伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

肥後 寸景

2015年06月06日 | エッセー

 熊本ではまっさきに田原坂に向かった。ここはどうしても外せない。実はここだけが目当てだった。
 鹿児島本線田原坂駅のホームに降り電車が去って視界が開けた時、吃驚のあまり「えぇー」と声に漏らしてしまった。私たち2人以外だれもいない。高名な地名を冠する駅であるのに無人。故事を記した看板が一つ。駅舎はない。山裾から少し上を複線路が通り、裾側の小高い迫り出しにベンチを一つだけ置いた小さな待合室があるきりだ。往き来に坂道が付けてある。鉄道の下を畑に挟まれた細い道路が走り、人家がいくつか散在する。山峡(ヤマカイ)の小振りな平地(ヒラチ)。なんとも拍子抜けするほど閑散としている。後に訊いてみると、田原坂への経路は隣の植木からがメインらしい。それにしても、背負う歴史の重みに比してやるせなく心寂(ウラサビ)しい。
 待合室の貼り紙に書かれたタクシーを呼ぶ。小雨の中、待つこと15分。車を駆って一ノ坂、二ノ坂、三ノ坂と、古戦場の坂を登る。

¶田原坂は、こんにちなお往時の景観と大差はない。要害といっても自動車でそこを通れば、ほとんど気づかぬうちに過ぎ切ってしまうほどに、変哲もなさそうである。
 この坂は、小丘陵の稜線を縦に貫いている。
 ただし、丘陵といえるほどの高さもない隆起である。要害であるという点は、道路の両側が谷になっていて、谷の形状が複雑に入り組み、谷間には水田が耕作されていて、軍隊の通行をゆるさないことがまず挙げられるであろう。
 道路にも、特徴がある。すでにのべたように、おそらく加藤清正がそのように作為したものらしく、道路が塹壕のように地をえぐって造られている。えぐった土が両側に積みあげられ、その両側の堆土にはえた樹々が陽を遮り、所によっては道を昏くして隧道をゆくような感じの場所もある。
 しかも道路はしきりに曲っていて、その曲り角ごとに塁を築けば、坂をのぼってくる政府軍は追いおとされざるをえない。¶

 司馬遼太郎が『翔ぶが如く』に活写して40年、「こんにちなお往時の景観と大差はない」であろう。舗装はされているが、結構は名作に写し取られたそのままだ。
 田原坂の激闘。『翔ぶが如く』をつづける。

¶十数日つづいた田原坂の攻防戦というものは、同時代の世界戦史のなかで、激戦という点で類を見ない。小銃弾の使用量のけたはずれの大きさも、機関銃の出現以前の戦いではこの兵力規模で他と比較しようにも例がないのではないかと思える。さらには防禦側の意思の強烈さと攻撃側の執拗さは一種恐怖をさえ感じさせるものがある。¶

 西南戦争は日本史上最後の内戦であった。薩軍は緒戦から躓く。政府軍が籠もる熊本城を落とせない。その内、政府側が援軍を送る。南下する官軍、坂上に布陣して迎え撃つ薩軍。両軍が激突し、死闘を繰り広げたのが田原坂であった。この坂を越えると台地が続く。熊本城までは一瀉千里だ

¶「行きあい弾」とよばれるものも出てくる。敵味方の弾が空中でぶつかりあって互いに噛みあい、だんごのようになったもので・・・・
 偶然のおもしろさというようなものではないであろう。こういう「行きあい弾」が幾つも発見されたというのは、一定の空間によほど濃厚な密度で銃弾が往来しないかぎりおこりえないものと思われる。¶(同上)

 1日に30数万発もの弾丸が行き交った。「行きあい弾」は資料館にある(「かちあい弾」と表記されている)。「防禦側の意思の強烈さと攻撃側の執拗さ」が凝った一級の遺物だ。
 ふと、『田原坂』の歌詞が浮かんだ。元歌はこうだ。
   〽雨は降る降る じんばはぬれる
      越すに越されぬ 田原坂      
 「越すに越されぬ」のはどちらだろう。
 歌は薩摩軍の残党が作り、のち宴席で唄われた。当たり前だが、通じて薩軍を謳っている(「じんば」は「人馬」ではなく、雨により不利となった薩軍の「陣場」だという郷土史家もいる)。だから勘違いするが、越し倦ねているのは官軍である。

¶俗謡に、雨は降るふる、人馬は濡るる、越すに越されぬ田原坂、とうたわれた・・・・越すに越されぬというのは薩軍の立場ではなく、政府軍の立場であった。田原坂を越さなければ熊本城に入ることはできないのである。¶(同上)

 一ノ坂、二ノ坂、三ノ坂。「越すに越されぬ」鉄壁の坂。現地を践んで、生え抜きの誇り高き武士団に挑んだ民草による初の国民軍の健気に心が震えた。
 元歌はこうつづく。
   〽右手に血刀 左手に生首
      馬上豊かな 美少年
 あり得ない描写には士族の矜持が込められているにちがいない。前稿で記したように西郷が「アンシャンレジームを一身に体現し人身御供となって革命を最終的に完結した」とすれば、量り難いほどの血が流れ止めどもないルサンチマンの炎上と引き替えにそれはなされたことになる。その絶頂として田原坂はある。ここに、内戦は畢った。
 爾来日本は外戦を繰り返し、結句昭和の壊滅的な敗戦を招いた。これで外戦も畢った、はずである。先人はそう九条に認(シタタ)めた、はずだ。今それが揺らいでいる。肥後、雨の田原坂に立ち、またしても想念が翔んだ。 □