伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

それはちがう! 

2009年03月28日 | エッセー
 前稿を上げて2時間、正確には1時間57分後にトラックバックが貼られていた。なんとも速い! 先方は「藤原紀香・陣内智則の離婚の理由は陣内の浮気にあった」とする内容。
 以下、そのことについて感想を述べる。

 ちがい:その1 ―― 内容が見当ちがい
 おそらく「三年ぶり と 三年目 の浮気」の「浮気」がキーワードになったのだろう。関連語を使ってのコンセプト検索であろうか。人手ではなく、おそらくプログラム化されたロボット検索であろう。彼らの離婚の原因が浮気であろうがなかろうが、コンテクストがまるで違う。当方の「浮気」は出しであって、具は「ぶり」と「目」だ。風馬牛である。
 要するに、技術レベルがその程度なのだ。わたしもコンセプト検索はよく使う。関連する語句を援用して検索するのがやっとで、コンテクスストをきっちりと押さえてのサーチはまだまだだ。ヒットし過ぎる。絞り込みは結局のところ、キーワードで、ということになる。そこにいくと、グーグルは凄まじい。トップシークレットだそうだが、あの検索レベルの高さの秘密はなんだろう。輪郭は判るが大いなる謎だ。

 ちがい:その2 ―― 間隔と人数のちがい
 前項は浮気の『間隔』にこだわった。「ぶり」と「目」のちがいをあぶり出すためだ。そのためにカラオケの定番デュエット「三年目の浮気」を借りた。人数なぞはまったく思慮の外であった。ところがトラックバック先の情報によれば、陣内くん、人数が半端ではないらしい。もちろん、実人数だ。垂涎の的ともいえるが、石田純一くんのように「不倫は文化だ」と一気に形而上学にしてしまうほどの度胸も頭脳もないらしい。「芸人の妻。2、3人までは」と公言していた紀香女史も、さすがに「大目に見」るわけにはいかなくなったのか。
 これで「明るく楽しく笑いの絶えない家庭にしたい」(後述)との希望は断たれる次第となったが、『希望』を叶える有力な秘策を紹介したい。
 以下、養老孟司著「養老訓」(新潮社)から抄録する。
 〓〓夫婦で向かい合って話す様を想像なさってください。正面から向かい合って話す、というと聞こえはいいのですが、実はこんなに互いの感覚が異なる話し方も無いわけです。向かい合って話しているときぐらい、互いの見ているものが違う状態はありません。お互いに相手の見えないものしか見ていないといってもいいくらいです。私には家内の顔と彼女の背景しか見えていない。向こうには私の顔と背景しか見えない。実はそっぽを向いているのと同じくらいに、互いの見ているものは重なり合わないのです。二人きりで暮らすと、一年も経たないうちに喧嘩をする原因のひとつが、向かい合いすぎることなのです。
 ところが、ぶつかってしまうことの原因を今の人は、「性格の違い」「価値観の違い」と解釈して納得してしまっている。その挙句にバラバラ殺人事件を起こしてしまうような夫婦までいました。これも「二人で親密に暮らせば同じ感覚を共有できる」とどこかで勘違いをしているからです。むしろ二人で親密に暮らせば暮らすほど、感覚世界は違ってしまう危険性すらあることに気づかなければいけないのです。特に相対した場合、感覚は異なってしまうことを頭に入れておいてほしいのです。
 コスタリカに行ったときに面白いことに気がつきました。レストランで食事する恋人同士や夫婦が、横に並んで食べていたのです。彼らは「向かい合うとろくなことはない」と気がついているのではないでしょうか。イタリアでも恋人同士ならば直角に並んで食べるそうです。だから夫婦は直角に向かい合うのが正しい、と私はいつも言っているのです。
 夫婦は二人で暮らすのだから、外から見ると、必ず合力になります。直角はなぜいいか。二つのベクトルが直角になっているときに、力はいちばん大きくなります。いちばん無駄なのは、お互いの向いている方向が正反対なときです。まったく同じ向きはどうでしょう。これは良いようで、そうでもない。実は長いほうで済んでしまう。力はなかなか足せないので、長い方だけあればいい。〓〓
 つまり「夫婦は向かい合わない!」これが秘中の秘、極意である。

 ちがい:その3 ―― いくつかのちがい
 まことに汗顔の至りではあるが、拙稿を引用したい。07年2月22日付「奇貨可居」を抄録する。
 〓〓たかが芸人の他愛のない戯(ザ)れ事とうっちゃっておけばいいのだが、どうにもオカしいのである。
 先日(2月17日)、お笑い芸人J君と俳優F嬢が神戸のI神社で挙式をなさったそうな。新聞は「同神社はこの日、一般客の立ち入りを禁止し、周囲を高さ約3メートルの紅白の幕で覆ったが、約300人の報道陣とファン約400人が詰めかけ、周辺が一時混雑した。」と伝える。なんと、F嬢は十二単(ジュウニヒトエ)、J君は束帯(ソクタイ)姿。テレビで拝見したところ、どこの宮家かと見紛うばかり。式後、白無垢姿で記者会見したFさんは「明るく楽しく笑いの絶えない家庭にしたい」と仰せになったとか。これもいつかどこかで聞いたお言葉だ。吹き出しそうになったのを堪(コラ)えて、飲んでいた珈琲が鼻に逆流してしまった。尾籠な話で失礼。
 オカしいのは挙措だ。静止している分には、それなりに古式ゆかしく厳かでもある。しかし動き出すと、途端にいけない。何ともてんでにぎこちない。身のこなしは誤魔化せない。テレビや映画だとカメラワークで上手く撮れるのだろうが、ニュース映像ではそうはいかない。馬子にも衣装ではなくなってしまうのだ。
 何十年と和服で暮らしてきた人、偶(タマ)に着る人。動きを見れば、素人目にだって分かる。学芸会レベルの盛装では御里が知れるというものだ。
 さらに一つ。
 芸能誌を筆頭に報道陣が300人。日曜日ということもりニュースの薄い日ではあったが、それにしてもオカしい。このような虚仮威しに、はたして報道の価値があるのだろうか。「平和ボケ」の一現象と括るのか。あるいは、ひょっとして奇貨可居(キカオクベシ)か。
 日本は、類い稀なる身分に隔てのない社会である。西欧流の貴族階級もなければ、泥沼のようなカーストもない。
 一介の芸人が殿上人を気取っても、何の咎め立てもされない。どころか、周りがはしゃぐ。そうなのだ。『学芸会』の亜種なのだ。同級生がたまたま演じるヒーローとヒロイン。
 わが国の世界に冠たる無階級性を大いに喧伝することとなった今回の挙式。めでたい限りである。やはり、奇貨可居か。〓〓
 つまり、タカアンドトシなら「皇族か!」とツッコミが入るような勘違い。ぎこちない動き、御里が知れる挙措のちがい。学芸会レベルのイベントに群がるマスコミの報道姿勢。本来の役割と違うだろう、と。だが、待てよ。無階級社会の日本で、芸人風情がハイソの向こうを張る。張れる。この珍奇な逆転が、奇しくも階級の違いなぞないことを証明しているのではないか。だから、奇貨可居ではないか。と、こんなことを嘯いたのである。
 この大言壮語、今もって些かも『ちがい』はない。

 トラックバックを見た第一印象は「それはちがう!」であった。どう違うのか。横道にそれつつ感想を述べた。 □


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