なんとかの一つ覚えか、政府与党は決まって「安全保障環境の変化」と言う。まるで思考停止を強いる錦の御旗のようだ。ならば、孫子の格言を返したい。
「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し」(『孫子』)
「彼」についてどこまで知っているのか。「彼」とは誰なのか。「己」はどうなのか。その「環境の変化」を克明に提示願いたい。
ところが、敵もさるもの引っ掻くもの(この「敵」は政府与党、ややこしい!)。「特定秘密保護法」とやらで、先刻がっちり予防線を張っている。ブラックボックスに手を入れようものなら、即刻お縄だ。それに俄に軍事通ぶって、知っていると言うこと自体軍事の鉄則に反すると宣う。まことに荷厄介だ。百歩も千歩も譲ろう。孫子がいうのは、もし戦わばの話だ。武の本道は敵をつくらない、戦わないことにある。武はこの至高のアンビヴァレントの只中にこそある。そのような高みを掲げたところに憲法九条の世界に冠たる誇りがあるはずだが、「環境の変化」なる現実論が我が物顔に尊大な道行を始めたようだ。
では、現実はどうか。仮に中国とすると、軍事的にはもう手遅れだ。米国が介入したとしても、すでに勝てる相手ではない。その冷厳な事実を腰を据えて見定めることこそが現実論ではないか。中国は大国化しつつあるのではない。大国に戻りつつあるのだ。4千年のタイムスパンで鳥瞰すれば、列強の後塵を拝したのはちょいの間、邯鄲の“悪”夢といえよう。
ノースコリアも核を持った以上手遅れともいえるが、核兵器開発と暴発を防ぐには非軍事的対応以外手はない。ノドンは日本を丸ごと射程内に収めているし、MDなど絵空事に近い。それに彼らのお相手は米国だ。彼の国への軍事的対応は百害あって一利なしと見定めることこそが現実論ではないか。
テロについては、先般のISによる日本人人質事件を例示すれば足りる。軍事的対応なぞ論外だ。歯が立つはずがない。それが現実だ。
いずれにせよ、「環境の変化」に応ずるに軍事的リアクションこそ非現実的なのだ。そう闡明に自覚することが現実論であろう。「環境の変化」はパラダイムシフトを冀求していると、肝に銘じる知性を現実的と呼んでおそらく間違ってはいない。
自民党の高村副総裁は約言すると「日本の安全を揺るがす事態が明日起こるか、数年先か、それは分からない。いつ起こってもいいように準備をするんだ」と言ったそうだ。ちょっとお待ちよ車屋さん、だ(古い!)。火山噴火や地震の話ではない。戦争は人間が引き起こすまるっきりの人為である。明日起こさないように、数年先でも起こさないように人為の限りを尽くすのが政治であろう。まるで逆さまだ。安全保障と防災は違う。
さて、パラダイムシフトの一例を示したい。
進化生物学の学識によると、生物はサバイバルのため物理的な戦いだけではなく、捕食回避のためさまざまな戦略を駆使しているという。つまり即物的な争いを避け、知略を繰り広げている。
「食う/食われる」の生態系はピラミッドのようなヒエラルヒーだと今まで考えられてきたが、実は状況によってダイナミックに変化する網の目状であることが判ってきた。一強他弱の縦社会では変化に脆い。全滅する恐れがあるからだ──。かなり示唆的である。
ニワトリをはじめ「死んだふり」をするたくさんの動物。さらに、動き回る動物に紛れて死んだふりの「擬態」を演じ生き延びるカブト虫。これは「後出しジャンケン」とでも呼べる生き残り術だ。ほかにもテントウ虫がわざと食い残して被捕食者の産卵を促す戦略などなど、サバイバルのために直面した問題を棚上げする「先送り」戦略に満ちている。「冬眠」や「寄生」、「変態」。勝ち目がない相手にどう立ち向かうか。多彩な技を総動員して生き残りを図る生き物たち。多くの教訓に溢れている。
最も興味深いのは、托卵するカッコウとそのカッコウを用心棒にしてしまうカラスとの共生関係。多くの寄生者が最終的に「共生」関係に至る進化だ。妥協こそが進化の産物ともいえよう。
如上の知見は宮竹貴久著「『先送り』は生物学的に正しい」(講談社+α新書)を参照した。一読の値打ちありだ。
もしも物理的な闘争のみから人類が抜け出せないでいるとしたら、生物の進化に背を向けていることになる。「万物の霊長」なぞ片腹痛い話だ。してみると、憲法九条は生物の進化における輝かしい達成ともいえる。
「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」
73年に総理大臣賞を受けた、史上最も名高い交通安全標語である。作者は高知県の警察官。石碑まで建てられているそうだ。
とかくにビジネスマインドの為政者たち。国家運営は企業経営とは違う。なにを急ぐ。なぜ慌てる。「『先送り』は生物学的に正しい」のだ。そこで、かの標語を借りてみた。
「せまい世界そんなに急いでどこへ行く」
お粗末……と言えればよいのだが。 □