伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

<承前>ポーツマス講和

2018年07月01日 | エッセー

 まったくの偶然であった。前稿を上げてすぐ、読み掛けの本に戻った。数頁進んで次の章に移ったところで目を瞠った。<「正直」「誠」を貫いた小村寿太郎>とある。吉村 昭晩年の随筆集「わたしの普段着」(新潮社)である。W杯ではなく、これは承前せずばなるまい。
 要約すると、こうだ。
 〈「海の史劇」でポーッマス講和会議の史実を読みあさった私は、「小村はロシア側の言いなりになって屈辱的な条約をむすんだ腰抜けの外交官だった」という定説が全くまちがっているのを知った。日本の戦力は底をついていて、これ以上戦さをつづければ日本が敗北することはあきらかだった。譲歩しても戦争はやめるべきだという考えから、ロシア側の要求も一部いれて条約締結に持ち込んだ。それを知らぬ国民は、小村を非難し、暴動まで起した。そうしたことから、小村は腰抜け外交官というレッテルをはられ、それがその後長い間定説となっていたのである。歴史は正しく後世に伝えておかねばならぬ。そこで、昭和五十三年秋、小村を素材に長篇小説を書いて欲しいという新潮社の依頼を受け、執筆を決意した。
 取材旅行は、異様なものであった。郷土の日南市でも小村は屈辱外交をした外交官とされていて、それを小説に書かれることは郷土の恥を天下にさらすという意識があるようだった。私は、むなしく日南市をはなれた。しかし、外務省の外交史料館では豊富な資料を閲覧させていただいた。入口の左側に、日本の三人の際立った功績のあった外交官の写真がかざられていた。陸奥宗光、吉田茂、中央が小村寿太郎の写真で、日本の外交史上小村が偉大な外交官であったことをしめしていた。
 私はポーッマスにも取材に赴いた。アービング・リンツという九十六歳の老人に会った。条約の協議がおこなわれた会議場の入口で衛兵をつとめた人で、それにふさわしくかなり長身の大柄な人であった。
 私は、かれに一つの質問を試みた。小村は身長四尺七寸(一・四三メートル)であったので、
「ずいぶん小柄な人だと思ったでしょう」
 と、たずねた。
 ところがかれは不審そうな表情をし、
「そんなことはありません。堂々とした、いかにも一国を代表した威厳にみちた方でした」
 と、答えた。
 会議の詳細な経過が、ロシア両国側の記録に残されているが、小村は終始冷静毅然としてロシアの全権に対し、そのような態度にロシア側もかれに敬意をはらっていたことが記されている。
 私は、この小説に「ポーッマスの旗」という題をつけ、発表した。
 かれの郷土である日南市では、腰抜けどころか名外交官であったという認識が浸透し、現在では多くの資料をおさめた小村寿太郎記念館ももうけられ、多くの人々が訪れている。〉
 この随筆が氏の死去前年、平成17年の作。「ポーツマスの旗」は昭和54年、新潮社より発刊されている。「海の史劇」は日本海海戦を描いた作品で、昭和47年に上梓された。因みに、小村寿太郎記念館は平成5年、郷里にオープンしている。
 「ポーツマスの旗」の大団円は、
「小村の葬儀は青山斎場でおこなわれた。・・・・会葬者は、勅使をはじめ約一千名であったが、市内に弔旗を掲げる家はなかった。」
 と綴られる。悪評とはまことに手強い。
 そこで、にわかに疑念が湧く。
 「坂の上の雲」で、司馬遼太郎も“定説”を覆し小村寿太郎を“名外交官”として大いに称讃している。この超長編作品の新聞連載が昭和43年から47年8月。単行本の最終巻が同年9月の出版であった。「海の史劇」も昭和47年。ほとんど同時期といってよい。
 吉村は司馬より4歳年下。同世代といってよい。ただし司馬には軍隊経験があるが、吉村にはない。司馬は大阪、吉村は東京下町に育った。作家デビューは吉村が昭和33年前後、司馬が昭和31年ごろ。これも同時期と見ていい。
 以下は稿者の邪推である。
 吉村は司馬を好敵手と見ていたのではないか。でなければ司馬文学隆盛のころ、全戦歴ではないにせよ、そのクライマックスを同時期にぶつけたりするであろうか。同じく歴史に材を採っていても、両者とも徹底的な資料収集と取材を行ったにせよ、向き合い方がちがう。吉村が虫の目からズームアウトするのに比し、司馬は鳥の目からズームインする。司馬史観とはいっても、吉村史観とはいわない。それはそのあたりに起因するか。
 平成9年、司馬が没した翌年に「司馬遼太郎賞」が創設された。その第1回受賞者に推されたのが吉村であった。しかし、打診を受けた吉村は「彼の小説を読んだこともないし、知らないので要らない」と辞したという。伝聞ではあるが、稿者の邪推を補強して余りある。
 ついでに穿てば、「ポーツマスの旗」は「坂の上の雲」の7年後であった。これが意味深だ。出身地への「取材旅行は、異様なものであった」とは、「坂の上の雲」をもってしても覆せなかった“定説”の根深さか、それとも司馬への面当てか。下衆の勘ぐり、ついそんな妄念に囚われる。
 W杯から随分なところへ跳んでしまった。今度は薄氷の敗戦はない。 □