伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

国連には力がある

2019年11月30日 | エッセー
 開催が決まった当初、東京2020で江戸前(東京湾)の魚を振る舞うのはハードルが相当高いと見られていた。トーマス・バッハ会長の音頭で、IOCがSDGsの旗を振り始めたからだ。選手村を始めオリンピックでは大量の食材を使う。別けても世界で獲る天然魚の3分の1は過剰だから、オリンピックは先駆けて削減に努めようではないかというわけだ。12年のロンドン大会以降、天然魚の使用基準が国際機関が認証したものに限られた。その基準でいくと、東京湾の魚を使うためには東京湾全体の資源管理を基にした持続可能な漁業対策が必要となる。そんなものがある訳はない。ならば欧州産の魚を食わせるほかあるまいと、頭を抱え込む成り行きとなった。そこで17年、東京大会組織委員会が漁業者が作った資源計画でも行政が認証すればよいとの助け船を出した。これで一気にハードルが下がり、国内の魚で9割を賄えるようになった。
 農産物も然りだ。GGAP(グローバルギャップ)と呼ばれる国際機関の認証が必要とされる。安全性や環境保全など220項目が審査対象で、取得には数十万円かかる。16年時点で取得している農家は全体の1%に過ぎなかった。これではお手上げだ。これも17年、組織委員会が助け船を出した。国の指針に適合すると都道府県が確認したものも含むと。これで供給可能農家が一気に増え国内産で賄えるようになった。
 SDGsはさらに施設建築にも及ぶ。まずは労働安全。過重労働と人権への配慮が求められた。しかし工期が否応なくのしかかる。現場では長時間労働が繰り返され過労自殺も起こったが、厳重な情報管理がなされた。今年2月労働組合の国際組織が立ち入り調査し、通報制度の機能不全などいろいろな問題点が指摘された。建築資材も同様だ。16年、ある木材輸入商社が国際的な森林認証を取得したインドネシア産型枠合板を建設資材として輸入した。それでも新国立競技場や有明アリーナでは、型枠合板に熱帯林破壊、森林の乱開発だと批判されるマレーシアやインドネシア産の製品が使用されていたことが判明。今年1月、組織委員会は農地転換材を使わない方針を公表した。遅まきながら、金看板を上げ直した恰好だ。
 以上は今月24・25日、朝日新聞に掲載された「(聖火は照らす TOKYO2020)SDGsを掲げて」と題する特集から要約したものだ。腰砕けや弥縫策はあるものの、SDGsが東京五輪に重い軛となっていることは事実だ。
 Sustainable Development Goals:SDGs「持続可能な開発目標」は、15年9月国連総会で採択された『我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ』の実現に向けた具体的行動指針である。17の分野別目標と、169のターゲット項目(達成基準)からなる。
1. 貧困をなくす…「あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる」
2. 飢餓をゼロに…「飢餓を終わらせ、食料安全保障及び栄養改善を実現し、持続可能な農業を促進する」
 と分野別目標が続き、1. のターゲット項目として、
(1) 2030年までに、現在1日1.25ドル未満で生活する人々と定義されている極度の貧困をあらゆる場所で終わらせる。
(2) 2030年までに、各国定義によるあらゆる次元の貧困状態にある、すべての年齢の男性、女性、子どもの割合を半減させる。
 等と、5つのターゲット項目が並ぶ。“Think Globally Act Locally”の国連版である。「人類の議会」と宣揚される割にはとかく無力が囁かれて久しいが、やはり国連には力があるといえよう。十全ではないにせよ、国連での決議は国境を超えた拘束力を持ち得る。オリンピックはその好例ではないか。「核兵器禁止条約」が保有国、その傘下諸国によって骨抜きにされているのはレギュレーションたり得ることの裏返しの証明だ。
 背景にはなにがあるか。『サピエンス全史』を著したユヴァル・ノア・ハラリが新刊『21 Lessonns』(河出書房、今月刊)で、こう述べている。
〈これまでの時代には、国家のアイデンティティは、地元の部族の範囲をはるかに超え、全国的な協力があって初めて処理できる問題や機会に人間が直面したから創り出された。二一世紀には国家は昔の部族と同じ状況に置かれている。時代の最も重要な課題に対処する枠組みとしては、もう適切ではないのだ。私たちは新しいグローバルなアイデンティティを必要としている。なぜなら国の機関は、前例のない一連のグローバルな苦境に対応することができないからだ。今やグローバルな生態環境やグローバルな経済やグローバルな科学の時代なのにもかかわらず、私たちは依然として国政だけのレベルで立ち往生している。この食い違いのせいで、政治制度は私たちの主要な問題に効果的に対応できない。効果的な政治を行なうためには、生態系と経済と科学の進歩を非グローバル化するか、さもなければ、政治をグローバル化するかしなければならない。生態系と科学の進歩を非グローバル化するのは不可能だし、経済を非グローバル化する代償はおそらく法外なものになるだろうから、唯一の現実的な解決策は、政治をグローバル化することだ。〉(抄録)
 胸がすく巨視的慧眼である。一転刻下のリーダーたちに目を移すと、ドナルド・トランプもウラジーミル・プーチンも習近平も、ましてや安倍晋三なぞ、まことに貧弱で卑小な豆粒にしか見えないから悲しい。彼らには『21世紀を生きる人類が直面する21の重要テーマ』が捉えられているのだろうか。問題意識は器に直結する。自国第一で国境に壁、先祖返りか他国を武力併合、桁外れな監視国家への志向。もう一つ、花見大会で大はしゃぎする慢心男。どれもこれも器が小さすぎはしないか。至難ではあっても、国連が力を増していくしかない。そこにしか曙光はない。
 関連して、ハラリが『21 Lessons』で興味深い論攷を示している。1000年前にリオデジャネイロで中世オリンピックを開くとしたら、と問いかける。中華たる1016年の宋にとって、海の向こうにいる化外の野蛮人選手と宋の選手とが対等な地位であるとは考えられない侮辱であっただろう。中東はイスラム教内での多数の分立や数多の遊牧民集団があって一体どう代表を選出するのか、おそらく収拾はつかないだろう。ヨーロッパも同様、政治的実体は不鮮明で現れたり消えたり。交通通信手段がなかったことや統一したルールを持つ競技もなかった事情は脇に措いても、とりとめもない開催実体では“リオ1016”は不可能であったという。
〈だから、二〇二〇年に東京オリンピックを観るときには、これは一見すると国々が競っているように見えるとはいえ、じつは驚くほどグローバルな合意の表れであることを思い出してほしい。人々は自国の選手が金メダルを獲得して国旗が掲揚されるときに、国民としておおいに誇りを感じるものの、人類がこのような催しを計画できることにこそ、はるかに大きな誇りを感じるべきなのだ。〉(上掲書より)
 人類は実体も意識も確実に次数を上げ、地球という高次に達しようとしている──。そういうことではないか。だからこそ国連なのだ。国連には力がある、時代は瞭らかにそこを向いている。 □