伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

畳替え

2011年09月28日 | エッセー

 なんとかと畳は新しい方が良い、という。そのなんとかは居座った切り、退(ド)けようともしない。ならばと、畳の方を替えることにした。二十年振りである。表替えとはいえ、なんとも清々しい。気分一新どころか、住環境の一大転換である。なにせ常住坐臥に肌身が触れ合う仲である。藺草の芳しさは野に包まれるようであり、相俟って、総身(ソウミ)の触感が変わらぬはずはなかろう。ひょっとして、なんとかとはその辺りの事情を踏まえての俚諺であろうか。となれば、にわかに危うく艶(ツヤ)めいてくる。
 畳はわが国独自の文化だ。世界に類がない。平安の代に板敷との緩衝として登場した。日本文化の原型が整う室町時代に、正座の慣習とともに広まり定着していった。今またフローリングが主流となり、畳敷は脇に押し遣られつくねんと縮まっている。なにやら遥かないにしえに先祖返りしたようで、一興でもある。
 畳は吸放湿性が共に高く日本の風土に適(ア)い、断熱効果もあるという。さらには二酸化炭素を吸うため、空気清浄機能もあるらしい。もちろん頃合いの弾力が転倒の際にクッションになる。日本人の智慧だ。
 さて、畳替えの「替え」である。洋風建築ではこうはいくまい。替えるといっても、壁紙や家具、レイアウトぐらいではないか。それ以上になると、すでにリフォームだ。壁紙では気分は変わっても、環境にまで手を加えるわけにはいかない。それが同程度の手間でできる。かつ、なんとかはそのままで。まことに平和的で絶賛に値する「替え」ではないか。
 起きて半畳、寝て一畳とはいうが、まさか一畳ではない。しかし鄙の四阿である。まちがっても御殿ではない。それでもなにやら家が若やいだようだ。屋内の空気まで新鮮で旨い。当然、外観は旧態のままだが……。

 畳は替えた。あとは己がどう変わるか。畳水練ばかりでは甲斐がない。□