伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

一寸の虫 3

2020年02月15日 | エッセー

 野村克也という存在の奇観は、常に長嶋・王のアンチテーゼであり続けてきたことだ。あちらはヒマワリ、こちらは月見草だと。選手、監督両時代を通じて、それは比類なき大輪の月見草であった。

 さらに、キーワードは2つ。「頭」と「人」である。

 「野球は頭のスポーツ」は球界史に残る箴言である。振り返れば、06年3月に拙稿『野球大発見』で愚案した「野球はスポーツの将棋だ」が甦る。訃報に接した時、たまたま読んでいた『プロ野球 堕落論』(奇しくも絶筆となった)でも原監督のパフォーマンス野球を扱き下ろしていた。宜なるかなである。同著の「おわりに」にはこう綴られている。

〈野球界の未来が心配だ。若い選手諸君、スマートフォンばかり見ていないで、移動時、あるいはホテルで本を読もう。自分の言葉を持とう。野球のプレーについて、少しずつでもいいから自分の言葉でメモを取ろう。野球について、考えよう。それは君の未来に野球界に残るにしても、一般社会に出るにしても、必ず役に立つはずだ。そして私たち世代からの遺産を、次世代に伝えてほしい。
2019年9月吉日
野村克也〉

 この世に留め置く言の葉も、また「頭の野球」であった。

 「人」とは小早川を筆頭に「野村再生工場」と呼ばしめた絶妙な蘇生の手腕である。加えて古田をはじめ後進の育成。「人間何を残すか。人を残すのが一番」──これもまた特筆すべき金言であろう。自分が輝くだけでは人材とは呼べない。人材を育てる人こそが人材である。オレがオレがの世の中への警鐘でもある。

 おそらく、あちらでもノムさんはぼやいているだろう。だがノムさんのそれは不遇を託っているのではない。俯瞰的視座から自己を韜晦し、返す刀で相手の急所に斬り込んでいるのだ。際立った知的パフォーマンスといえる。あちらでは誰がカモか。想像が刺激される。

 ともあれ御冥福を祈るのみ。 合掌 □