伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

公儀の威信

2018年07月13日 | エッセー

 江戸時代にはM7、8クラスの地震が20数回起こっている。中でも南海トラフ型の宝永大地震・津浪(1707年)、安政東海南海地震(1854年)や首都直下型の安政江戸地震(1855年)は夙に知られる。これに活断層型も発生していて、大地震の類型は揃って発災している。また、1707年には宝永富士山大噴火もあった。
 異常気象を主因とした飢饉も江戸四大飢饉と呼ばれ今に伝わる。寛永の大飢饉(1642年)、享保の大飢饉(1732年)、天明の大飢饉(1782年)、それに天保の大飢饉(1839年)である。すべて失政ではなく、明らかな天災であった。
 いわゆる大火は江戸期に江戸で49回、大坂で6回、京都で9回起こった。突出する江戸の中でも、八百八町の大半が被災し10万7千人が死亡、江戸城天守も焼失した明暦の大火(1657年)、別名「振袖火事」は江戸時代最大の大火であった。
 問題はここからだ。徳川幕府はどう対応したか、である。最近はどんどん見直しがなされているものの、われわれはどうしても明治以降の恣意的な史観に呪縛されている。江戸期は長く閉ざされた暗い圧政の時代であった、との維新の名を高からしむためのいわば薩長史観である。
 付言すると、近年の調査、研究を反映し十数年前に「士農工商」は教科書から消えた。これについては、16年1月の拙稿『歪んだ“士農工商”』で触れた。昨年からは「鎖国」が教科書から消えた(単体ではなく「いわゆる鎖国」と表記)。このように歪みが次第に正されてきている。
 さて、幕府だ。地震、飢饉、火事に意外にも素早く手厚く対処している。
 災害時天領だけを対象とするのではなく、徳川幕府は譜代、外様の別なく諸藩に救済の手を差し伸べている。最大規模の凶作に見舞われた享保の大飢饉では、外様の伊達藩など大名45家、旗本24家、寺社1社に対して総額34万両の「拝借金」を貸与している。無利子で返済は2年後から5年賦という好条件であった。1万両を1億5千万円とすると、51億。熊本地震の緊急対策費が23億円だったから、経済規模を考えると身銭を切る大盤振る舞いであった。これに限らず、他にも資金貸与は何度もあった。中には、返済不履行となり踏み倒された例はいくつもあった。ただ忘れてならないのは、幕府に一国全土を対象にした国税収入はなかったことだ。300万石ある天領と直轄地での貿易による上がりしかなかった。天下の徳川が加賀100万石の3倍でしかなかった。おまけに江戸初期を過ぎると幕府財政は傾き始める。まさに身銭を切っていたのだ。
 「拝借金」だけではない。家中御救金の貸与、村々への扶持米、貸付金の支給。被災で農地として使用不能になった土地を幕領として返上させ代替地を与える「上知」。復興事業の人足への扶持米支給、「公儀普請」「御手伝普請」による治水などの大規模復興工事。なお他藩に命じた「御手伝普請」は直接施工ではなく現地請負で、地元の復興にも配慮したものだった。
 被災時には、参勤で江戸にいた大名には帰国を命じ「撫民」に当たらせた。飢饉では幕府内に臨時奉行を置き、江戸や大坂の蔵米を管理させた。現代の復興大臣である。富士山大噴火では、特例的に「諸国高役金」と呼ぶ復興のための特別税を徴収している。
 ともあれ「公儀」の名にかけて幕府は無い袖を振り、見栄を張り、意地を折って懸命に救済に努めた。どこかの政権党のように大雨が予想される中宰相以下盛大に懇親会を催し、写真までツイッターなる瓦版にしてこれ見よがしにばら撒くアホどもとは月とすっぽんほど違う。心根が天と地ほどに隔たる。急遽外遊を中止しお為ごかしの被災地視察をしたところで、夏の小袖、頓珍漢この上もない。
 「大公儀」ともいうが、徳川が拘った公儀とは何か。公家、すなわち伝来の公権力から私的領主制による新たな武家権力を自ら公的たらしめようとした呼び名が公儀である。「儀」とは儀典、儀礼の儀、まねるべき手本のことだ。覇権ではあるが、旧来の王権に寸分違わぬ公権の資格を具備している。そういう高々とした名乗りが公儀だ。だから端っから肩肘張っていたともいえるし、誇りと重責を肩に食い込ませつつ堅持していたともいえる。だから、災害対策には公儀の威信を掛けて臨んだのだ。江戸時代暗黒史観からは大いに異なる社会が律動し平和でレジリエンスに満ちた歴史が刻まれていたのだ。
 以下余談ながら、それにしてもなぜ紙と木の家を本邦の先人たちは作り続けてきたのか。城だってそうだ。石垣で土台は造るものの、なぜか天守は木造である。先述した江戸城天守はその象徴だ。土台は残るが天守は跡形もない。あれほど火事で惨禍を蒙り、辛酸を嘗めてきてもなお紙と木で家を作る。それはどうも貧困や技術的水準に由るものではなさそうだ。
 もし欧風に石造りであれば、火事には強くても地震では壊滅的被害を招く。本邦は地震大国である。焼け出されても圧死は免れたい。木材は豊富だ。復旧も早い。それに自然観、価値観。これが大きい。いや、大きかった。火事に遭うのは己の定め。運が悪かったと諦めるしかあるまい。自然災害は天の営み。天命は受け入れるしかない。そういうマインドセットだ。50・60年を耐用年数とするコンクリートで造られた構造物が全国規模で2030年代から一斉にリミットを迎える。特にインフラの老朽化対策は急を要する。してみれば、紙と木で作り続けた江戸の先達を嗤うわけにはとてもいかない。
 さらに余談ながら、江戸の長屋の住人たちはミニマリストであった。ミニマリストについては15年2月の愚稿『ジャンクワード大賞ベスト10』で触れたが、必要最低限度の物しか持たない生活である。なにせ「火事と喧嘩は江戸の華」、焼け出された時に都合がいい。身1つ、失う物も最小限度だ。持ち物といっても箸と茶碗、食器少々、布団と枕、手拭いは一本、火鉢が一個、外出用の雪駄、それだけ。弔いに着ていく羽織は大家さんに借りる。その他必要とあらば、「損料屋」で借りてくる。今でいうレンタル屋さんだ。冠婚葬祭、旅行用、さまざまな品物がレンタルされていた。別けても主力商品はなんと、ふんどし。江戸時代のふんどしは今の価格で5000円もする高級品だった。独身男性の多かった江戸の町、とても買える値段ではない。それに男がふんどしを洗濯することには大いなる抵抗があり、屈辱でもあったそうだ。それでレンタル。江戸の町で流行りしものは火事と喧嘩と損料屋だった。なんとも賢いライフスタイルではないか。シェアハウスにカーシェアなどと洒落てはみても、とっくに江戸では体験済みだったわけだ。
 閑話休題。公儀を背負(ショ)った徳川幕府。災害対策をみるにつけ、その健気は称賛に値する。翻って刻下の政権ははたして民意を背負っているだろうか。はなはだ心許ない。 □