伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ウロボロス

2013年09月28日 | エッセー

 先日のNHK「クローズアップ現代」で、ロボット兵器を取り上げていた。
 「人工の兵士」は神話に登場するので、発想自体は古くからある。人的損失を最小限に抑えるためだ。偵察、警戒、不発弾や地雷の除去以外に、近年ではよりストレートな戦闘行為での使用に衆目が寄せられている。
 アフガンやイラクで、アメリカはさまざまな無人兵器を実戦に投入している。数年前には無人攻撃機によってタリバンやアルカイダの司令官が爆殺された。しかし他の局面では誤爆や巻き添えで多くの民間人が犠牲になり、深刻な疑問が呈されている。操縦員の誤認や地上部隊の誤報が原因らしい。
 高度なAIを搭載し自律行動するものもあるが、ほとんどは遥か彼方のアメリカ本土の基地から衛星を介して操作される。番組でも映像で紹介されていたが、変わり種としてはビッグドッグと呼ばれる四足歩行ロボットが開発中だ。牛のような体躯で、不整地での物資輸送に供される。
 番組のイシューは米本土の操縦者に当てられていた。モニターを見ながらの操作である。傍目にはテレビゲームのようだ。マイカーで基地に出勤し“戦闘”を行い、任務後ハンバーガーショップに立ち寄り、子供のサッカーの試合を観戦して帰宅する。このとてつもない日常と非日常の悪しきコラボレーション。疑問を抱き、精神を病み、退役する操縦者が後を絶たない。さらに、モニターに克明に映し出される殺傷場面。意外なことに、現地の地上軍兵士よりも心的外傷後ストレス障害に陥る確率は高いという。  ※朝日
 技術的ハードルは極めて高いものの、ロボットの歩兵を開発する動きもある。「人工の兵士」だ。地上戦では歩兵が欠かせないからだ。ゆくゆくは戦闘用アンドロイドが視野に入ってくるかもしれない。
 90年代以降、急速な技術革新の中でアメリカ、欧州諸国、中国、イスラエル、シンガポールなど世界数十カ国で、『ロボット戦争』への取り組みが現に進行している。
 1対1の果たし合いから、集団的戦闘、そして総力戦へ。兵器の開発に踵を接して戦争は変化してきた。もしもロボット兵器が主流になれば、間違いなく戦争は相貌を一変する。第一、戦域は地球規模に広がる。操作が行われる米本土の基地も、敵にとっては紛れもない戦場だ。テロ攻撃があるやもしれず、敵方の無人機が飛来するかもしれない。また、勝敗はどのように判じられるのか。ロボット兵器の損害の多寡をもってするのか。“生身の”兵士は残っているのに。あるいは領土の争奪という古典的レベルに先祖返りするのであろうか。さらには気がついてみれば、技術競争に収斂してしまうのか。
 愚考を巡らすに、次のようなフェーズを進むのではなかろうか。
  ① 人と人との戦い(双方がロボットを所有しないなら。もちろん武器は使う)
  ② ロボットと人との戦い(ロボットを持てる側と、持たざる側)
  ③ ロボット同士の戦い(持たざる側がきっと持つに至る)
  ④ ロボットと人の戦い(ロボットを失った側は人的リソースを総動員する)
  ⑤ 人と人との戦い(④ でおそらくロボットは敗退するだろう)
 ⑤ フェーズは希望的観測に過ぎないとの反論もあろうが、“創造主”たる人間の力は決して侮れまい。つまりは、元に戻る。ここが、核戦争とまったく違う。核の場合、最終戦争となって二度と戦争は起こらない(起こせない)からだ。だが、じゃあ初めからやるなよという愚かさは甲乙つけがたい。これでは、ウロボロスそのものではないか。いかに巳年とはいえ、洒落にもならない。 □