伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ナマポ?? 

2012年05月28日 | エッセー

  時々、なぜか割り切れない報道がある。生活保護騒動で、お笑い芸人のK君が詫びた。「むちゃくちゃ、認識が甘かった」と。芸能人に対して過剰に倫理性を求めるべきではないとうのが筆者のスタンスだが、それにしても腑に落ちない。
 本当に「甘かった」のだろうか。むしろ、「知らなかった」のではないか。民法第877条には「直系血族及び兄弟姉妹は、互に扶養をする義務がある。」と規定されている。次項には「家庭裁判所は、特別の事情があるときは、前項に規定する場合の外、三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。」とまで定められている。それほどまでに重い軛があることを、彼は知らなかったにちがいない。
 世には、自らの夢を捨ててまでその義務を忠実に履行する数多の民草がいる。いなむしろ、世間はそういう律儀な衆庶で成り立っている。だから「甘かった」とは、極めて罪深い物言いだ。いっそ、「知らなかった」と言った方が合点が行く。胴元の吉本興業はなぜ教えなかったのか。芸人たちの無知は身近で一番よく判っていたはずだ。
 生活保護法第1条には、「日本国憲法第25条 に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする制度である。」とある。貧困対策の歴史は古い。はじめは律令国家が手掛けた。光明皇后治下の「悲田院」「施薬院」は高名だ。江戸時代には、「お助け米」「お助け小屋」があった。明治政府は早々に「恤救規則」を制定している。昭和初期には「救護法」が制定された。推移を注視すると、慈恵、つまり上からの救済から国の責務へと法的トポスがシフトしている。裏返せば、困窮者にとって被救済者から権利者へのシフトといえる。それを声高に主張する識者もいるが、筆者は躊躇せざるをえない。
 内田 樹氏が倫理を基礎づけるものは何かについて、次のように考究している。

◇共同的に生きてゆく上でもっとも合理性の高い生き方を私たちの祖先は「倫理」と名づけた。倫理は合理性の前にあるわけではない。ことの順逆を間違えないようにしよう。
 「倫理」の「倫」とは「相次序し、相対する関係のものをいう。類もその系統の語。全体が一の秩序をなす状態のもの」すなわち「共同体」のことである(白川静『字通』)。すなわち、「倫理」とは「共同体の規範」「人々がともに生きるための条理」のことである。
 「倫理」が「共同体にとっての合理性」のことである以上、「合理性と背馳する倫理」というのは、原理的にはありえないはずである。
 短期的には合理的だが、長期的には合理的でないふるまいというものがある。あるいは少数の人間だけが行う限り合理的だが、一定数以上が同調すると合理的ではないふるまいというものがある。ある戦略が「長期的に継続しても合理的かどうか」「一定数以上の個体が採択した場合にも合理的かどうか」については、かならず損益分岐点が存在する。しかし、それを見切れるのは卓越した知性に限られており、私たちのような凡人にはなかなかむずかしい。だから、共同体の合理性を配慮して、「長期的に継続した場合」や「一定数以上の個体が採択した場合」にはベネフィットよりもリスクが高くなるような生存戦略についてはこれをまとめて「非」としたのである。
 倫理的でない人間というのは、「全員が自分みたいな人間ばかりになった社会」の風景を想像できない人間のことである。◇(文春文庫「街場の現代思想」より抄録)

 生活困窮者が圧倒的多数を占めた場合、社会は危殆に瀕する。だから貧困者救済は「共同体にとっての合理性」に適う。となれば、慈恵や権利であるよりも倫理的ムーブメントではないか。「損益分岐点」が難題となるが、期間と個体数を仮想的に増加させてみれば判断はつく。他民族への排斥はリスクが圧倒的に高い。貧困者への救済は逆に、ベネフィットがリスクを遙かに凌ぐ。

 『ナマポ』──新語である。生=ナマ、保=ポだ。ネットで飛び交っている。「ナマポの手引き」なるものまである。生活保護を受給するための手軽な案内書だ。前述した「権利者へのシフト」の成れの果てである。「倫理的でない人間というのは、『全員が自分みたいな人間ばかりになった社会』の風景を想像できない人間のことである」とは実に鋭い洞見だ。おそらく、筆者の「躊躇」はここに発する。 □