伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

監督に注目

2011年09月24日 | エッセー

 「キープしろ!」の声が、中継画面からたしかに聞こえた。9月8日、なでしこジャパンの五輪最終予選、北朝鮮戦でのロスタイムであった。結果はそこで失点し、ドロー。五輪出場は決めたものの、悔いが残った。攻撃は最大の防御。角力にしても、強くて全盛にある力士はダメを押す。だからあの局面で「キープ」はないだろうと、佐々木(則夫)監督の采配に少しばかりの憤りを覚えた。
 しかし、山雀利根であった。桶狭間の戦勝に絡んで司馬遼太郎は次のようにいう。
「信長のえらさは、この若いころの奇蹟ともいうべき襲撃とその勝利を、ついに生涯みずから模倣しなかったことである。古今の名将といわれる人たちは、自分が成功した型をその後も繰りかえすのだが、信長にかぎっては、ナポレオンがそうであったように、敵に倍する兵力と火力が集まるまで兵を動かさなかった。勝つべくして勝った。信長自身、桶狭間は奇跡だったと思っていたのである。」(「街道をゆく」43 濃尾参州記より)
 なでしこの戦いの型は変えるべきではなく、イシューはそれではない。「信長自身、桶狭間は奇跡だったと思っていた」──ここが肝心だ。WCが薄氷を履む辛勝であったことを、実は監督自身が一番骨身に染みて心得ていたのではないか。メンバーの疲労、最悪引き分けでの勝ち点計算、ロンドンへのロードマップなど様々に穿鑿はできるが、とどのつまりは『桶狭間』の認識だ。してみれば、この監督は只者ではない。「這えば立て、立てば歩めの……」ではないが、世の増幅するプレッシャーもある。くわえて国民栄誉賞もあった。そうした十重二十重の重圧の中での指揮である。並では務まらない。指揮官のあるべき姿──蓋し古今東西、人の世の画竜点睛ともいえる。蛇足ながら、つい最近わが国民は高い授業料を払わされた。

 著名な指揮者である小松長生氏がその著「 リーダーシップは『第九』に学べ」(日経プレミアシリーズ、本年8月刊)で、含蓄に富むリーダー像を語っている。門外漢の私にも驚きと納得が一杯詰まった好著である。長い引用をする。
〓〓「あれこれ口を挟んだり、手とり足とり指図しないでほしい」
「こちらが集中して忙しくしているときは放っておいてほしい」
「でも、リーダーからの指示が必要なときには、ちゃんと指揮してほしい」
 こまごまとした注意ばかりを繰り返す指揮者への、チームメンバーの気持ちを代弁すると、こうなるはずです。
 威圧して監視するようなリーダーや、いちいち口を挟まずにはいられないリーダーは、自分に自信がないのかもしれません。
 任せどころと指示する勘どころをわきまえるのが、リーダーの仕事だと思います。
「上司は自分の仕事に集中しているが、私たちのことにも気を配っている」「自分が今やっていることを上司はちゃんと把握してくれている」と感じられる職場は、仕事も円滑に回ります。
 逆に、みんながそれぞれの仕事をしているときに、上司がこまごまと指示をすると、「なんかうっとうしいな。どこかに行ってくれる? 席を外してくれる?」となるものです。指揮者の場合、席を外したくても外せないので、「気配を消した指揮」をすることになります。この、「気配を消す」というのは実は重要なのです。
 指揮台にいながら席を外す、気配を消すというテクニックは、「相手に気づかれず相手の背後に立つ」というような、忍者や武術の達人のような感覚です。
 指揮をしていて棒は動いているけれども、指揮者の気配は消える──。リーダーが気配を消しながら仕事をすると、メンバーは、「自分たちが今動かしている」と実感できます。
 指揮者が全部仕切って「おれの言うとおりにしろ」では、「自分たちは楽器を演奏するただの機械と思われているんだ、やっていられない」と思うのが自然です。
 任せるところは任せ、責任はすべて自分がとると腹をくくらなければ、「気配を消した指揮」はできません。全員が曲に没入し、弾いているのか弾かされているのかわからなくなるような環境を創るのが、リーダーたる指揮者の役割なのです。〓〓
 巷間伝わるあれこれの佐々木監督像を彷彿させるではないか。「おれについてこい!」の『大松型』はすでに苔生すほどに古い。「威圧して監視する」のではなく、「気配を消す」指揮者。時代が求めるものは相当に進化しているし、ハードルも高い。難題ではあるが、その一典型を佐々木監督は体現しつつあるのではないか。この監督は、なでしこ以上に注目だ。□