伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

高名の木登り

2011年09月20日 | エッセー

 やっと濃尾平野までたどり着いた。といって、旅行ではない。「街道をゆく」最終巻<濃尾参州記>である。
 全四十三巻。間歇しつつ、足掛け四年。長いといえば、長い。本来なら読了後に記(シル)すべきであろうが、あまりの嬉しさについ筆が滑った。それゆえ、「徒然草」を以て自戒したい。


 高名の木登りといひし男、人を掟(オキ)てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るる時に、軒長ばかりに成りて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ」と言ふ。
 あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。(第百九段)


 司馬遼太郎にとっては遺作である。だがそれは旅が完結したのではない。この作品が大団円を迎えたわけでもない。作者の命数が尽きるとともに、なにも綴られないままの原稿用箋が残り、氏の足跡が刻まれないままの街道が残った。だから芭蕉が大坂の地で果てた時、

   旅に病で 夢は枯野を かけ廻る

と詠ったごとく、客死といえなくもない。
 ならば、筆者の「かけ廻る」「夢」を掬い余してはなるまい。「飛び降るとも降りなん」と高を括って、「あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る」仕儀となってはなるまい。そう心得て繙きたい。
 
 司馬作品については、ほとんど渉猟した。しかし、この作品に限って読み残してきた。「週刊朝日」を定期購読する自信はない。やがて単行本になるだろうと待つうちに、つい機を逸した。なにせ25年、想像を絶する長丁場である。この連載そのものがひとつの歴史ともいえる。
 歴史といえば、氏の忘れ得ぬ名言がある。
「歴史とは、人間がいっぱいつまっている倉庫だが、かびくさくはない。人間で、賑やかすぎるほどの世界である」(「歴史と小説」から)
 「賑やかすぎるほどの世界」から街道を鳥瞰したのがこの作品だ。単なる紀行を遥かに凌駕する拡がりと奥行きはそのためだ。
 世故長けた話になるが、読後の利益(リヤク)であろうか、日本が身近になった気がする。中国、韓国、オランダ、アイルランドもそうだ。一度も行ったことはなくとも、微かな土地勘を抱けるようになった。幻想ではあろうが……。
 
 連載最終号は平成八年三月十五日号であった。作者が生者の列を離れたのは同年二月十二日、まさに今世の筆止めであった。絶筆の章末には「未完」とある。これは出版社の意匠であろうが、綴られているのは奇しくも信玄の死だ。巧まざる意匠というには、打ちのめされるほどの凄味だ。


 ついでながら、信玄はこのあと三河に攻め入ったが、野田城包囲の陣中で病を得、軍を故郷にかえす途次、死ぬ。死は、秘された。(「濃尾参州記」末文)


 「ついでながら」の六文字が胸を抉る。氏の逝去の報は衝撃だった。たまたまであったろうが、体調を崩し三日間床に臥(フ)した。
 歴史の語り部が踏み分けた彼此(オチコチ)の街道。「人間がいっぱいつまっている倉庫」が開け放たれ、諸道はみな「賑やかすぎるほどの世界」だった。
 あとは、読み手がそれぞれの「街道をゆく」のみだ。□