伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

自販機の前で

2012年11月30日 | エッセー


 自動販売機と向き合って喰っているようであった。板前の姿はまったく見えない。流れてはいるが、別に注文があればディスプレイをタッチする。すると、新幹線を模った皿が別のベルトを走り、目の前でピタリと停まる。回転寿司業界に現れた新しいタイプである。新しいといっても筆者が知らなかっただけ、この片田舎への進出が遅れただけであろうが。
 対面するものは機械。板がないから、板さんとの遣り取りもない。味気がないこと、この上ない。だから自販機の前でひたすら寿司を摘まんでいるような格好になる。これではまるで養鶏場の鶏だ。もう二度と来ないと決めて、店を出た。
 それに引き比べて、以下のようなエッセーに接すると溜飲が下がる。


 祖父とソバ屋に入ったとき、ほんのわずかの時間如(ウ)で上がったソバが調理場の窓に置いてあったという理由で、スッと席を立ってしまった。ひからびたソバなんざ食えるか、というわけだ。
 また、祖母と寿司屋に行ったとき、注文したとたんにチラシが出た。祖母はムッとして、腹をすかせた孫たちに、これァ食っちゃあいけないよ、お茶を飲んだら出よう、と言った。わけもわからず、言われた通りにした。後で聞いたのだが、そのチラシはあらかじめ作ってあったか、もしくはネタが切ってあったにちがいないと言うわけだ。(略)
 伊豆栄に鰻を食いに行ったとき、なかなか出てこないので「遅いね」と言ったら、両方からゲンコをもらった。蒲焼は旨いものほど手間をかけて焼くので、督促はご法度、というわけである。もちろんその逆に、早い鰻の場合は二人ともケッと笑ってたちまち席を立った。
 しかし食わずに店を出るときは、祖父も祖母も必ず勘定を払い、釣銭は受け取らなかった。(浅田次郎著「君は嘘つきだから、小説家にでもなればいい」文藝春秋)


 実は筆者には秘めた野望がある。それは三つ星級のレストランに入って喰い終わった後、大きな声で「不味い!」と言ってやろうという馬鹿げた謀である。世評が当てにならないことを自らが確かめ、権威を笑ってやりたいのだ。もしもその言葉を飲み込むほどに美味であれば、大仰に「美味しかったー!」と誉めそやしつつ店を辞するのみだ。ただし、地団駄を踏みつつ。
 大人気ない仕儀であり、かなり屈折した心理であると咎められれば首肯せざるを得ない。ただ、この企みは今日まで果たせないでいる。なにせこの近辺、星は夜空にごまんと輝いているが、三つ星レストランなどというものはただの一軒もないからだ。
 決して食通ではないが、「美味い」は年に三度しか言わないと決めている。生憎、今年はいままで一度もない。自分の味覚レベルを常に高次に保つことが贅沢だと心得ている。高級品を食するのが贅沢ではない。田舎料理であっても、唸るほどの絶品に偶会できれば相当な贅沢ではないか。
 人が感じる美味い、不味いの境界線は「お袋の味」にあるそうだ。今では子どもたちの「お袋の味」がコンビニ弁当になりつつあるという悲喜劇を聞いたのは、随分前だったような気がする。日本の食文化は、この先果たして大丈夫であろうか。
 立ち止まって見渡すに、浅田氏が語る祖父母のような存在が絶えて久しい。『イクジー』などという好々爺ばかりになった。美味いものとの体面の仕方が伝承されなくなってきている。一つの大きな文化的欠損である。だから孫の手を引いて新型回転寿司に入るイクジーは、余程のイクジーなしと断ずるほかない。 □