伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

“知の無知”

2015年06月11日 | エッセー

 至高の境位を「無知の知」とソクラテスさんは言った。不遜を覚悟で洒落ると、これは端っから知を蔑むさしずめ“知の無知”だ。
 今月4日、衆院憲法審査会で3人の憲法学者が安全保障関連法案を違憲と断じた。火消しに躍起となった自民党は、反論ビラで「高度の政治性を有する事柄が憲法に合致するかどうかを判断するのは、明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所ではなく、内閣と国会」だと書いた。モンテスキューさんが聞けば、激怒のあまり卒倒するかもしれない。「高度の政治性を有する事柄」であろうと憲法の範を超えないことが三権分立ではないのか。超えざるを得なければ、憲法自体を変える規矩を憲法はすでに設えている。立憲主義は元来懐が深い。にもかかわらず、解釈などといって恩を仇で返してはなるまい。
 三権分立、立憲主義。中学生レベルの知見を天下の大政党がもたないはずはない。大衆を煙(ケム)に巻くとんでもない頬被り。“知の無知”とはこのことだ。
 つづけてビラは、安保政策に責任を持つのは「私たち政治家」と呼ばわっている。学者になにが判るか、日本丸の舵を握っているのは自分たちだと言いたいのであろう。
 プラトンさんは『国家』で「洞窟の比喩」を説いた。人びとよ、イデアをめざせ。永遠普遍の実在に無関心で、感覚で捉えた情報を鵜呑みにしてよしとするのは洞窟に緊縛された囚人だ。彼らが見ているのは松明が照らす影だ。洞窟から彼らを解放し、イデアを見せようとする者こそ哲学者である。そうプラトンさんは力説した。
 操舵手は政治家として、海図の見方が間違っているよと言うのが学者ではないか。安保政策の責任、日本丸航海の責任、ともに政治家も学者も同等だ。学へのリスペクトに欠けた自民党の姿勢もまた“知の無知”といえよう。
 9日、自民党の高村正彦副総裁は「60年前に自衛隊ができた時に、ほとんどの憲法学者が『自衛隊は憲法違反だ』と言っていた。憲法学者の言う通りにしていたら、自衛隊は今もない、日米安全保障条約もない。日本の平和と安全が保たれたか極めて疑わしい」と述べた。
 ここにはトリックがある。「自衛隊は今もない」とは、過程をすっ飛ばして結果オーライだと言っているに過ぎない。なにより「自衛隊が今も『ある』」ことで「日本の平和と安全が保たれた」具体的事例があったのであろうか。どこかの岬に某国の軍隊が無謀な上陸を試み、勇敢なる自衛隊の奮戦によって見事に退けられたなどという“戦果”があるのなら挙げてほしい。いや抑止効果だという声もあろう。ならば「日本の平和と安全が保たれた」という“実績”があるのなら、自衛隊の増強で事は足りるはずではないか。個別的自衛権と集団的自衛権の恣意的な混淆がある。
 もう一つ。自衛隊「違憲論」と日米安保条約締結は別物だ。52年の旧安保はサンフランシスコ講和条約とセットで締結された。主権の回復とバーターされたものだ。違憲論議が介在する猶予も余裕もなかったはずだ。あったとは寡聞にして知らない。
 コンテクストを『自衛隊がなかったら日米安保もなかった』という因果関係に置き換えると、自衛隊の創設は54年、日米安保は52年。時系列は逆転してしまう。50年設置の警察予備隊を持ち出すなら、GHQの指令によるものであり、なによりその装備や体勢では計が行かないために自衛隊に改組したのではなかったか。
 60年前も学者は反対した。でも、それを押し切った。結果はよかったではないか。今も同じだ──。この単純なロジックに引っ掛かってはならない。原因と結果を短絡するのは知的退嬰であり、ポピュリズムの骨法だ。“知の無知”へ誘(イザナ)うものだ。
 反知性主義について、内田 樹氏はこう語る。
◇「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。彼らは「あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と私たちに告げる。◇(晶文社「日本の反知性主義」から抄録)
 「もう一度勉強して出直してきます」と言える知性の保持者が永田町に何人いるか。悍しい限りだ。しかし、赤坂真理氏の次の指摘は重い。
◇「反知性主義」的態度は、どんな兵器より破壊的である。でも、それを、我々自身が用意した側面もある、と思わずにいることもまた、反知性主義的態度であると思う。彼らこそ、もしかしたら私たち「国民」の映し絵ではないか? そう思う想像力くらい、私たちの側にあってもいいと思うのだ。◇(上掲書より)
  「我々自身が用意した側面もある」とは、まさに頂門の一針ではないか。「映し絵」は痛撃でもある。またしても『往復ビンタ』だ。 □