伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

再び、まぼろしか

2011年09月01日 | エッセー

 井中の蛙(ア)大海を知らず。盲蛇に怖じず。分不相応にも、定番の童謡に私的で独断的で妄想じみた解釈を試みたことがあった(「赤とんぼ」について)。斉東野語の類である。恥のかきついでに億面もなく摘要してみたい。
〓〓「まぼろし」とは、童謡にしてはいかにも膚質のちがう言葉ではないか。字引には、 ―― 実在しないのにその姿が実在するように見えるもの。幻影。はかないもの、きわめて手に入れにくいものの譬え。 ―― とある。
 1節は、母に背負われて見た夕焼け空に群れ飛ぶ赤蜻蛉であろう。いつとは特定できぬまでも、むかし、幼少の「いつの日か。」であった。
 3節は、可愛がってくれた子守りの姐やが15で嫁ぎ、主家への音信も「絶えはてた。」杳としてその後は知れぬ、と振り返る。
 4節は、長じて今また夕間暮れ、竿の先に止まる赤蜻蛉をじっと見詰める。去来するは少年期の一齣、懐かしき情景 …… 。
 大掴みでは、そのような歌意であろう。 …… 「疑念」は2節だ。
 山裾に広がる桑畑で、小籠を提げて、母とともに桑の実を摘んだ。あれはまぼろしであったろうか。
 なぜ「まぼろし」なのか。1、3、4節の明晰性に比してなんとも心許ない。「幻想の中での出来事だったようにはっきりしない」と、通途に受け取っていたのでは脈絡が切れはしないか。なぜ母との思い出の情景だけが霞むのか。
 〽小籠に摘んだは〽 「秋の日か。」か、あるいは「母さんと。」とでも続けば、自然なものを …… 。
 明澄な世界であるべき童謡には、「まぼろし」は似つかわしくない。童心には早すぎる言葉ではないか。露風はこの言葉になにを託したのであろうか。抒情に纏われた謎があるのか。「疑念」は膨らんだ。
 ――露風は5歳の時、母親と生き別れた。
 早熟の天才、ガラス細工のように鋭敏な少年の感性に、この出来事がなにものも残さないはずはない。焦がれるわが子に、父は近在から姐やを呼んだ。それが3節へとつながる。
 だから、「まぼろしか。」とは 「まぼろしのように儚い、定かならぬ記憶」と片付けて済む言葉ではない。わらべの唄に不似合いな言葉をあえて使うには、相応のわけがあったと考えるべきではないか。
 母との情景は遠い昔の記憶ではあるが、こころにくっきりと残像を宿してきた。しかしその後、母は去り、母との懐旧はあの一齣が最後となった。生別という人為の別離は、つねにあの情景をまぼろしとして追い遣るよう迫り続けた。でなければ、思慕が身を焼いてしまうからだ。
 あるいは、
 母は去った。いま蘇る母との幼年期の一齣は、そうあってほしかったという願望が紡ぐ情景であり幻影であるかもしれない。記憶の底に沈殿しているあの母の残像は、母への思慕がつくり出したまぼろしの似姿ではなかろうか。
  …… 想像が過ぎるであろうか。1節の「いつの日か。」の延長にあるトポスとはうけとりがたい。だから、奇想を天外より呼び寄せてみた。〓〓(09年5月付本ブログ「まぼろしか」より)
 幻影。ないにもかかわらずあるように見える。ないとして追い遣るか、あるとして暖めつづけるか。母性へのアンビヴァレンスが「まぼろし」に凝(コゴ)ったのではないか──。まあ、ディレッタントの戯れ言である。似ぬ京物語だ。ではあるが、馴染んだ唄にいつも挟まっていた違和感を抜き取ろうとの足掻きではあった。もっとも違和感そのものが的外れであったかもしれないが……。
 さて、「まぼろし」である。司馬遼太郎著「街道をゆく」39<ニューヨーク散歩>に、おもしろい挿話がある。氏とは旧知で、生粋のアメリカ人で日本留学の経験もあるマーガレット・鳴海という才媛が登場する。


 マーガレット・鳴海は物言いの魅力的な女性で、日本語を話すときは、英語がもつ攻撃性を、ピアノから琴に変えるようにして切りかえる。
「寅さんとその家族って、リアリズムじゃないでしょう?」
 と、ひかえめに言った表情を、いまでもおぼえている。(中略) 
 容易ならざる質問で、煮つめてゆくと、江戸っ子は実在するか、というむずかしい主題になる。
 言いきってしまえば、長兵衛さん(欠片註・落語の主人公で、左官の親方)のような江戸っ子など、存在しない。が、ひょっとすると東京の下町のどこかで存在しているのではないかという願望が、百年、二百年、もたれてきた。つまりその熱っぽい願望がリアリズムに類似する化合物になって、つねに立ちのぼってきた。その気分が古典落語になったり、“寅さんとその家族”(『男はつらいよ』)という、長期シリーズをつくらせてきたのである。
 マーガレット・鳴海は、屈しなかった。
「だって、あの映画でリアリズムは“社長”だけでしょ?」
 そのくせ、マーガレットは新作が出るたびに、私同様、待ちかねて観る。


 『タコ社長』だけがリアリズムだとは呵々大笑だ。年中、愚痴をこぼしつつ手形に追われている町工場の親仁。現に、映画館の隣の席は手形の束を握った同類かもしれない。「熱っぽい願望がリアリズムに類似する化合物」になったとはいえ、やはり寅さん及びその家族は長兵衛さん同様「存在しない。」ならば、まぼろしではないか。 
 「そのくせ、マーガレットは新作が出るたびに、私同様、待ちかねて観る。」とは、訳もなく嬉しくなる。

 「寅さん」シリーズ第17作「寅次郎 夕焼け小焼け」は名作の呼び声が高い。舞台は兵庫県龍野。三木露風の出身地だ。もちろん、「赤蜻蛉」の里だ。マドンナは太地喜和子。鬼籍に入って久しいが、上質な色香が印象的だった。日本画壇の耆宿に扮する宇野重吉。飄とした演技がなんとも嵌まっていた。遥かな星霜を越えて再会するかつて焦がれた縁(エニシ)のひと。老いてなお楚々たる麗人。大女優・岡田嘉子の存在感が光った。
 寅さんがアイスキャンディーをしゃぶりながら橋を渡ってゆく。河原では子どもたちが水と戯れ、歓声が湧く。その遠景に「桑の実を小籠に摘んだ」山と裾が映し込まれ、「赤蜻蛉」が薄く流れる。長いシーンではないが、焼き付いて離れない。

 タイトル通り、今回はまぼろしのように話柄が移ろった。□