時の42歳の厄年に病死したので、
何とかこの歳までは元気でいる責務がある、
と秘かに思っていた。
父の歳を乗り越えると、せめて定年退職後の10年は五体満足が生かして欲しい、
と念願したのであった。
満63歳になった今、
70歳までは大病することなしに、自在な日々で過ごしたく、
これ以降は天上の神々の采配によるので、余生と思っている。
敗戦の一年前頃に生を受けたせいか、
或いはこれまで歩んできた歳月を肯定したいのか、
最近はとみに昭和の時代に愛惜を深めたりしている。