伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

自衛隊明記改憲の罠

2018年07月06日 | エッセー

 気鋭の憲法学者である木村草太氏が近著『自衛隊と憲法』(晶文社)で安倍改憲案に考究を加えている。特に「自衛隊明記改憲」について取り上げる。
 4つのタイプがあるという。以下、要約。──
① 個別的自衛権限定型
「日本が外国から武力攻撃を受けた場合に必要最小限度の武力行使とそのための組織の設置を認める」
 日本国民が広く支持してきた自衛隊の武力行使のラインであり、国民投票での可決の可能性はある。しかしこれで可決されると、安倍政権がゴリ押しした集団的自衛権行使容認条項の違憲性が明確になってしまう。
② 集団的自衛権行使容認明記型
「日本が武力攻撃を受けた場合に加えて、2015年安保法制で規定された集団的自衛権の限定行使のための武力行使も認める」
 いまだに反対の声が根強く、否決されれば国民投票で2015年安保法制が否定されたことになり、集団的自衛権容認は撤回せざるをえなくなる。
③ 国防軍創設型
「国際法上許された武力行使は全て解禁する」
  これは9条2項が持たないと宣言する「軍」に該当する。したがって、9条2項を削除して、軍を持つことを明記する改憲も伴う必要が生じる。自衛隊は行政機関であるが、軍を設けるには「第七章軍事(または、国防軍)」の章を設けて、国防軍をどのように統制していくのかも憲法に書き込む必要が出てくる。これは最も可決の可能性が低い。軍事活動は立法でも司法でも行政でもない。ところが、軍事に関わる権限は憲法のどこにも書かれてない。これは、偶然ではなく、主権者である国民が内閣や国会に軍事活動を行う権限を負託しないと決断したことを意味する。これを「軍事権のカテゴリカルな消去」といい、「軍を置かないことが前提になっているからだ」と考えざるを得ない。そこで次。
④ 「自衛隊を設置してよい」
 任務の範囲は明記せず、あるいは曖昧にして 「自衛隊を設置してよい」という趣旨の規定だけを書く。これにより、個別的自衛権までの自衛隊を明記するなら賛成だが、集団的自衛権の行使容認までは賛成できないという人の賛成を取り付け、可決後に、2015年安保法制を前提とした「自衛隊の現状」が国民投票で認められたと主張する。
 だが、このような“任務を曖昧にして国民投票”作戦は、あまりに卑怯だ。国会は、憲法改正を発議するなら、国民に何を問うべきかを明確にすべきである。──
 木村氏は頑なな自衛隊違憲論者ではない。
 〈自衛隊という実力組織があることには違和感があるでしょう。しかし、政府の解釈は、憲法9条だけでなく、国民の生命や自由を最大限尊重するとした憲法13条なども引用しながら組み立てられたものです。それを欺瞞と評するのは、「外国による侵略で国民の生命・自由が奪われるのを放置することも、憲法13条に反しない」との前提に立つことになります。そちらの方が、よほど無理な解釈ではないでしょうか。〉(上掲書)
 実に明快で解りやすい。加えると、首相お得意のなんとかの一つ覚えがある。5月の拙稿を引く。
 〈「『自衛隊は違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのはあまりにも無責任」とのストックフレーズに騙されてはいけない。では自衛隊の存在を憲法に明記すれば、“責任もって”「何かあれば、命を張って守ってくれ」と言うつもりなのか。「命を賭して任務を遂行する者の正当性を明文化することは改憲の理由になる」とも言う。「無責任」と「正当性」は「根拠がほしい」と置換できる。自衛隊員を死地に送るためにお墨付きを手中にしようと企んでいるとは穿ち過ぎか。〉(『おお、塀よ』より)
 改憲のタイムリミットは19年7月とされる。あと1年後だ。最も警戒すべきは④ だ。なにせ『ウソつきはアベシンゾウのはじまり』である。こんな姑息なペテンに騙されてはならない。国民を見くびった罠だ。かつてならとっくに内閣の一つや二つは潰れていた“モリカケ”規模の疑惑でさえ煙(ケム)に巻き、生き延びようとしている。この蛇蝎の如き執念を下支えしているものは何か。内田 樹氏が2月に行われた鼎談でこう語った。
 〈未来の見えない日本の中の未来なき政治家の典型が安倍晋三です。安倍晋三のありようは今の日本人の絶望と同期しています。未来に希望があったら、一歩ずつでも煉瓦を積み上げるように国のかたちを整えてゆこうとします。そういう前向きの気分の国民があんな男を総理大臣に戴くはずがない。自信のなさが反転した彼の攻撃性と異常な自己愛は「滅びかけている国」の国民たちの琴線に触れるのです。彼をトップに押し上げているのは、日本の有権者の絶望だと思います。〉(日本機関誌出版センター発刊『憲法が生きる市民社会へ』から)
 これは腑に落ちる。胸にストンと落ちる。これほど核心を射貫いたことばが今まであっただろうか。安倍を下支えしているのは消去法的選択でも、ウソで固めたなんとかミクスの成果でも、パフォーマンスだけの外交でもない。事の真相は、国民の「絶望と同期」しているからだ。「自信のなさが反転した彼の攻撃性と異常な自己愛は『滅びかけている国』の国民たちの琴線に触れる」からだ。“終わりかけた人”が見せる攻撃性と自己愛。ありようは同じだ。ならば、「一歩ずつでも煉瓦を積み上げる」希望をどう紡ぐか。戦前的価値観への遡行でないことは確かだ。 □