〽何気なく観たニュースで
お隣の人が怒ってた
今までどんなに対話(はな)しても
それぞれの主張は変わらない〽 (桑田佳祐作詞「ピースとハイライト」)
ではなく、
〽何気なく観たニュースで
筑波大の先生が怒ってた
今までどんなに対話(はな)しても
それぞれの主張は変わらない〽
である。
4日の朝日新聞に「カタカナ語の増殖」と題するオピニオンが載った。その中に「『言語法』で日本語を守れ」と、勇ましい「主張」をぶっ放す御仁がいた。「日本語防衛論」を掲げる津田幸男筑波大教授である。
先生は「何気なく観たニュースで」(多分)、全柔連の新会長が「ガバナンス」と発言したことにえらく「怒ってた」。「日本のよき伝統を守るはずの、柔道界の最高責任者なら、日本語に言い換えるべきです」と。
先生によれば『氾濫』の元凶は、一に商品名や宣伝に多用する企業。二に全国に撒き散らす官公庁。三は翻訳、言い換えをすべきなのに怠慢な知識人や学者。四には垂れ流すマスコミ(おっと失礼。先生は「報道機関」と仰っている)だそうだ。なんとも凄まじい。
ついには「外来生物法」で外来種をディフェンスしているように、『日本語保護法』をつくってカタカナ語の「野放し」に対処せよ、と呼ばわっていらっしゃる。これには、参った。すげぇー先生だ。『言語“攘夷”論』とでもいうべきか。水戸学の泰斗、藤田東湖の現代版であろうか。
さて、稿者もその「野放し」の片割れだ。理由は簡単、ディレッタントゆえのペダンティズムである。衒ってなければ化けの皮が剥がれるからだ。カミングアウトすれば、そういうことだ。
ところで、先月の本ブログ「漢字に乗って」を参照したい。引用した今野真二氏著「漢字からみた日本語の歴史」で、著者の慧眼が見抜いた二つの特性。
「漢字だけで書いてみたかった」心性と、「漢字をある程度使って日本語を書いた方がフォーマルに感じる」公性。
これらは「辺境国家」ゆえではないか、と稿者は述べた。漢字を使うことに『かっこよさ』を感じる心性と、「フォーマルに感じる」公性。古(イニシエ)より底流する漢字を使うことへのモチベーションは、『中華』へのアプローチを抜きにしては考えられない。そう述べた。さらに今はグローバリゼーションで、中華が欧米にシフトしているのではないかとも愚考を記した。
「漢字の向こうに中国語がみえる」の伝でいけば、「カタカナの向こうに英語がみえる」といえる。当今、カタカナ語を使うことに『かっこよさ』を感じる心性と、「フォーマルに感じる」公性が生まれているのだ。特に稿者のごときエピゴーネンはそうだ。芝居だって、大向こうで訳の解らない手合いが騒がねば盛り上がりはしない。津田先生には悪いが、日本が辺境であり続ける限りこの構造は揺るがない。
カタカナ語の是非について、紙面にはほかにお二人。さても「それぞれの主張は変わらない」。万が一の話だが、件(クダン)の『保護法』が日の目を見たらどうしよう。真っ先にこのブログを畳んでどこかへとんずらせねばならぬ(でなければ、お縄だ)。かといって、行く当てはない。なにせカタカナ語が通じる国は、またも津田先生には悪いが、世界広しといえども本邦一つ限(キ)りだ。 □