伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

500回記念 我田引『稿』

2012年01月14日 | エッセー

 本稿で500回を数える。笹の葉に鈴と嗤われるかもしれない。嗤われついでに、我田引水ならぬ我田引『稿』を赦されたい。自信作を選んでみた。それも10本。億面もない手前味噌、能天気な自画自賛である。再読してみようなどという慈悲深い方はまずいないであろうが、投稿の日付を記すのは死ぬほど暇な時の便宜のためである。(投稿順に並べた)

【野球 大発見】 06年3月28日
 「野球は将棋である!」という持論を開陳した。腰だめの計算だが、正味のプレー時間は3割に満たない。競技時間のほとんどが「読み」に費やされるという極めて特異なスポーツである。だから野球はスポーツにおける将棋であると、随分捻った野球文化論であった。


【キケンな本】 06年8月24日
 知己に紹介された浅田次郎作品「勇気凛凛ルリの色」。七転八倒の『笑苦』に苛まれた。以後、囚われの身となる。希代のストーリー・テラー。群を抜く卓越した『言葉使い』(猛獣使いの「使い」と同義)。物書きの大志を抱いて後、苦節、屈折30年。遅咲きの大輪の華。昨年、ついに日本ペンクラブ会長にまで昇り詰めた。『ノベリスト・ドリーム』の体現者ではないか。
 爾来万度(バンタビ)、本ブログで作品を使わせていただいている。まことに得難き作家である。
 

【秋、祭りのあと】 06年9月30日
 ブログ・タイトルに借用しているように、吉田拓郎は本ブログの主旋律だ。別けても“つま恋2006”は闘病後のクライマックスであった。いま読み返して、無い力を必死に振り絞って書き記そうとした健気さだけは感じ取れる。
 あんな『祭り』は、そこいらのアーティストが逆立ちしたってできやしない。一度の大花火ではない。31星霜を経て、再び夜空を百花繚乱で焦がしてみせる。その歴史に遭遇しただけでも幸せだ。


【「おかずを思う」か?】 06年11月30日  
 現代の「ことば」事情についてはずっと考え、幾度となく書いてきた。特に「思う」の多用。この言葉を筆頭に、多義性の高い言葉の乱用が日本語を細らせるのではないか。犬の遠吠えではあるが、時代の流れに抗っている。このブログでも、引用文以外では一度も使ったことがない。もう、意地だ。


【奇想、天外へ!】 07年2月28日
 原発はトイレなきマンションだ。核廃棄物をロケットに載せて宇宙の果てへ──まさに奇想天外である。ところが実際にアメリカで検討されたものの、技術的問題で立ち消えになっていた。そのことは昨年の本ブログで紹介した。しかし、この奇想を提起した狙いはそこではない。実現性を問うよりも、発想を阻害しているものに迫りたいのだ。宇宙的倫理観とでもいうべきものがあるのかどうか。
 かつてすべてを最終処分した大海のように、核廃棄物を宇宙の藻屑にはできないか。そう命題を措定した場合、どう答えるのか。そこを探ろうとしたのだ。
 核廃棄物の処理は“3.11”以来、いよいよ切迫しつつある。


【囚人の記 1~3】 08年1月29日~3月13日    
 生まれてはじめての入院、手術。三途の川を渡り損ねた顛末である。再読するに、なんとも身につまされる。当たり前か。


【一億総バカ化?!】 09年1月19日
 お笑い芸人の跳梁跋扈については何度も触れてきた。辟易を通り越し、義憤をも過ぎて、もはや諦念を抱くまでに至った。
 お笑いで名を売ることが、歌手、コメンテーター、司会、俳優や映画監督、さらには政治家の登竜門になっている。その現況を憂えた。もちろん、職業に貴賎はない。しかし、立ち位置はあろう。節操のない自由は社会の限りない退嬰を映している、といえなくもない。少なくとも、本物が消えつつあるのは事実だ。


【まぼろしか。】 09年5月17日   
 三木露風の「赤蜻蛉」。この童謡の定番に、分不相応な解析を試みた。2番の歌詞「まぼろしか」に拘ったのだ。1、3、4番の明晰な終わり方に比して、なぜ「幻影」なのか。そこに疑問を抱いたのだ。
 大根を政宗で切るようとはいうが、大樹を竹光で切ろうとするようなものだ。擦り傷ぐらいはついたかもしれない。


【私的演歌考】 10年8月31日 
 歌を演ずるのが演歌。女王・美空ひばりが呼ぶ感動は、巫女の憑依に応ずる群衆の共振ではなかったか……。
 加えて、昨年5月23日日付「ラジオじゃダメだよ」ではものまね芸に言及した。コロッケは芸だが、青木某は特技でしかない、と。これに類する稿は結構多い。いずれにせよ、「私的」芸能論である。
 

【町の衆(シ)も悪い】 11年3月10日 
 “3.11”の前日であった。偶然の一致だが、後の展開はタイトル通りだった。鶴亀鶴亀だ。
 選ぶ、つまりは選挙制度については、政治のあり方の主要テーマとして長く考えてきた。本ブログでも、幾度となく愚考を綴った。なんと、朝日が昨年12月から「カオスの淵源──壊れる民主主義」と題する特集を掲載し始めた。斬新な切り口で興味深い内容だ。期せずして問題意識が一致した。先見の明と自惚れるつもりはないが、議員定数の削減などという目眩ましよりは喫緊で重い課題だ。


 石の上にも3年という。その伝なら、倍の間座りつづけている。虚仮も一心ともいう。いかな駄文でも500回も続ければ、少しは様になるだろう。お付き合いいただいている皆さまに深謝したい。大きな節の記念に、今稿は干上がりそうな我が田に水を引いてみた。他愛のない戯れ事とお見逃し願いたい。
 死して後已むなどと高言はできないが、団塊の世代の、その欠片の与太話を引き続きお聞きいただければ、幸甚、幸甚。 □