伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

名作に学ぶ

2012年11月02日 | エッセー

 ラ・マンチャに一人の貧しい郷士が住んでいた。大好きな騎士道小説に耽るうち、ついに自らを伝説の騎士と信じ込んでしまう。「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と上位の貴族を僭称し、騎士と高言して世直しの旅に出る。
 騎士物語通りに騎士には美しい片思いの姫が必要だと考え、ある醜女の田舎娘に「ドゥルシネーア」という貴婦人名をつけて幻想の恋慕を始める。
 宿屋を城に亭主を城主に幻視し、騎士の叙任を願い出る。ドタバタの偽りの叙任式が終わり、路銀と従者を用意するためいったん村へ。途次、悶着を起こし打ちのめされる。
 こんな事になったのは件の小説のせいだと回りの者たちがことごとく焚書し、彼には魔法使いの仕業だと告げる。納得し、再び旅へ。お供は少し足りない農夫のサンチョ。手柄を立てて島を手に入れ、そこの領主にしてやるとの約束を交わす。
 そして風車の群れに遭遇。ドン・キホーテには巨人に見える。さあ、対決だ。全速で突撃はしたものの、哀れ、吹き飛ばされてしまう。諌めるサンチョに、我を妬む魔法使いが手柄を取らせぬため巨人を風車に変えたのだ、と譲らない。
 旅から戻ったドン・キホーテの前にカラスコという学士が現れる。ドン・キホーテを狂気から戻そうとする人物である。
  三度目の旅。出発にドゥルシネーアの祝福を受けたいと、彼女を呼んで来るようサンチョに命ずる。サンチョは困惑する。なにせドゥルシネーアは幻想、モデルの田舎娘も杳として知れない。一計を案じて、田舎娘を三人連れて来る。一人がドゥルシネーア、二人がその侍女だ、と。ドン・キホーテは偽物だと見抜いたものの、魔法使いによってドゥルシネーアが田舎娘に見えるようにされてしまったに違いないと嘆く。
 「鏡の騎士」との邂逅と、決闘。勝って兜を剥がすと、なんと学士カラスコではないか。ドン・キホーテを打ちのめして目を覚まさせようとしたのだ。しかしドン・キホーテは、カラコスは魔法使いの化身だと言い張る。
 ライオンとの決闘。何度挑発してもライオンは寝転んだまま、まったく相手にしない。ドン・キホーテは不戦勝だとして、「ライオンの騎士」と名乗る。
 公爵夫人との出会い。居城へ招待され、大層な歓待を受ける。実は夫人がドン・キホーテ主従を揶揄する企みだったのだが、逆に彼は自らが正真正銘の遍歴の騎士であると確信する。
 さらなる果たし合い。敗北。病。……死。

 聖書に次ぐ出版部数を誇る超弩級ベスト“&”ロングセラーだ。滑稽な物語りに込められた批判精神。数々のメタファー。老いてなお夢と正義に生きる感動の勇姿。時代によって評価はさまざまだが、ドストエフスキーの絶賛はつとに有名である。
 さて、なにを学ぶか。名作、大作ほど数多くの切口をもっている。上記の梗概は、わたしにとって印象深いシーンを軸にした。
   貴族を僭称し騎士と高言。
   世直しの旅。
   田舎娘への幻想の恋慕。
   焚書は魔法使いの仕業と納得。
    偽りの叙任式。
    魔法使いが巨人を風車に変じたと強弁。
   魔法使いがドゥルシネーアを変身させたと慨嘆。
   カラコスは魔法使いの化身と盲信。
    ライオンのネグレクションを不戦勝と牽強附会。
   揶揄の歓待を正当への賞讃と確信。
 サイコロジーでは興味が尽きぬところだが、それにも筆者は不案内であるため詳らかにはできない。ただ頑迷な先入主が自らを相対化する妨げになるどころか、現実の「意味」を変えてしまうことだけは解る。「プロクルステスの寝台」である。美醜の倒錯。正邪の逆転。善悪の転倒。幻想、幻視。カエサルの箴言「人は見たいものしか見ない」の「見たいもの」が病的に高じた挙げ句の悲劇、もしくは喜劇であろうか。

 I元知事の一連の報道に触れて、名作が浮かんで来てならない。如上との個別の対応は記さない。洒落の解説同様、艶消しになる。お読みいただく方の御高察にお任せしたい(一興にはなる)。
 だが名作は勿体なかろう、それほどのものでもあるまいともいえる。しかし世に言う「年寄りの冷や水」もしくは「年寄りの木登り」と括ってしまっては、余りに身も蓋も無いような……。 □