伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

自戒を込めて

2011年09月14日 | エッセー

 朝日新聞の「わたしの紙面批評」(9月13日付)に、内田 樹氏が瞠目すべき小論を寄せていた。以下、摘要してみる。
〓〓情報格差が拡大している。一方に良質の情報を選択的に豊かに享受している「情報貴族」がおり、他方に良質な情報とジャンクな情報が区別できない「情報難民」がいる。格差は急速に拡大しつつある。
 朝日などの全国紙がいまよりはるかに多くの読者を誇っていた時代、情報資源の分配は「一億総中流」的であった。(しかし、反面=欠片 註)市民たちは右から左までのいずれかの全国紙の社説に自分の意見に近い言説を見いだすことができた。
 その「情報平等主義」がいま崩れようとしている。理由の一つはインターネットの出現による「情報のビッグバン」であり、一つは新聞情報の相対的な劣化である。人々はもう「情報のプラットホーム」を共有していない。それは危険なことだ。
 インターネットでは、「クオリティーの高い情報の発信者」や「情報価値を適切に判定できる人」に良質な情報が排他的に集積する傾向がある。そのようなユーザーは情報の「ハブ」になる。そこに良質の情報を求める人々がリンクを張る。逆に、情報の良否を判断できないユーザーのところには、ジャンク情報が排他的に蓄積される傾向がある。
 「情報の良否が判断できないユーザー」の特徴は、話を単純にしたがること、それゆえ最も知的負荷の少ない世界解釈法である「陰謀史観」に飛びつく。ネット上には、世の中のすべての不幸は「それによって受益している悪の張本人」のしわざであるという「インサイダー情報」があふれかえっている。「陰謀史観」は彼らに「私は他の人たちが知らない世の中の成り立ちについての“秘密”を知っている」という全能感を与えてしまう。ひとたびこの全能感になじんだ人々は、それ以外の解釈可能性を認めなくなる。マスメディアからの情報を世論操作のための「うそ」だと退ける。彼らの不幸は自分が「情報難民」だということを知らないという点にある。〓〓 
 実に鋭い。炯眼の閃光に射竦められるようだ。特に、『難民』の生態を指摘する最後段には身震いする。論理の単純化とインサイダー情報に寄りかかる全能感。情報格差の生む大きな陥穽だ。しかも自らの在り様(ヨウ)を知らない不幸。先日石川県の海岸で、夫の誕生日のサプライズにと妻が掘った落とし穴に、こともあろうに夫婦もろとも落ち込んで二人とも死亡するという事件があった。妻が目印を見失ったらしい。なんとも悲惨で愚かしい顛末だが、嗤ってはいられない。情報格差の穴と似てなくもないからだ。
 本ブログなぞは、さしずめ『ジャンク』ブログの最たるもの。大いに自省、自戒せねばなるまい。
 小論の前半は情報事情の変遷を素描している。「貴族」と「難民」とはいかにも内田氏らしい語法だが、掴みと括りは的確この上もない。ネットのなりたちからすれば、「排他的に」集積、蓄積されるとはいかにも皮肉ななりゆきだ。
 「人々はもう『情報のプラットホーム』を共有していない」替わりに、テレビメディアの跋扈とその質的劣化も憂うべき傾向である。
 世は刻一刻と複雑の度を増している。「想定外」も頻発する。だから単純化は、時として大向こうを唸らせ惹(ヒ)き寄せる。しかし、輻湊する現実を一刀両断できるわけがない。下手をすれば跳ね返った刃がわが身を苛むだけだ。複雑な内蔵を医(イヤ)すに一刀も両断も用をなさない。小刀(メス)と細やかで雑多な用具と、優れた技量と用心深い施術こそ必要だ。頭の芯を痛めて考え続けても、容易に解は掌にできない。だが、思考放棄や停止は身を滅ぼす。まずはその前提から出発したい。だから学ばねばならぬ。学ばぬは卑しと知りたい。
 「ここだけの話」は、そこらじゅうの噂と同じだ。ユダヤ人は「陰謀史観」の常連だ。近ごろでは『都市伝説』なる新手の「インサイダー情報」もある。内田氏のいう「全能感」は、思考放棄の対価にちがいなかろう。『放棄』して空いたままの穴を、それで塞いでいるのか。夜郎自大な頑迷が知的荊棘をさらに荒蕪にするばかりだ。

 付け加えたい。現代の病弊はまだある。シニシズムである。冷笑主義だ。これが瀰漫しつつあるように感じられてならない。
 米国の著名なジャーナリストであった故ノーマン・カズンズ氏は次のように言った。
「シニシズムは知的裏切り行為である」
「悪魔よりもシニシズムの方がずっと嫌いだ」
 広島の平和記念公園には「ノーマン・カズンズ記念碑」が建つ。原爆投下の惨状に衝撃を受け、ヒロシマのルポルタージュに健筆をふるった。さらに原爆孤児の養育や被爆者の義援金活動にも情熱を燃やした。広島市特別名誉市民でもある。ジャーナリストの亀鑑、その言は重い。
 病的な暗さを纏うシニシズム。欠落しているのは愛情だ。それは「単純化」とも「全能感」とも踵を接する。知性に巣喰う癌細胞といえなくもない。“コーン”という乾いた音とともに行き来するテニスボールのような弾みがないのだ。もっともわたしの頭のようにスッカラカンゆえの“コーン”でも困るが。ともあれ、シニシズムからはなにも生まれない。これだけは確かだ。
 人生意を得ば須く歓を尽くすべし──先日も引いた。驚き、「歓を尽くす」軽やかさ。精神の青春度、知的健康度はそこにあるとみたい。□