3年前は閑古鳥が鳴いていたのに“大河”の影響か、結構な賑わいが戻っていた。リアルな蝋人形を使った松陰の資料館も松下村塾の隣に生まれていた。城下町も瀟洒なカフェを挟みながらよく整備されている。薩摩では維新の大立て者は下級武士だった。然したる住まいではなかったであろうし、中心地に近い加治屋町も維新後瞬く間に区画整備されていったにちがいない。一方、長州の大立て者は中上級の武士であった。幕末に藩庁を山口に移したこともあり、城下の屋敷町はそのまま残るに至った。事情の違いはそのあたりにあっただろう。
史跡巡りのために一人乗りのレンタルEV車も登場していた。時代である。観光客の消費量は住民の約七倍に及ぶという。各資料館での意匠に富んだ展示、あちこちのスポットで待ち受ける案内人やボランティアガイド、懇切な案内板にいたるまで観光への注力が見て取れる。
行ったり来たり、なかなか見つけられない遺跡があった。「萩反射炉跡」である。何度も尋ねた町だが、今回初めて訪った。山間(ヤマアイ)ではなく、意外にも小さな湾に接するように盛り上がった丘の頂にあった。今年の世界遺産登録を目指す「明治日本の産業革命遺産」23資産の1つである。
太陽光を反射するにしてはあの煙突様(ヨウ)のものはなんだろう。小っ恥ずかしいことに、その程度の認識しかなかった。「反射」とは燃料を燃やした反射“熱”のことである。炉の天井や側壁からの高温の反射熱を使って金属を溶かす。煙突“様”のものとは何あろう、そのまま煙突なのだ。
幕末、洋式の鉄製大砲を鋳造するため一藩挙げて取り組んだ。海防は急を要する。先行する佐賀藩に教えを請うが、断られる。ならばと長州の発明になる独自の砲架と取引に及んで、やっと見学を許された。その時持ち帰ったスケッチが建造の端緒を開いた。
維新の10年前に完成するが本格操業した形跡はなく、試験炉ではなかったかという説が有力だ。おそらく一藩を丸ごと擲った幕末の騒擾で反射炉どころではなくなったのではないか。それどころか、第二次長州征伐では熊本藩が輸入したアームストロング砲に散々な目に遭わされている。幕府の権勢も堕ち、各藩競って舶来の武器で身を固めた。しかしそれは後の話で、幕末に自前の反射炉を建造した藩は5、6藩に及ぶ。その中で韮山反射炉と萩だけが遺る。得難い遺構にまちがいない。
ともあれ青銅砲では間拍子に合わない。世界は鉄製砲の時代に入っている。危機は迫る。手を拱いてはいられない。身を灼かれるような焦慮に先人は懊悩したのではないか。やがて焦燥は見よう見まねの反射炉に凝(コゴ)る。だから反射炉は幕末維新を生きた人たちが死活を賭けた技術革新の象徴、モニュメントといえる。
萩に残るのは煙突部分だけだ。本体の炉は土に埋もれている。掘り返すと煙突が倒壊するかもしれないそうだ。だが、現代技術を駆使すればできなくはなかろう。勝手な希望だが、ぜひ本体部分を発掘してほしい。世界遺産を見越して駐車場や遊歩道の建設が始まっていたが、それよりも史跡が中途半端では興ざめだろう。
司馬遼太郎の箴言が甦る。
「歴史とは、人間がいっぱいつまっている倉庫だが、かびくさくはない。人間で、賑やかすぎるほどの世界である。」 (『歴史と小説』から)
遺跡を廻るのは単なる懐古ではあるまい。今や「かびくさく」なった史跡という「倉庫」に、「賑やかすぎるほどの世界」を観ることではないか。「賑やか」とはいっても、悲喜、禍福糾ったそれだ。
萩反射炉は実用に供することなく歴史の後景にひっそりと退いた。それは容赦ない時代の激動を物語っている。藩運を賭した技術の習得には先達の健気が偲ばれる。健気とは難事に立ち向かう直向きであろう。それを想起するのは今とこれからに有意味なはずだ。でなければ、先人は浮かばれまい。
先の大戦後、鋳物工場の象徴となったのがキューポラである。現代版の反射炉といえなくもない。『キューポラのある街』は復興と差別、貧困を問いかけた。基幹産業であった製鉄は、今主役の座を降りている。2度の開国的回天を先駆けた製鉄の炉は歴史となった。それはこの国が新しいフェーズに歩み込んだ証ではないか。成長か成熟か。またしても、岐路にさしかかった。 □