伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

漢の勲章

2019年04月05日 | エッセー

 〈笑われてなんぼ、の芸人なら、庶民から抜きんでては決してならない。お上からオーソライズされてはならない。それは芸人としての自死に当たる。世にもの申すことを芸風にしたいのなら、超えてはならない一線があるのだ。その距離感覚、地理感覚がまことに危うい。
 笑われてなんぼの「なんぼ」は、誰の懐から出ているのか。「一刀も持たぬ庶民」の懐だ。その心意気を忘れてもらっては困る。その心意気こそが、君たちの立つ瀬ではないのか。
 この問題の処方箋になるかどうか。たしか、「国民栄誉賞」かなにかを、まだ現役を理由に断ったイチロー。そう、彼の爪の垢を煎じて飲むことを是非おすすめしたい。〉
 06年4月、爆笑問題が文部科学大臣賞を受章した折の小稿である。(「” 爆笑問題 ”の問題」から抄録)
 「立つ瀬」とは実業にあらざるデラシネがそれでもなお拠って立つところとの謂だ。引退インタビューでイチローは、
「あるときまでは自分のためにプレーすることがチームのためになるし、見てくれる人も喜んでくれるかなと思っていたけれど、ニューヨークに行った後からは、人に喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきた。ファンの存在なくしては自分のエネルギーは全く生まれないと言ってもいいと思う」
 と語った。イチローの「立つ瀬」はファンなのだ。お上ではない。「お上からオーソライズ」なぞ端っから無縁である。眼中にない。むしろ余計、邪魔である。
 1度目は衝撃的デビューを果たしMVPなどを受賞した01年。「まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい」と辞退した。2度目は262安打の新記録、10年連続200安打以上など数々の記録を塗り替えた04年。「今の段階で国家から表彰を受けると、モチベーションが低下する」と、これも返上。そして今度。お上は三度目の正直を狙ったが、「人生の幕を下ろした時にもらえるよう励みます」と袖に。テレビの前でオーッと飛び上がり、手が赤くなるまで拍手を送った。実に痛快にして豪快。ファン冥利に尽きる快事である。
 「人生の幕を下ろした時」とは没後のことだ。漢籍にいう「棺(カン)を蓋いて事定まる」ともとれるが、たっぷり皮肉を利かせた名言と捉えた方がやはり「事定まる」。26人1団体のこれまでの受賞者の中に黒澤明氏と渥美清氏もいるが、おふたかたとも没後である。辞退者はイチローを含め3名。盗塁王・福本豊氏の「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」とのコメントは夙に有名である。もう一人、作曲家古関裕而は没後追贈に長男が「元気に活動している時ならともかく亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と蹴った。
 比するにトランプ、アンバイ君。親分がノーベル平和賞に秋波を送れば、ここが子分の出番とばかり推薦状を送る。もう子分どころか、すっかり幇間である。イチローとは男の大きさが違う。桁違いに違う。太鼓持ちに心付けは渡しても、太鼓持ちから心付けを貰ってはあべこべだ。男が廃ろうというものだ。確たる基準もなく政府の人気取りに過ぎない小汚い付け届けなぞ御免蒙る、やっぱりイチローは漢だ。なんとも男を上げたものだ。男の中の漢だ。
 では、イチローにとっての勲章とは何か。拙稿を繰り返す。
 〈インタビューで胸に突き刺さったひと言があった。 「今まで残してきた記録はいずれ、誰かが抜いていくと思う。去年の5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできなかったかもしれない。そのことがどの記録よりも自分の中では、ほんの少しだけ誇りに持てたことかなと思います」
 「去年の5月から」とは会長付特別補佐に配され、選手としての出場はなく裏方に徹しつつもなお鍛錬を重ねた「あの日々」である。並のスーパースターなら腐る。だが、イチローは「誇り」だと言った。これこそ漢の言葉だ。琴線が弾かれ、暫し込み上げるものに堪えた。〉(先月「漢の誇り」から)
 「あの日々」とは現役時代の杮(コケラ)をすべて払い落とし、次なるステージの幕を開くことではなかったか。人知れず、かつ入念に、真摯にそれを遣り果(オオ)せた、その誇りだ。それはイチローの胸奥に輝く勲章である。彼はあの時点で充分可能だったレジェンドで収まる退路を自ら断ったのだ。刀折れ矢尽きての撤退なら誰でもできる。対峙する敵を退けるだけが名将ではない。名将は殿(シンガリ)をも見事に務め退却を仕遂げる。それが「あの日々」だったと見たい。その勲章に比べれば、なんとか栄誉賞など夜店のバッジより軽かろう。 □