説教を喰らっているのに、教師にこれをやって輪をかけて叱られたアホな級友がいた。
「ガチョーン」である。
戦後最大のお笑いギャグではなかろうか。初出は昭和34年──。
「少年マガジン」と「少年サンデー」がともに、この春創刊。天覧試合で長嶋茂雄がサヨナラ・ホームランをかっ飛ばしたのが6月。カミナリ族が横行し、岩戸景気に沸いた。9月に伊勢湾台風に急襲され甚大な被害を出したものの、一国挙げて高度経済成長の只中を驀進中であった。この3年前国連加盟の際、日本政府は「もはや戦後ではない」と高々と広言した。
歌謡界ではペギー葉山「南国土佐を後にして」、スリー・キャッツ「黄色いさくらんぼ」、 水原弘「黒い花びら」、小林旭「ギターをもった渡り鳥」、三波春夫「大利根無情」などなど。テレビでは「番頭はんと丁稚どん」、「ポパイ」、「おかあさんといっしょ」、「ローハイド」、「旗本退屈男」……と、この辺にしておかねば滴り落ちた泪でキーボードが壊れる。
そういう時代に、「ガチョーン」は炸裂した。団塊の世代でこのギャグを真似なかった人は、おそらく一人もいないだろう。いれば、無形文化財だ。事々ノりやすい筆者など、日に4、5回は相手構わずカマしていた。
『創始者』は谷啓。麻雀で常用していたものを転用したらしい。追い詰められた時や場面転換などに用いる。カマされた相手や周囲は見事にずっこける。つまりは状況をカットアウトし、シャッフルするための切り札である。大袈裟にいえば、ゴルディオスの結び目を一刀両断するアレクサンドロス大王の剣である。
なぜ生まれたのかはいい。なぜ流行ったのだろう。ギャグが風靡するには、素地があるはずだ。やはり前記した右肩上がりの国勢を思慮に入れぬわけにはいかない。人の一生とて同じ、成長期、青年期にはいくらでもやり直しや取り返しはできる。トライアンドエラーだ。何度でもリセットが効くからこそ、「ガチョーン」だ。カットアウトし、シャッフルしてリトライである。まことに当時の本邦にお誂え向きだったといえる。
さて当節はどうか。世の回転が速いだけに長命を保つギャグはほとんどない。なお商量するに、柳原可奈子はいかがであろうか。女子高生やブティック店員など、素材を世相から切り取ってくるだけにオーダースーツの型取りといえなくもない。少し古いが特に、不機嫌な表情から一転して手を叩きながら「は、は、は」と高笑いするシーン。あれは絶妙だ。
ブレイクしたのは平成19年。熊本の慈恵病院に「赤ちゃんポスト」が設置され、内閣には少子化担当大臣が正式に置かれた。年初より国政は年金記録問題に揺れた。福島瑞穂先生をして「僕ちゃんの投げ出し内閣」と言わしめた安倍首相突然の辞任があり、『内閣の1年交代制』がスタートした年だ。またお笑いタレントが「そのまんま知事」に立身したのはよいが、鳥インフルの猛威に襲われた。歌では、前年から引き続いて「千の風になって」が日本中に吹きまくった。年間の自殺者が3万人を超え始めて、10年になろうとしていた。そんな年だった。右肩下がりが顕著になり閉塞感が深く漂いはじめた、と括れば一絡げに過ぎようか。『幻滅の政権交代』は2年後である。
戦後の社会システムにクラックが入り、アモルファスに近似していく。今や、「カットアウトし、シャッフルしてリトライ」なぞ夢のまた夢である。「ガチョーン」は不能だ。となれば果てもなく鬱屈してしまうか、緊急避難的に不自然な上機嫌に塗れるほかあるまい。擬似多幸症だ。
柳原可奈子が演じるあのコンテクスト不明な哄笑は擬似多幸症の表徴ではないか。となれば、笑って見ていられるほど存外事は軽くない。彼女の鋭敏な感性が捉えた現代日本のトリヴィアルな一齣。奇しくもそこには本邦の抱える病が凝っている。
で……、「ガチョーン」といけないのが口惜しい。□