伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

“断捨離” と “ときめき”

2012年01月07日 | エッセー

 『ダンシャリ』というから、新手の占いだろう。『“ときめく”片づけ』だから、恋愛相談か。はじめのうちはそんな風に聞いていた。ところが、大まちがい。整理術、片づけ術であった。術どころか、人生論にまで行き着くらしい。むっくりと好奇のムシが疼いて、昨年末から2、3読んでみた。
 実をいうと、私は整理マニアだ。数十年前から「葉隠」を気取って、「片づけとは捨てることと見つけたり」などと揚言してきた。モノではなく知的な片づけでは、「『超』整理法」の第一期生ともいうべき忠実な実践者である。モノでも同じで、散らかっていると落ち着かないどころか、怒りを覚える。とにかく、やたら捨てる。捨てては、後で捜し回る。時には常識、良識も捨てる。ために、顰蹙を買う。
 ところが荊妻は逆だ。根が吝嗇なのであろうか。散らかそうという悪意はないものの(たぶん)、片づけようという善意もない(きっと)。よって、「捨てろ! 捨てろ!」の連呼となる。ついに強制執行に及ぶ寸前で、やっと重い腰が上がる。ずいぶん昔だが、一度にまとめて大量に捨てさせたことがあった。100円ショップの荒物、バザーで買ってきた什器、食器の類い。それに明らかに引き出物とおぼしき掃除機、死蔵されていたにちがいない土鍋などなど。要るからではなく、安いから買ったそうだ。わがセオリーに楯突く背信的行為である。ともあれ、そのようなジャンクをごっそりお捨て願った。ところがどっこい。数日後、隣接する物置に行って腰を抜かした。捨てたはずのモノがすべてそこにあったのだ! もう、宣戦布告である。戦闘は数日に及び、わが方が辛勝を得たものの、戦後処理は長きにわたった。まことに平和は得難いものである。
 
 まずは『ダンシャリ』だ。やました ひでこ女史のベストセラー「新・片づけ術 断捨離」でフィーバーした。ヨガの行法である「断行・捨行・離行」を日常生活に適用し、片づけ術へと仕上げた。
〓〓断とは、入り込んで来るモノを絞り込むこと。
   捨とは、不要なモノを手放すこと。
  離とは、モノへの執着から離れて自由になること。〓〓
 と説く。自分とモノとの関係を問い直し、人生を発見しようと訴える。それが身体の調和をもたらし、人間関係をも変えていくと。
 やました女史は01年よりクラター・コンサルタントとして全国各地を行脚し、「断捨離セミナー」を展開してきた。各界、各年代層から熱烈な支持を受けている。 標語風には、「きっぱり『断』つ! さっぱり『捨』てる! すっきり『離』れる!」となる。もちろん卓抜した技術的なノウハウもあるが、『ダンシャリ』という語感のよさが呼び水となったにちがいない。
 一方、「“ときめく”片づけ法」は「片づけオタク、片づけのプロ」を自任する近藤 麻理恵女史が創始者だ。15歳から本格的に片づけを研究してきたという女傑である(見かけはまったくちがう)。「一度片づけたら、絶対に元に戻らない方法」と豪語する。
 大枠は「断捨離」に似ているが、なんといっても『ときめき』がキーワードである。家庭科教育での「片づけ」の軽視を糾弾し、「片づけはマインドが9割」と説く。触った瞬間に「ときめき」を感じるかどうかが、捨てるか否かの見極めどこだと力説する。さらに「場所別」ではなく「モノ別」、毎日ではなく「片づけはお祭り」などなど、意表を突く「魔法」を連発する。たんびに目から鱗だ。そして、完璧な片づけで人生がときめくと誘(イザナ)う。
 「断捨離」よりも後発ではあるが、今や双璧をなす。「ときめかなくなったモノを捨てる。それはそのモノにとっての新しい門出。だから祝福してあげてください」などと諭されると、フェティシズムの臭気を感じなくもない。だが個人的な嗜好でいえば、こちらの方に引かれる。なにせ斬り口が鮮烈だ。『好奇のムシ』が喜ぶ、喜ぶ。

 喜んでばかりはいられない。そもそも捨てざるを得ないほどに、なぜモノが溢れるのか。「断捨離」の背後にあるモノ余り社会はこのままでいいのか。本当に「断捨離」すべきは、この社会のあり様(ヨウ)そのものではないのか。
 かつても引いたが、養老孟司氏の忘れられない言葉がある。
「部屋の掃除をしてキレイになっても、掃除機の中はゴミだらけ」
 なにも件の双璧に冷や水をぶっかけるつもりはない。「掃除機」をわれらが住まう地球に置き換えれば、塵ひとつここから掃き出せはしない。そのような現実に、想が跳んだまでだ。 □