伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

おかんの珍メール

2015年06月19日 | エッセー

 テレビでは『とんねるずのみなさんのおかげでした──全落・水落コーナー』がめっぽう好きで、欠かさず見るようにしている。本では、いつかも紹介した『テストの珍解答』シリーズ。5、6冊は読み漁った。持って生まれた素直な性格のゆえか、他人様の失敗が大好きである。他人の不幸は蜜の味、なんともこれが旨いのなんの。で、今度はお母さんのメールである。
「買い物 佐藤俊雄買ってきて!」
 これはありがちだろう。『砂糖と塩』の変換違いである。
「忙しいからあとで変身します」
 これも同じく。でも次ぐらいになると、非常にきわどくなってくる。
「今日帰りに正常位四位でワイン買ってきて!」
 スーパー『成城石井』の誤変換だ。というより、マシンは正直だからこちらの“誤確定”である。極めつけはこれ。
 子供からの「今どこにいるの?もう着いたんだけど」に対し
「さっきからずっと快感の入口にいるよ」
 うおぉー! これはマズいでしょう。あらぬ誤解を生みそう。
  おかんからの
               珍メール・なぞメール 
                                        (株式会社メディアソフトから先月末発刊)
 紹介されているのは“誤確定”の連打である。中には類推不可能なものもあるが、捻りの利いた上手いものもある。
 子供が「あーお腹すいたー 今日のおにぎりの具なに?」と寄こした。対して、おかんが 
「塩対応」
 と返す。「対応」が貧困への対応なのか、多忙へのそれなのか。座布団をあげたくなる。
「ネットで椅子が買いたいんだけど、アマゾンってパスポートは必要なの?」
 とか、
「知らない人から英語のメールが来たの。読めないので帰ってきたら読んでね」に、子供が「もしかしてその人って、MAILER DAEMONって人?」と返すと、 
「そう、その人! え、知り合い!?」 
 と応える。これら2例は笑いを誘う可愛い物知らずといえる。もう一つ。
 子供から「明日そっちに行くって知ってる?」への返信。
「狂気いた明日狂うって」
 これは御入力、いや誤入力であろう。不慣れのゆえならよいが、指使いに支障があるのなら一度病院をお薦めしたい。
 今、おかんと呼ばれる女性たちはきっとキーボードによるパソコン入力をじっくりと経験していないのではないだろうか。入力をして変換する──このプロセスに難渋する、あるいは狂喜する原体験が希薄であるのが如上の悲喜劇を生んでいるのではなかろうかと推察申し上げている。
 おとんに関して出版するに至らないのは、おとんと呼ばれる男どもが曲がりなりにも仕事上忌まわしい苦渋を嘗めてきたからかもしれない。失敗が成功の母となったか。となれば、失敗のなかった母が成功しなかったわけだ。あるいはわたくしに仮説を立てるとすると、女性性による大らかさ、根拠のない自信が誘因ではないか。エビデンスはないが、今後の生物学からの九名、いや救命、いや究明に期待したいしたいところ大である。
 キーボード入力を経ないままいきなりケータイでのタップ入力やスマホでのフリック入力に移行したことが近因であるような気がしてならない。大袈裟にいえば、文明開化の激変に揉まれることなくその余沢にあずかっている後継世代。イノヴェーション後続世代には新しい発想があると同時に旧い価値が失われていく。変革とはそのようなものだといえば木で鼻を括るのだが、インカネーションした文化的資質はただ消失するだけではない。文化のリゾームはそれほど単純ではあるまい。様々なフリクションが伴う。
 「かな漢字変換」というわが国文字文化史上、あるいは広義の文化史上一大転機に偶会したか否か。手書きから“打ち”書きへ。これは西欧のタイプライターとはまるっきり次元の違うコンヴァージョンである。かつて手書き時代にはうろ覚えの文字は似たような字で誤魔化すか類推を誘うか、またはカタカナかひらがなで記した。語句も同様だ。字切りも同等である。しかし「かな漢字変換」ではそうはいかない。デジタルに曖昧はない。それが今、対極にあるおかんが珍メールを量産している真因ではないか。
 ともあれ、筆から鉛筆へ、鉛筆からキー入力へ。これは単なる道具の変化ではあるまい。鉛筆までは指の動きを即物的に紙に伝えた。キーは思考をマシンに伝える介在物である。アナログとデジタルの違い。キーではなくなる可能性もあるし、脳からダイレクトに伝達できるようになるかもしれない。つまり、思念の表現経路が次元を変えた。逆も然り、思念も変わるのではないか。事は「ペーパーレス」などとは比較にならぬほど深刻かもしれない。この変容はもっと注視されていい。ツイートのような短文化の波、絵文字やスタンプの隆盛、インパクトのあるワンフレーズプロパガンダなど、世の思考回路も短小化しつつある。未だ経験の浅いキー入力が深く広く定着していけば、はたして元に復すであろうか。わたしはそれほど楽観的にはなれない。今後はこのイシューを出来のよくないわが脳みそを叱咤しつつ愚慮を廻らしてみたい。
 お棺の、いやお燗の、元い、『おかんの珍メール』は悪寒のするほどシビアな問題提起なのかもしれない。 □