伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ナイツがナイス、ベリーナイス!

2019年11月24日 | エッセー
 先々月のこと、ナイツの塙宣之が書いた『言い訳』、副題『関東芸人はなぜM―1で勝てないのか』を一読して少なからず落胆した。具体例を挙げつつ関東と関西のお笑い芸を比較し論じているのは大いに評価できた。だが、本稿で何度も触れてきた芸人の出自たる遊治郎の悲哀と近ごろの分を超えた跳梁については言及がなかった。そこが食い足りなかったのだ。しかし、今回は違った。朝日新聞のオピニオン欄『耕論』に登場して語ったことが実に我が意を得たからだ。
 「闇営業やら所得隠しやら、今年は黒い話題が目立ったお笑い業界。だがテレビでは司会やバラエティーなど、相変わらず芸人の万能ぶりが目立つ。このまま笑い続けてもいいの?」との問いかけに応じて話は始まった。
 大阪の漫才はサッカーで言うならブラジルだという。土着の度がてんで異なる。その上で、こう語る。
〈関西、関東に関係なく、今はお笑い芸人という存在が世間に定着して、影響力もすごくある。だから芸人を崇拝するというか、有識者扱いするような面がある。逆に少しでも問題発言をすると批判が集中するんでしょうね。もともと芸人なんかダメなやつがなるんだから崇拝するほうがおかしいんですけど。〉(今月23日の上掲記事より)
 「芸人を有識者扱いする」とはズバリではないか。職業に貴賤はないが立ち位置はあるだろうというのが稿者の持論である。庶民の代表面(ヅラ)して浅薄な知識で感覚的な与太を飛ばす。「分を超えた跳梁」である。某興業ならコストは安く付く。目先も変わる。TV局の都合が茶の間を左右する。ニュースショーは要注意だ。
 「もともと芸人なんかダメなやつがなる」も直球ど真ん中、ストライクだ。自虐だとしても芸人のトポスを正確に捉えている。改めて吉本隆明の深慮を引く。『情況』から。
〈芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、自分が遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。〉
 目を瞠ったのは次の展開だ。
〈闇営業や所得隠しなど今年起きたさまざまな事件は、お笑い界に師弟関係がなくなったことが一因ではないでしょうか。素人が養成学校で育つ時代になり、多くの芸人が輩出されるようになった一方で、厳しく叱られる経験もなく有名になってしまう。厳しく叱咤するけれど、いざとなったらケツをふいてくれる、芸事にはそんな師匠の存在が必要だと思います。その厳しさをパワハラとはき違えてはいけないと思うんです。歌舞伎や落語など古くから続いている芸事には、必ず師弟関係があります。お笑いでもたけしさん、さんまさん、鶴瓶師匠など長く活躍する人には師匠がいる。〉
 これは出色の見解である。深みと高みを併せ持つ論攷である。「一因」とはいうが、根因であろう。かつ当今の社会に並(ナ)べて欠落しているものもそれであろう。内田 樹氏の炯眼を参照しよう。
〈今や最も希薄になった人間関係って、主従関係と師弟関係じゃないかと思うんです。圧倒的な上位者に全幅の信頼を寄せて、まるごと身を委ねるというタイプの人間関係は、近代市民社会における契約関係とは異質なものです。主従も師弟関係も契約関係ではない。主君と臣下、師匠と弟子の関係は、対等な人間同士ではありません。非対称的な関係は市民社会とは食い合わせが悪い。ですから、市民社会内部にだんだん居場所がなくなってしまった。でも、全部が全部対等な個人間の契約関係になってしまうと、共同体の存続にかかわるような枢要な知恵や技術の継承ができない。それが現代社会の危機の実相ではないかというのが僕の仮説なんです。〉(『街場の共同体論』より抄録)
 塙君、ナイツ、いやナイスだ。
 「厳しく叱られる経験」から、さらに深掘りしたい。内田 樹氏は師匠とは「幻想」であるという。
〈師というのは、弟子がその人の弟子になった瞬間に結像する「幻想」である。ラーメン道を進むことを止めた若者にとってサノはただの「底意地の悪い親父」にすぎない。師は弟子のポジションに身を置いたものだけがリアルに感知できるような種類の幻想である。その幻想に賭け金を置いた弟子にだけ、「底知れぬ叡智」を伝えるような種類の幻想である。〉(「『おじさん』的思考」から)
 サノとは、「ラーメンの鬼」といわれた佐野実氏のことだ。20年くらい前のTV番組『ガチンコ!』の『ラーメン道シリーズ』に講師として登場した。やんちゃな連中から立ち直りを志し、「ラーメン道」に掛ける塾生が募集された。修業は苛酷を極めた。彼らはサノから事あるごとに烈しく罵倒され、「底意地」悪く冷水をかけられ、苦心してやっと作ったスープを「鬼」のように「マズイ!」と一喝され鍋ごと打ち捨てられる。大半が去っていくなか、何人かが最後までやり遂げ暖簾分けまで進む──。そういう実録であった。
 この場合、「幻想」とは空想でもなく、妄想でもない。そうではなく、「現実にないことをあるように感ずる想念」(広辞苑)の謂である。目には見えない師匠と弟子という関係性をありありと実感することだ。「師とは弟子のポジションに身を置いた者だけがリアルにつかめる『実感』」と置換できるだろう。しかも、時間、体力、知力、地位、財産など弟子自らが持つリソースをごっそり、つまりは「掛け金」をすべてその幻想に置く。そこに専一的に「底知れぬ叡智」がまっすぐ授受される。修業を貫いた塾生たちはサノ講師をラーメンの「師」と幻想し、自らを「弟子のポジションに身を置いた。そういう構造だ。淵源はハラリがいう『認知革命』に発したものにちがいない。サピエンス以外の動物に師弟関係は存在しないからだ。
 裏返せば、「弟子のポジションに身を置」かなかった者にとっては師匠は幻想ではなく虚像・偶像にしか見えない。また、虚像・偶像にバイアスのかかった情報を専一的、優先的に収集しようとする。したがって、当然「掛け金を置」くはずもないから「底知れぬ叡智」の授受は起こらない。そういう構図でもある。
 もう一度言おう。塙君、ベリーナイスだ。□