伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『貞子』の一撃

2008年09月16日 | エッセー
 浅田(次郎)御大も愛犬の散歩中、この一突きをくらったそうだ。どこだかは忘れたが、随筆「勇気凛凛瑠璃の色」に激痛の体験が綴られている。ドイツでは「魔女の一撃」という。日本名の「ギックリ腰」よりは洒落ている。しかし、痛い。

 10日前、わたしもこの一撃を受けた。こんなにキツイのは7、8年ぶりであろうか。仕事中、椅子から立ち上がろうとした時である。まさに不意を衝かれた。完全に無防備であった。別に重いものを持っていたわけではない。しかし人体のパーツのうち一番の重量物である頭部を含め、上半身を常に支えているのが腰である。つまり、いつも重いものを持っているのだ。これを失念してはならぬ。

 「魔女」といえば、この国では「リング」の山村貞子である。テレビ画面ではなく床からぬぅーと両の手が伸び、否応なしに引きずり込んでいく。『貞子の一撃』である。抗いようがない。蹲って介助の手を待つほかはない。褥に張り付いた3日間を堪え、人類の進化を準えるがごとく二足歩行に挑み、整骨院での責め苦に呻き、やっと人並みに戻れたのが1週間後であった。今もって腰には厳重にコルセットが巻き付けられている。

 わたしのギックリ腰は30数年にも及ぶ年季が入っている。この長年月の経歴はわたしの唯一といっていい誇りだ。寝返り30分という猛攻と幾度も闘ってきた。十全な経験の果てに、近年は筋金も入ってきた。もちろん腰にではないが。それなりに知恵もついてきた。「来るな!」という予兆を捉えるまでに熟練していた。気象庁の緊急地震速報を凌ぐ速さと正確さ。そして迅速、的確に対処し、大過を未然に防いできた。したがって有段者の域を超え、免許皆伝の境地に達しようとしていた。同じ一撃に苦しむ輩(トモガラ)には顔で同情を装いつつ、「オレは免許皆伝だから、そんな無様なことにはならない」と心中せせら笑ってきたものだ。
 ところが、怖いのは慢心である。これは、いけない。こころに慢が忍び入ると油断を誘発する。油断は判断を曇らせる。対処を鈍らせる。排すべきは慢心である。

  むかしインドで王様が臣下に、頭に載せた油壷から一滴もこぼさずに町中(マチナカ)を歩けと命じた。こぼしたら首を断つ、と。「油断」の来由である。「油」と「断」の間を、内容を端折り言葉をくっつけた表現である。正確には『零油断首』か。肝心なのは、断たれるのは油ではなく首である点だ。注意力の散漫が命取りになることのメタファーであろうか。ともかく、慢心による油断。今回の七転八倒はこれに尽きる。

 腰痛に苦しむ日本人は半数以上に上る。分けてもギックリ腰は罹患率が高い。オヤジの権威が失墜したいま『地震 雷 火事 ギックリ腰』ではないか。忘れたころに『貞子』の手は伸びる。ビデオテープをダビングして済む話ではない。第一、いまやDVDの時代だ。 □


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