伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

をかし

2012年11月23日 | エッセー

 小春日和と時雨が交互にやって来て、やがて冬がでんと居座る。いつも季節の端境は行きつ戻りつだ。
 その揺蕩うさまが、このごろ、愛おしい。
 青年を抜けるまで天候は日々の関心事であっても、気候に意を用いたことはなかった。ちかごろは二つが逆になりつつある。気候に敏に、天候には鈍に。
 万朶の桜は学校のはじまりにあったはずだが、少年の記憶にはない。華やかな事どもの書き割りとして、振り返って描き足されるにすぎない。明らかに、時の巡りが緩慢になった。その分、気候に向き合えるのかもしれない。

 暖かい陽が差して、木漏れ日が揺れる。季節が目眩ましを呉れているようだ。小春日。時ならぬ日和を一足飛びの春と勘違いしてみせた先達の名付けは、小粋な滋味を醸す。
 強い風が吹いて、一頻り降っては過ぎる。冬の呼び水か、木枯らしの先駆けか。時ならぬのか、頃合いなのか。どっちつかずのままを時雨と洒落た古人の風雅。なんとも心憎い。
 そうして、ひたひたと玄冬へ移ろう。
 
   春は、あけぼの。
   夏は、夜。
   秋は、夕暮。
   冬は、つとめて。

 「をかし」には距離感がある。四季の極みを約め、乾いた言の葉を潔く措いてゆく。「あはれ」にはない醍醐味だ。平安の女流文豪、双璧を比するにいとをかしだ。
 
 自然。
 じねんと読めば、山河草木、われらを囲繞する天然をいう。
 しぜんと読めば、人知の及ばぬ不測の事態を指した。
 二つの様には大きな径庭がある。片や恵みであり、片や災いである。しかし先人は同じ文字を用いた。奥深いところでは同根であると視たか、一つを二面から捉えたか。前賢の叡智だ。
 今は後項は退き、前項のみの謂となった。だから如上は読みを外して、じねんに纏わるありさまを記したことになる。

 案に落ちて、今年も小春日和と時雨が入れ違いつつやって来た。晩秋から初冬への揺らぎ。人事は師走へと忙しなく流れるものの、じねんのあはれに浸りつつ、をかしを玩味するのも一興だ。 □