伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『アメリカ オリンピック』が始まる

2008年09月01日 | エッセー
 ウサイン・ボルトが胸をポンとひとつ叩き両手を拡げてゴールを駆け抜ける。9秒7の壁を破る9秒69、ワールドレコードで圧勝。北京五輪、名場面のひとつだ。「だから、どうした?」と訊かれれば二の句が継げない。ところが、こちらの決勝は「だから、どうした?」では済まない。なぜなら ――
 「アメリカは大きな国だ。そのトップを選ぶにも1年をかけてじっくり練り上げる。さらに世界最強の国だ。プレジデントはオーバーキルの核ボタンを握る。いわば人類の生殺与奪の権を掌中にしている。その人物を選ぶ権利が他国には認められていない。これはおかしいとの議論がある。もっともなことである。夢想に属する話だが、核保有国のトップは自国民のみならず、他国民も挙(コゾ)って選出する仕組みを考えるべきだ。国連事務総長とは訳が違う。なにせ世界の死命を制する人物である。他人事ではない。」(2月3日付本ブログ「2008年1月の出来事から」)
 北京は28競技、参加国204、選手数は1万人。こちらは1競技、2人きりの競り合いだ。たがその結果は優に204ヶ国を超え、地球規模の影響を及ぼす。同じく4年に一度の開催。問題は、前記のごとく参加国が米国だけに限られることである。
 先日、予選は終わった。あとは11月の決勝。ひとりの人間が全米の、否、実質的に全世界の政治的頂点を目指す。バラク・オバマが勝てば初めてのアフリカ系大統領の誕生だ。I Have a Dream ―― 45年前ワシントンDCのリンカーン記念公園でマーチン・ルーサー・キングが語ったその夢が、ひとつの結実を迎えるかも知れない。「夢」はキングの夢であると同時に、人類の夢でもあろう。米国史を画すだけではなく、世界史にエポックを穿つ出来事となるだろう。

 オバマは演説の名手と評される。筆者、日本の生活が長すぎて原語では理解がゆかぬ。そこで、新聞報道を便(ヨスガ)に事情を探ってみる。
〓〓米民主党の大統領候補に指名され、米史上初のアフリカ系(黒人)大統領をめざすバラク・オバマ上院議員(47)は同党全国大会最終日の28日夜(日本時間29日午前)、コロラド州デンバーのフットボール競技場で8万人余りの観衆を前に指名受諾演説を行った。「米国をチェンジ(変革)する時だ」と訴え、ブッシュ政権の8年間との決別を呼びかけた。
■ オバマ演説 5つのキーワード  
①PROMISE(約束)32回
 「アメリカの精神、アメリカの約束こそが、今後の道が確かでない時も我々を前進させ、違いを乗り越えて結束させてきた」
②CHANGE(変革)17回
 「いまこそ我々がアメリカを変革する時だ。そして、それこそが私が合衆国大統領に立候補している理由だ」
③WORK(働く、労働)35回
 「懸命に働き・奉仕し・文句を言わない。それが私の知っている米国人たちだ」
④FAMILY(家庭、家族)11回
 「勤勉さと自己犠牲を通じ、個人が自分の夢を追求しつつ、『ひとつの米国』という家族として結束でき、次世代の夢も保証できる ―― そうしたアメリカの約束こそが、この国を際だたせてきた」
⑤WASHINGTON(ワシントン=既存政治の意で)11回
 「我々が必要とする変革はワシントンからは来ない。変革がワシントンに来るのだ」
※28日の指名受諾演説から。単語の回数は複数形や派生語を含む。〓〓(08年8月30日付朝日新聞から)

①「約束」
 メイ・フラワー号でアメリカ大陸へ渡ったピルグリム・ファーザーズにとって、アメリカは「約束の地」であった。ピューリタンたちが旧約聖書の「出エジプト記」を再現した、宗教の名による入植であった。この肇国の歴史はアメリカの琴線である。「アメリカの精神、アメリカの約束」とは、すなわちそのことだ。神に授けられた国が最も繁栄し、世界に冠たる地位を占めることは救いの証となる。32回登場した「約束」は、8万の聴衆はもとより全米の人びとの琴線に触れる言葉だ。見事に勘所をおさえている。
②「変革」
 予備選からのキャッチフレーズだ。同じワン・フレーズでも。どこかの宰相のそれとは一味も二味もちがう。直接的には8年ぶりの民主党政権の復活を指す。二大政党制の良質な部分が機能するかかどうか。皮肉にも、変革を可能にしたのは『世界の保安官』ブッシュその人だ。
③「労働」
 サブプライム問題に象徴されるアメリカ経済の陰りが背景にある。失業率が8%を超える州も出てきた。虚業、マネーゲームから目覚めよ、とのメッセージも滲ませたのか。罪深き人間は質素に暮らし、ひたすら勤勉であり、隣人愛に生きる。それでこそ神の救いはある。極めて宗教的なトーンだ。だが世界のパラダイム・シフトをどう捉え、どう処するのか。一筋縄ではいかない難問が横たわる。
④「家族」
 これもピューリタニズムに裏打ちされたメッセージだ。新味というか、首をひねるのは、「『ひとつの米国』という家族」のフレーズ。ミシェル夫人も演説のテーマを「ワン・ネーション(1つの国家)」にするらしい。
 ひっかかるのは国を家族に準(ナゾラ)え、ネーションと呼ぶ点だ。司馬遼太郎はかつて講演の中で次のように語った。
 〓〓地生えの国がありますね。日本もそうですし、韓国も昔から国です。フランスもスペインもイギリスも、たいていは地生えできています。一方でアメリカ合衆国のように人工的につくられた国もあります。地生えの国々をネーションと呼び、人工的につくった、つまり法によってつくられた国をステートと呼ぶことにします。もっとも、ネーションとして始まった国々もやがてステートにならざるをえなくなります。フランス革命以後、国家というのは、一個の法人であり、憲法その他の法律により、隅々まで治められる。それが近代国家というものでした。〓〓
 まさか先祖返りではあるまい。アメリカ国籍を持つ人はいても、「アメリカ人」はいないと、よく耳にする。ネイティヴはインディアンだけだ。それでも敢えて「家族」で括り、「ネーション」と呼びかける。それほどにこの国の骨格は弛んでいるのであろうか。
⑤「ワシントン」
 ②と同義である。「変革はワシントンからは来ない。変革がワシントンに来るのだ」は、いかにも「アメリカ」だ。永田町の連中がこんなフレーズを口にしても、キザかギャグでしかなかろう。
 オバマの弱点は経験不足とされる。これはバイデンを副大統領候補に据えることで補えると読んだ。しかし、「ワシントン」との自家撞着はないか。
 さらに、マケインの健闘だ。ここにきて、にわかに接戦の様相を呈してきた。一部の分析によると、ヒラリー・クリントン支持者の27%がマケイン支持に回ったらしい。これがマケイン急追の実態だそうだ。敵の敵は味方、これもいかにも「アメリカ」だ。

 オバマはケニア移民を父としスウェーデン系白人を母として、米本土ではなくハワイで生まれた。幼少期を再婚した母親と義父の国インドネシアで送り、コロンビア大、ハーバード大学へと進む。卒業後は人権派弁護士として名を挙げ、社会運動に参加。04年、上院議員に当選した。黒人奴隷の末裔でも、アメリカンドリームの体現者でもない。言わばハーフで、エリートコースの完走者である。ほとんどのアメリカ人にとって共感の土壌はないだろう。だからこそ、「アメリカ」を言挙したのかもしれない。① ③ ④は特にそうだ。小憎いほどに巧みだ。さらにこの出自が巷間に浸透すれば、初の黒人大統領に拒絶反応を示す1割弱の米国民にどう影響するか。『障害物競走』は予断を許さない。

 「アメリカでは薪割り下男と大統領と同格であるというぞ。わしは日本を、そういう国にしたいのだ」
 「桂さん、幕府はどうしたって倒さなければいけない。なぜかといえば、アメリカの大統領は、下女の給料の心配をしてるんですよ。日本の将軍で、下女の給料を心配した者が一人としてありますか。これだけでも、徳川幕府は倒すべきです」
 司馬遼太郎著「竜馬がゆく」に登場する坂本竜馬のことばだ。英傑の直感は見事に民主主義の本質を捉えた。彼は将来に大統領制を構想していたという。なんと気宇壮大な。このような人物を歴史にもちえたことは一国の誇りである。あとは宗家が竜馬の理想を裏切らぬよう願うばかりだ。

 いよいよ始まる『アメリカ オリンピック』! 胸をポンとひとつ叩き両手を拡げてゴールを駆け抜けるのは、はたしてどちらか。 □


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